連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



卑怯者=沼野充義の『これからどうする』

(この章は昨二〇一三年十一月十八日に書き上げていたものです)

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 では、次、沼野充義の文章 ── 「未来の世界文学の場を創る」。もちろん、こちらもいくつかに分割はしていますが、全文を引用しています。

 「これからどうする」と問われても、正直なところ、何もどうにもならないのではないか、という無力感をぬぐい去ることができない。第一線の若手として頑張ってきたつもりが、気がつけばいつの間にか、還暦もそう先のことではなくなり、たいていの座で年長者の部類に入り、なにかにつけ乾杯の音頭を取れなどと言われる年齢にさしかかってしまった。それなのに、いまだに自分のことと自分の周囲の小さな世界のことで手一杯、学生や同僚たちとの日常的な人間関係さえうまく調整できず、家庭でも息子がドラムばかりたたいていてろくに授業に出ないので心配したり、今晩のカレーは美味しく作れたと喜んだり、まあそういう次元に生きている人間なので、日本全体に関わる社会問題や、まして地球環境について何か偉そうなことを言うべき柄ではとうていなさそうだ。
(沼野充義「未来の世界文学の場を創る」 『これからどうする』岩波書店 所収)

 さすがに最先端=亀山郁夫と違って、沼野充義には作文能力があります。ふつうに読めます。巧みに書き出しました。といっても、ここで私のいうのは、いわゆる作文能力についてのことに過ぎません。どうでもいいことをどうでもいい程度にすらすら書いて、作文能力のないひとを感心させる類の、あるいは、学校で先生に褒められる程度の、どうでもいい文章の作文能力です。そういう作文能力だったら、私にもあります。そんな作文なんてお茶の子さいさいです。いくらだってできます。やりませんけれどね。やりたくもないし。しかし、本当に素晴らしい文章というのは、そういうものでは全然ないんです。ついでにいえば、最先端=亀山郁夫にはこの程度の作文能力すらないんです。

 とはいえ、この第一段落は非常に重要です。単に上手な作文というだけではありません。非常に狡猾なアリバイづくりが最初から周到に実行されているんです。流し読みするのでなく、よく記憶しておいてください。

 冒頭の ──

 「これからどうする」と問われても、正直なところ、何もどうにもならないのではないか、という無力感をぬぐい去ることができない。
(同)

 ── から、

…… (中略) …… まあそういう次元に生きている人間なので、日本全体に関わる社会問題や、まして地球環境について何か偉そうなことを言うべき柄ではとうていなさそうだ。
(同)

 ── まで、とにかく自分を小さな人間、小さくて「よい人間」、平凡で非力な人間に見せようとしています。自分が何かしたって、この世のなか何も変わらない、というように。しかし、沼野充義は現役で仕事をしており、しかも、そのなかでも「年長者の部類」に入っているわけです。私が具体的に補足をすれば、沼野充義は東京大学の教授であり、日本ロシア文学会会長であり、海外文学と日本文学とに精通し、ふたつの仲介者として、また、村上春樹や大江健三郎と親交のある者としてマスメディアに頻繁に登場する人物なんです。その沼野充義が、こうしてお気楽に自分の非力や小ささを、読者の誰もが安易に共感できるような調子でいろいろ並べている文章なんです、これは。

 さあ、それで、この後どうつづけたか?

 しかし、年相応の責任というものもあるだろう。権威的にふるまうことを嫌う我々の世代は、あまりにも物わかりのいい優しい親であったがために、しっかり建っていた家を崩れさせてしまったのかもしれない。そうだとしたら、子どもたちのためにも未来の故郷をきちんと見つける手助けをしなければならないのではないか。そんなことを思うようになった決定的なきっかけは、やはり、二〇一一年の大震災だった。今から考えると、起こったこと以上に怖いのは、「あれほど」のことが起こった後では人は前と同じではいられないだろう、と当初抱いた期待が見事に裏切られたという事態ではないか。復興支援のお金はきちんと使われず、地球の環境と未来の幸福のことを考えて原発を廃止しようという決断ものらりくらりと回避されつつあるうえに、「あれほど」の大事故を起こしながらこれまで原発を推進してきた頭のいい人びとのうち、誰一人として頭を丸めることも、自分の全財産をなげうって被災者のために余生を捧げようと決心することもなかった。
(同)

 お気楽な感じで「しかし、年相応の責任というものもあるだろう」 と書きました。先の段落で自分を小さな人間、小さくて「よい人間」、平凡で非力な人間に見せようとしたおかげで、こうした、まるで他人事のような「年相応の責任というものもあるだろう」も読者にすんなり受け入れられそうです。
 さらに、「権威的にふるまうことを嫌う我々の世代は、あまりにも物わかりのいい優しい親であったがために、しっかり建っていた家を崩れさせてしまったのかもしれない」と来るわけです。「権威的にふるまうことを嫌う我々の世代」です。ここまで自分自身のことを語ってきた沼野充義は、ここで「我々の世代」といいだすことで、大量の共犯者をつくり上げます。つまり、これはひとり沼野充義の問題ではなく、彼の「世代」の問題なのだというわけです。それゆえ、沼野充義が「年相応の責任もあるだろう」などと書いたのは、自分の責任ではなく、「世代」の責任であって、曖昧で、実体のないものです。沼野充義自身に何ら具体的な反省もないし、後悔もないし、実のところ責任など「ないとはいえないだろう」と思うだけで、「ある」とは思えていないんです。そうして、「しっかり建っていた家を崩れさせてしまったのかもしれない」ですよ。現状認識すらしっかりしていないんです。つづくのが「そうだとしたら」ですからね。それに、私は思うんですが、「そうだとしたら」でなくても、ひとは「子どもたちのためにも未来の故郷をきちんと見つける手助けをしなければならない」のじゃないでしょうか?

 さらにこの後が最悪です。

 そんなことを思うようになった決定的なきっかけは、やはり、二〇一一年の大震災だった。今から考えると、起こったこと以上に怖いのは、「あれほど」のことが起こった後では人は前と同じではいられないだろう、と当初抱いた期待が見事に裏切られたという事態ではないか。復興支援のお金はきちんと使われず、地球の環境と未来の幸福のことを考えて原発を廃止しようという決断ものらりくらりと回避されつつあるうえに、「あれほど」の大事故を起こしながらこれまで原発を推進してきた頭のいい人びとのうち、誰一人として頭を丸めることも、自分の全財産をなげうって被災者のために余生を捧げようと決心することもなかった。
(同)

 この段落のみならず、この文章全体で私が最も驚いたのは、沼野充義が自分自身と「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」とをまったく切り離していること・切り離して平気でいることでした。自分と「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」とが、まるでまったくべつの存在ででもあるかのようです。どうしてこんなことがいえるのか?

 沼野充義は「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」の「責任」を問うているわけです。「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」には重大な「責任」があると。そうして、「これまで原発を推進してきた頭のいい人びとのうち、誰一人として頭を丸めることも、自分の全財産をなげうって被災者のために余生を捧げようと決心することもなかった」ことを非難しているんですよね。

 私は沼野充義に訊いてみたい。もし、沼野充義のいう「あれほど」のことが起こった後で、「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」が、次のように弁明したら、沼野充義はどう感じるのか?

 「これからどうする」と問われても、正直なところ、何もどうにもならないのではないか、という無力感をぬぐい去ることができない。第一線の若手として頑張ってきたつもりが、気がつけばいつの間にか、還暦もそう先のことではなくなり、たいていの座で年長者の部類に入り、なにかにつけ乾杯の音頭を取れなどと言われる年齢にさしかかってしまった。それなのに、いまだに自分のことと自分の周囲の小さな世界のことで手一杯、学生や同僚たちとの日常的な人間関係さえうまく調整できず、家庭でも息子がドラムばかりたたいていてろくに授業に出ないので心配したり、今晩のカレーは美味しく作れたと喜んだり、まあそういう次元に生きている人間なので、日本全体に関わる社会問題や、まして地球環境について何か偉そうなことを言うべき柄ではとうていなさそうだ。
(同)

 あのね、「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」もおそらくずっと「第一線の若手として頑張ってきたつもり」だったんですよ。そうして、実は最初から常に「日本全体に関わる社会問題や、まして地球環境について」考えていなければならない「人びと」だったんです。でも、それをしなかった。それぞれが「日本全体に関わる社会問題や、まして地球環境について何か偉そうなことを言うべき柄ではとうていなさそうだ」と思っていたんじゃないんですか? しかたないよねえ。だって、みんな「いまだに自分のことと自分の周囲の小さな世界のことで手一杯、学生や同僚たちとの日常的な人間関係さえうまく調整できず、家庭でも息子がドラムばかりたたいていてろくに授業に出ないので心配したり、今晩のカレーは美味しく作れたと喜んだり、まあそういう次元に生きている人間」なんだものなあ。で、おそらく「権威的にふるまうことを嫌う我々の世代」ででもあるんじゃないのかなあ? 

 沼野充義はどう答えるでしょうか?
 こうでしょう(たぶん、顔を真っ赤にしながら)。そんなことじゃない、仕事についての、人間としての「責任」の話なんだよ! 「いまだに自分のことと自分の周囲の小さな世界のことで手一杯、学生や同僚たちとの日常的な人間関係さえうまく調整できず、家庭でも息子がドラムばかりたたいていてろくに授業に出ないので心配したり、今晩のカレーは美味しく作れたと喜んだり」なんてことは、この「責任」には関係ないんだよ!
 そうすると、ここまで沼野充義のいってきたことはどうなるんでしょう? 沼野充義自身の、彼自身がとぼけて「年相応の責任というものもあるだろう」なんていって、彼に「責任」なんてものがないかのようにいってきたのは、彼の仕事についての、人間としての「責任」とは関係ないわけです。つまり、沼野充義にも「責任」はあるし、それはこれまでもずっと自覚していなければならなかったものなんです。
 それとも、自分は例外だけど、やらかしちゃった他人を責めることはできる、ってことですか? これは十分ありうるでしょう。というか、そもそもそういう文章なんじゃないですか? 沼野充義ってひとはそういうひとじゃないんですか?

(つづく)

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