さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう! (この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)
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そうして、最先端=亀山郁夫登場。例によって例のごとくの話を始めるわけですが、途中から引用すれば、
「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を縦横に駆使する沼野充義と違って、こちら「間違っていると知る能力すらない」最先端=亀山郁夫は実に正直に話をしています。 自らもこれまでに多数の学生たちの論文を指導してきたはずであるにもかかわらず、最先端=亀山郁夫は六十歳を過ぎてなお、かつての自分の卒業論文が「冷徹な日本語の使い手である」原卓也によって評価されなかったことの理由を「文章が生硬である。誤字脱字が目立つ」という点に帰してしまえるんです。「内容にまで踏み込んだ批評をいただくこと」ができなかったことの意味をいまだに理解できないわけです。私はその最先端=亀山郁夫の論文を読んでなんかいませんよ。でも、現在の最先端=亀山郁夫の読解能力からすれば、それがどんなものだったか、いや、どんなにひどいものだったか、容易に想像がつきます。 そうして、原卓也を形容するのに「冷徹な日本語の使い手である」というのは、もちろん最先端=亀山郁夫自身が「冷徹な日本語の使い手」ではないことを意味していますが、ここにはちょっとした打算があって、最先端=亀山郁夫は会場の聴衆と、この本の読者ともを自身と同レヴェルだといっているわけです。つまり、みなさんだって、『カラマーゾフの兄弟』を読むのなら、あんな「冷徹な日本語の使い手」の翻訳じゃなくて、むしろその「冷徹な日本語の使い手」に一蹴されるくらいの私の翻訳を読みますよねえ。みなさん、私の翻訳を「読みやすい」といってくださるわけですものねえ。いやはや、「冷徹な日本語の使い手」の翻訳なんか、みなさん、ものすごく読みづらいですよねえ。やっぱり、翻訳は「いま、息をしている言葉で」のものじゃなくてはねえ。 さて、先に進みましょう。
自分が「間違っていると知る能力すらない」最先端=亀山郁夫の右の発言の実質は、先の「ゼミの指導教官であった原卓也先生」が「加賀乙彦さん」に代わっただけですね。実に最先端=亀山郁夫らしい発言です。 ところで、最先端=亀山郁夫がここで「加賀乙彦さん」の名前を持ち出したのには、姑息な理由があります。「加賀乙彦さん」という名前が ── 「原卓也先生」同様に ── 最先端=亀山郁夫にとって、さらにこの公開対談を観客にとっての「権威」なんですね。最先端=亀山郁夫は、その「権威」と自分との対立を口にすることによって、自分の「権威」を観客にアピールしたいんです。 そうして、この場合の「権威」というのは、常に最先端=亀山郁夫の考えている路線上での「権威」だということに注意しておきたいものです。つまり、最先端=亀山郁夫が自身のセールス・プロモーション路線上で「公認」する「権威」です。この路線上にない「権威」は「公認」されません。「ゼミの指導教官であった原卓也先生」は先行訳『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者でもあり、最先端=亀山郁夫の経歴から消すことができません。「加賀乙彦さん」は、最先端=亀山郁夫の考えている路線上で対談もしていますから、これも「公認」せざるをえません。ただ、おそらく最先端=亀山郁夫は「加賀乙彦さん」からもひたすら「おほめの言葉をいただけるものと期待していた」のだと思います。一部であれ、批判が加えられるとは思ってもいなかったでしょう。しかし、とにかく批判は加えられてしまったので、これは消すことができません。だから、この対談の席でもそのことには触れるんです。触れたうえで、「でもねえ、あのひとはキリスト教徒で、私は神を信じていないから」と問題をごまかすわけです。 しかし、繰り返しますが、最先端=亀山郁夫は自ら「公認」しない「権威」にはけっして触れません。私が何をいいたいのかというと、こうです。最先端=亀山郁夫はここで「木下豊房」と「萩原俊治」の名前を出すべきだったのじゃないか? 最先端=亀山郁夫はかつて、せっかくその二人が彼と「公開討論」をしたいと申し出てくれたことがあったにもかかわらず、逃げ出していました。
その二人がネット上でずっと自分を批判しつづけていることを、最先端=亀山郁夫は口にすべきだったのじゃないか? もちろん、最先端=亀山郁夫にそんなことはできません。また、もし最先端=亀山郁夫がそんなことをしていたら、さすがの沼野充義も助けを出すことができません。最先端=亀山郁夫にとって「権威」とはテレビやラジオや雑誌上 ── それも、あくまで自分が望んだ路線でのものに限り、不意打ちのように「誤訳問題」を扱ったものではありません ── で公開されるような類のものです。ネット上でだけ展開されているようなものは「権威」ではないんですね。いま最先端=亀山郁夫が「加賀乙彦さん」の名前を持ち出したのは、そうすることで公平を装いながら自分のネット上での評判を黙殺することが可能になるからです。 それはさておき、「私自身は、神を信じてはおりません。そして、ドストエフスキーが自らをそう呼んだ不信と懐疑の読者として、ドストエフスキーの文学を味わい、読む姿勢をずっと貫きつづけているつもりでいます」というのはひどい。「ドストエフスキーが自らをそう呼んだ不信と懐疑」と最先端=亀山郁夫自身の「不信と懐疑」とを同一のものなどとどうしていいうるのか? 両者はまったくべつのものです。最先端=亀山郁夫にはドストエフスキーの「不信と懐疑」がどこへ向おうとしていたか、どれほど苦しいものであったか、がまったく理解できていません。だから、最先端=亀山郁夫にはアリョーシャが見えないんです。そんなひとが『カラマーゾフの兄弟』を訳してはいけないんです。これについて私はずっと書きつづけてきました。 さらに、「キリスト教信仰とはまったく関係のない場で、自分なりに『カラマーゾフの兄弟』を読み、その世界と裸で向き合っている、しかも大きな喜びをそこから得ているという現実」と「信仰者」としての「加賀乙彦さん」を対立させるのもおかしいと私は思います。最先端=亀山郁夫はそういう対立の構図を作り出すことによって「加賀乙彦さん」の自分への批判を封じ込めているでしょう。「信仰者」でなくても「加賀乙彦さん」の主張は十分に理解できるものです。 |