「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(11) またも、おさらいです。 この一連の文章の最初で、私は光文社文芸編集部編集長駒井稔を「大馬鹿者」といい、こう書いたんでした。
いやいや、この通りでしたとも。右の文章を書いて、ほぼ一年半がたちましたけれど、まったくこの通りでした。「あまりにひどい想像でしょうか?」なんて遠慮していた自分が馬鹿に思えます。 その私は、もっと以前に、こうも書いていたんでした。
つまり、「ふつうのひとたち」=「「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひと」たちということになりますね。世のなかに「ベストセラー」というものを成立させてしまうひとたちです。 いいですか? 世のなかの「ベストセラー」というものも、「権威」をありがたがるひとたち ── 自分の読む本を自分で選ぶことのできないひとたち ── がつくりあげています。そのひとたちにはとてつもない「永遠の悩み」があるんですよ。これです。
そうして、「権威」をありがたがるひとたち ── 自分の読む本を自分ひとりで選ぶことのできないひとたち ── に向かって、「権威」とされているテレヴィだのラジオだの新聞だの雑誌だののマスメディアのひとたちがこうしゃべります。彼らは次の引用における「天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たち」の味方だと主張するんです。
世のなかの「ベストセラー」について考えるとき、結局必ず右の視点をはずすことはできないんですね。 また、これも引いておきましょう。
私は以前に「ベストセラー」というのは「蔑称」だといいました。つまり、「ベストセラー」をつくりあげているのは「《誰の前にひれ伏すべきか?》」に頭を悩ますひとたち、「天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たち」であり、「馬鹿者たち」だということです。そうして、このことに触れるのをためらうひとたちがいます。「それをいっちゃ、おしまいよ」というひとたちですね。「それをいえば、この私が他人を見下す傲慢な人間ということになってしまう」と恐れるひとたちもいるでしょうし、また、その構造の上で商売をしているひとたち ── たとえば、出版社社員とか書店員(私だ!)ですね。やれやれ。 |