「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない 1 萩原俊治氏の「こころなきみにも」における最先端=亀山郁夫批判をずっと ── 何度も、繰り返し ── 読んでいますが、最近までどうしてもわからないことがありました。
萩原氏は、最先端=亀山郁夫批判の最初から何度も右の主張を繰り返しています。そうして、まず私にわからなかったのは、「ドストエフスキーの作品のプロット(諸事実の因果関係)には、無数の「穴」が開いている」ということでした。私はそういうことを考えたことがありませんでした。なるほど、いわれてみれば、たしかにその通りです。その通りなんですが、私はそのことを意識したことがありませんでした。私がこの四半世紀ほどやってきたことは、そのことを自覚しないまま、その「穴」を自分流に「埋めて」いくことでした。私は単に作品に合わせて自分をチューニングし、作品が私に要請する ── と私に思われる ── ままに読んできただけです。「ドストエフスキーの作品のプロット(諸事実の因果関係)には、無数の「穴」が開いている」ならば、読者はその「穴」を埋めないでは読めないわけです。そうして、どんなふうに私がそれらの「穴」を「埋めて」きたかということを、私はここまで書きつづけてきたんでした。萩原氏の主張は、私にとって「自明の事柄」ではありませんでした。 さらに私にわからなかったのが、「この穴を読者が埋めてゆくとき、私たちの「正体」(ハナ・アーレントのいう"who")が明らかになる。そしてそれを論文などで世間に発表すれば、論者の正体が暴露される」ということです。私が真っ先に考えたのは、── それならば、この私の正体も暴露されているわけだ ── ということですね。とはいえ、私は自分の読みを公開しなくてはなりませんでしたし、おそらく今後もそうでしょう。なぜなら、最先端=亀山郁夫を批判するためには、批判者が「じゃあ、お前はどう読んでいるんだ?」に答えなくてはならないからです(しかし、この点については後でもう一度触れます)。それに、この批判においては、研究者でもない素人の読者に最先端=亀山郁夫訳がどう見えるかという視点が重要でもあるはずだからです。つまり、このいわゆる「誤訳問題」が専門の研究者の内輪揉めなんかでは断じてありえないということを示す必要がありました。この問題が一般の読者にとっても非常に重要であるということ、逆にいえば、一般の読者がドストエフスキー作品を読むのにさして支障のない、専門家レヴェルの高度な問題に過ぎないなどという誤解をされないようにする必要がありました。そのために、私が自分の読みをさらすことによって「隠しておきたいような自分の恥部まで公衆の面前で明らかになる」としても、しかたがありません。 いや、実をいえば、それらのことがなぜ私にわからなかったのかが私にわかっていなかったんです。なぜわからなかったかがわかってみれば、萩原氏の主張は私にとって非常に納得のいくものでした。 私にわからなかったのは、同じ『カラマーゾフの兄弟』という作品を読んでいながら、その作品のプロットの「穴」を「埋めて」いく読者たちの、その「埋め」かたにどれほど多様な実例がありうるかということだったんです。私は、細かな差異はあるにしても、誰もがほぼ私と同じ読みかたをしているだろうとばかり考えていたんですね。最先端=亀山郁夫の読みだけが、そこからあまりにもかけ離れ、突出してとんちんかんな読みだから、私が自分の読みを提出すれば、それでこの「連絡船」の読者も同意するだろうくらいにしか考えていなかったわけです。ところが、どうやら実際はそうでもないらしい、いや、全然そうではない、ということを、私はようやく最近になって認識しました。もちろん、最先端=亀山郁夫の読みが突出してとんちんかんであることは揺るぎもしませんが、それほどまででなくとも、世のなかには私に理解しがたい読みが多数あるのだということです。しかもそれが、真剣な ── どうやら研究者を含んで ── 読者のなかにあるのだ、ということです(最先端=亀山郁夫が「真剣な研究者」のうちに含まれないことはいうまでもありません)。 おそらく萩原氏は、彼自身の読みの変遷をも踏まえてはいるでしょうが、他人の読みの膨大な実例をこれまでに見てきたからこそ、「この穴を読者が埋めてゆくとき、私たちの「正体」(ハナ・アーレントのいう"who")が明らかになる。そしてそれを論文などで世間に発表すれば、論者の正体が暴露される」というのだと思います。 萩原氏はさらに「自尊心の病」ということを何度も強調しています。自分の「自尊心の病」に気づいていないひとには『地下室の手記』以降のドストエフスキー作品を理解することができないというんです。
そうして、こうつづけます。
ドストエフスキーが自らの「自尊心の病」に気づき、そのことを自覚的に作品として書き始めたと萩原氏はいい、そのために、それ以降(『地下室の手記』以降)のドストエフスキー作品を読む読者も、作者同様に自らの自尊心の病に気づいていないと、作品を理解できない、というんです。 さて、ここでも私がずっと引っかかっていたのが、私自身が自分の自尊心に気づいている者なのかどうか、ということでした。私が自分を「自尊心の病に憑かれた者」ではないといいきれるのかどうか。 私は結局、私自身が自分の自尊心に気づいている者である、といってもいいんですが、これを積極的にいう気にならないんです。話がややこしくなりますから、あまり説明しませんが、私はもうかなり昔に、そのようなことで自分を問い詰めることを意識的にやめてしまっているんです。自分を試すな、自分を秤にかけるな、ということでずっとやってきたつもりです。自分をむやみに試したり、秤にかけたりすることが、必ず短絡的で極端な結論、馬鹿馬鹿しくうさんくさい結論を出してしまうことを私はよく知っているつもりです。のんびりだらだらが私の信条です。まあ、それはいいでしょう。 そうして、それよりも、ここでも私が知るべきだったのは、先ほどと同様に、自分の自尊心に気づいていないひとたち、「自尊心の病に憑かれた」読者たちの目に『カラマーゾフの兄弟』がどのように見えるのか、その実例だったんですね。もちろん、最先端=亀山郁夫はその実例に違いありませんが、あくまで極端な、これほどまでの馬鹿もありえないという代物で、そんなものは例外中の例外だと私は思っていました。繰り返しますが、私は、ほとんどの読者が私と同じように『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるだろうとばかり思っていたんですね。ところが、これもまた違いました。いま、そのことを私は ── 非常な驚きとともに ── はっきりと認識しています。 さて、「自尊心の病に憑かれた」読者の目に『カラマーゾフの兄弟』がどのように見えるのか? 結論からいえば、「自尊心の病に憑かれた」読者には、この小説の主人公アリョーシャが見えないんです。 最先端=亀山郁夫を典型的な例として引いてみます。
あるいは、
また、
さらに、
やれやれ。 |