(二六)『海辺のカフカ』と『カラマーゾフの兄弟』 ちょうど二十歳になる直前のぎりぎりのところで、私は、ドストエフスキーの最後の長編小説群を『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の順 ── これは書かれた順・制作順でもあります ── で読み、この体験はそれから四半世紀を過ぎようとするいまもなお太く強く尾を引いています(この順で読んだのには、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の影響があるだろうと思います。『悪霊』の次に書かれた『未成年』はいまだに読んでいないんです。それはともかく、「いまもなお太く強く尾をひいてい」ることがすべてよいなんてふうには私は考えてはいません。よくなかったこともある。それでもそうなっちゃったんですよね)。 ドストエフスキーは死ぬまで上昇しつづけた稀有な作家 ── ほとんどの作家はやはりそれぞれの生前のある時期にピークを迎えてしまい、その後はどうしても下降してしまうんです ── だと私は思っていて、私にとって、彼の最後の作品『カラマーゾフの兄弟』は「世界最高の小説」で、数年前に新潮文庫の帯(上・中・下の三巻のそれぞれに)── 書店員に自筆で新潮文庫の帯を書かせる企画(毎月数点。たしか一年くらいつづいていました)があったんですね ── に私はそう書いて、「これを超える小説は今世紀も出ませんよ。断言。きっぱり。」とつづけたんでした。この帯には他にもいろいろなことを書きましたが、今後私が死ぬまでに読み返す回数として、『悪霊』がこの作品を上回ってしまうことへの懸念も含んでいます(現時点でもおそらく『悪霊』の方を多く読み返しているでしょう)。また、「日本最高の小説」が北杜夫の『楡家の人びと』であるとも書きましたっけ。 私はこれまで何度か電車で隣に座った若いひとが『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるのに出くわしてもいて(なんてすごい確率なんだろうと自分で思います)、彼らがそのときこの作品のどの箇所にさしかかっているのかまでを横目で確認しながら、「君はいま「世界最高の小説」を読んでいるんだぞ」と心のなかで呼びかけるわけなんでした。 ちょっと村上春樹を引用します。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」という、そのアリョーシャ・カラマーゾフのことですが、たとえば、彼はある婦人の依頼で、ある非常に貧しい男に金を渡そうとするんですね。いったんは金を受け取りそうになった男が最後にこれを拒否して、アリョーシャの仕事は失敗します。その後で、アリョーシャはべつの女性に事の次第を話し、こんなふうにいうんです。
どうですか? おかしいでしょう? 変わった奴でしょう? それより彼のこのやりかたが、いけすかない、傲慢なふうに思われたでしょうか? しかし、『カラマーゾフの兄弟』の全体を読んでいないひとに納得してもらうのはむずかしいかもしれませんけれど、アリョーシャは真面目に心からこう思っているんですよ。彼は、なんというか、怯まないんですね。で、私のいまいった、この「怯まない」をもし彼が聞いたとして、そのとき彼はこの「怯まない」の意味をちゃんと理解するでしょうね。なにがいいたいかというと、彼は「怯む」ことをちゃんと知っているということなんです。彼は「怯まない」けれど、天真爛漫に「怯まない」のではなくて、自分が「怯む」可能性を大いに自覚しながらも「怯まない」んです。実際に彼がどんなことにどんなふうに「怯む」のか、私にはわかりませんが、それでも、彼は他人が「怯む」ことを知っていて、それは単に知識としてそうであるのではなく、ほんとうにすみずみまでを自分のことのように理解できるんですね(まったくべつの作品を引けば、ワーグナーの描いたジークフリートは恐れを「知らない」から恐れないのであって、知りながら恐れないのではないんです)。これはすごいことなんです。彼にはキルケゴールのいう「謙遜な勇気」があるんです(『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとは、ぜひキルケゴールの『死に至る病』── 先にいったドストエフスキーの長編小説群の読書の前に、私はこの本を読んでいましたし、ついでにいえば、すでに『ツァラトゥストラはこう言った』を読んでいたニーチェの『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『この人を見よ』なんかも同じ頃に読みましたっけ ── も読んでみてください。しかし、もしそれらの作品を読めば、あなたは確実に深く傷つくことになるともいっておきますけれど)。 さて、もう一度村上春樹。
もちろん私は「『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部言える人間」なんですが(それどころか、この作品に出てくる犬の名前だっていえます)。 それはともかく、今度はカート・ヴォネガット。
その『カラマーゾフの兄弟』で、私がいちばん好きな箇所、そうして、最初の読書からのこの四半世紀ずっと私が考えざるをえなくなってしまった箇所のひとつをここで引用してみます。いろんなことがわかるアリョーシャ・カラマーゾフならではのことばが飛び出します。彼は兄イワンと話しています。
それで、次に同じドストエフスキーの『罪と罰』から。これは数年前に江川卓 ──「はじめに」でもいいましたが、このひとの訳で読むことを薦めます ── の翻訳が岩波文庫から出たときにあらためて読み返したんですが、そのときびっくりしたんですよ。「あっ」と思ったんです。
どうですか? もう一度、今度は順番を逆に ── つまり、作者の制作順に ── 短く引用しなおしますが、
というわけで、『カラマーゾフの兄弟』において、ドストエフスキーは『罪と罰』ですでに自分がやっていたことの裏返しをしているんですね(というか、そうなっちゃったんですね)。なんというか、サヨナラ満塁ホームランという感じです。すごい。こうして『罪と罰』再読によって、『カラマーゾフの兄弟』の株が私のなかでさらに上昇したことはいうまでもありません。 しかし、これを読んで、なんのことかと思われたでしょうか? 意味不明でしたか? 「僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」ってなんだ? そんなことをいう奴があるか? しかし、アリョーシャなら、いえるんですよ。この作品において、アリョーシャだけが「ああ、こいつならいうかもしれないよな」と、作中人物にも、読者にも合点のいく人物として描かれているんです。もちろん、彼は周囲からちょっとおかしな奴と思われています。こんなことをいえるアリョーシャ、そうして、彼を存在させたドストエフスキーとが、私にはほとんど奇跡のように思われるんですが……。 いったいなぜ私がこの四半世紀ほども、この「あなたじゃない!」にこだわってきたか、それをいまここで説明することができればいいんですが、どうやらできません。ちらっといえば、ひとは罪の意識について、自分自身のみで決着をつけることができないんですね、たぶん。 イワン・カラマーゾフが罪の意識に苦しむ。それをアリョーシャが否定してやるためには、アリョーシャ自身にイワンの意識がはっきり想像できていなければなりません。彼にはそれができています。単なる気休めで彼は「あなたじゃない!」といったのではありません。そのことがもちろんイワンにもわかる。だからこそ、イワンは激しく動揺するんです(ある意味では、アリョーシャは、この後でイワンが対話することになる「悪魔」と同等の想像力を持っているということになります。これは未読のひとにはわからないでしょうが)。イワンひとりでは断ち切ることのできない罪の意識を、そっくりそのまま理解したうえで否定してくれる存在 ── それがアリョーシャで、このアリョーシャのもっと向こうには、これより以前にイワンが「大審問官」の話をする直前にアリョーシャの口にしたあるひとがいるわけです。そのときイワンはこう返したんでした。
もうひとついえば、私は以前にドストエフスキーの『おかしな人間の夢』を紹介しましたっけ。そのとき私はこういったんでした。「自分のどんなこともさらけ出してかまわないと思える誰か、自分のどんなことも赦して受け入れてくれる誰かの存在は途方もなく貴重です。」 ここで、村上春樹の『海辺のカフカ』なんですが、これは『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとが書いた小説だな、と思ったものです。 すでに『海辺のカフカ』を読んだひとがどう感じるのだかわかりませんが、たとえば、これはどうですか?
で、こうつづきます。
どうでしょう? すでに『海辺のカフカ』を読まれたひとには、なにかしらの反応が見込めるのではないかと私は考えているんですけれど。 しかし、まあ、それはいいんです。私は『海辺のカフカ』における、田村カフカ少年とナカタさんとの関係を考えているんです。 その前に、またべつの作品について。 ポール・マッカートニーに『Live and let die』という歌があります。私がこの歌を思い浮かべるのは一九八九 ― 九〇年のツアー ── 私は東京ドームに行ったんですね ── の録音(『Tripping the Live Fantastic: Highlights』)です。オリジナルのスタジオ盤のものではなく。
で、この後、こう振り切ることになるんです。
(この歌詞についてウィキペディアにはこうありました。「The lyrics are sometimes criticized for the strange phrase but if this ever-changing world in which we live in, but that is actually a mis-hearing of the lyric but if this ever-changing world in which we're livin'. The correct lyrics are printed in the booklet for the Paul McCartney CD All the Best!」) つまり、ずっと「Live and let live」を信条にしてきた者が、やがてついに「Live and let die」といいだすことになるという歌なんですね。これがそのまま村上春樹に当てはまるだろうと、私は『海辺のカフカ』を読んだときに感じたんです。 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いたときの村上春樹は「Live and let live」あるいは「Die and let live」じゃなかったかな、と思うんです。これが『ねじまき鳥クロニクル』のあたりで変化してきた。そうして、『海辺のカフカ』では決定的に「Live and let die」になってしまったのじゃないか。これは、直接的に「悪」ないし「邪悪」対「自分」という構図が前面に出てきてこうなってしまった、という気がするんです。 私がここで「悪」ないし「邪悪」というのは、
── にあるようなものですね。で、いま引用した文章の先にはこうあります。
あるいは、さらに数年を遡る作品では、
これに通じるものとして、べつの作家の作品から引用すると、
もう一度いいますが、私の印象では、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の頃の村上春樹が「Live and let live」あるいは「Die and let live」だったとすれば、『海辺のカフカ』での彼は「Live and let die」じゃないか、と思うんですよ。これは、どうしても受け入れることのできない邪悪なものが、この世にはたしかに存在するのだという認識、それも「let die」に直結するほどの認識からそうなるんだと思うんです。しかし、同時に、もしかすると自分自身さえもがその邪悪なものになりうることまでも知っているわけです。それは自分自身にとって非常に恐ろしいことです。先の「沈黙」がそういう話ですが、それ以上のレヴェルで、ということだと思うんです。 たしかに存在する邪悪なもの ── それに自分は与しない。そうして、自分が無意識にも与しないように自分を見張る、ということ。 そこで、またもべつの作品から引用します。
ちょっとだけ補足すれば、こういうことです。死刑制度をもつ日本という国の国民 ── あなたです ── は、死刑囚の死に間接的に同意しています。イラク戦争に協力する日本という国の国民 ── あなたです ── は、イラクでの膨大な数の人間の死に間接的に同意しています。あなたは「不可避的にそういう死を引起すものであった行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもして」います。まだまだ例を挙げることはできるんですが、あなたのごく平穏な日常はそういう死の上に成り立っていると、とりあえずは、そういうことです。
で、こういうことにすると、自意識のひどい悪循環 ── 自分自身への際限のない問いかけと否定 ── のなかに取り込まれてしまうのじゃないかと私は思うんです。自力での脱出は不可能と思われるくらいの悪循環です。 そこで、アリョーシャ・カラマーゾフなんですね。父親殺しの犯人が自分以外の誰でもないと考えて苦しむ兄イワンに向かって、そのことを指摘もし、しかも「あなたじゃない」と断言してやれるような、恐ろしく貴重な存在です。思い出してください、「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」。 もし自分自身を邪悪なものと区別できなくなってしまうようなら、「Live and let die」ということはできなくなってしまうんですよ。いったん邪悪なものの存在を認識した者は、それと自分とをはっきり区別できるような強さと感性を持ち合わせていなくちゃならないんです。そうでないと「Die and let die」になってしまうんです。 だから、『海辺のカフカ』では、田村カフカ少年とナカタさんとがペアにならざるをえないんですよ。もっといいましょうか? 田村カフカの父親を殺したのは誰ですか? ジョニー・ウォーカーさんを殺したのは誰ですか? こういい換えてみましょうか? 殺していないのは誰ですか? 田村カフカ少年は、この作品において、父親を殺したのはこの自分ではない、と確信する必要が絶対にあった ── つまり、それは彼にとって非常に困難であったということです ── んです。この構造は村上春樹が『カラマーゾフの兄弟』の読者だから設けることのできたものなんだと私は考えます。『カラマーゾフの兄弟』なしにこの構造はありえません。そう考えます。 ややこしかったでしょうか?(もうこれは、少なくとも『海辺のカフカ』を読んだひとにでなければ、通じない話になってしまいました。) この文章は、『海辺のカフカ』出版当時(二〇〇二年)に私の書いた文章をもとにしています。私はこの作品を発売前に新潮社から渡されたバウンドプルーフで読んでいたんですね。それで、読後感を書き送ったわけです。新潮社の営業によれば、こうしてバウンドプルーフを読んだ書店員たちの文章は作者本人が必ず目を通すということでしたっけ。 このときからいままで私は『海辺のカフカ』を読み返していません。 なぜ、いまここでこんなことをまたいうかというと、ちょっと前にある出版社の営業(入社からまだ数か月)としゃべっていて、たまたま話題が村上春樹に及んだときに、簡単にこのことを説明しようとして、できなかったからなんですね。それで、いま一度、ほぼ五年前の自分の考えていたことを確認しようと思ったわけです。 さて、それで、『海辺のカフカ』で、この村上春樹の試みは成功したかどうかというと ── 彼もヴォネガットと同様に『カラマーゾフの兄弟』を「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」と考えているとは思いますが ──、どうだろう、といまの私 ── 当時はもっとよい評価をしていたんですけれど ── は首をかしげるんですね。おそらく、私のいちばん大きい疑問は「責任」の扱いですね。ここでは説明しませんが。 そのことと関係がなくはないと思いますが、なんというか、ある時点から村上春樹は「読者のために」書くようになってしまったんじゃないでしょうか? 「作品それ自体のために」書かなくなったのじゃないでしょうか? で、ついでですが、もうひとつ。この作品についての論評ではよく『オイディプス王』(ソポクレス)が引き合いに出されるんですけれど、まあ、それはそうだろうとは思いながら、私にはむしろ『選ばれた人』(トーマス・マン)の方が思い浮かんでいましたね。これは当時からそうでした。もうちょっというと、同じ村上春樹の『アフターダーク』の「語り手」を問題にする論評のなかに『魔の山』(トーマス・マン)への言及の見当たらない ── 私が見つけていないだけかもしれませんが ── のも私には不思議なんです。 追記。ポール・マッカートニーの『Live and let die』ですが、邦題は『死ぬのは奴らだ』です。ジェームズ・ボンド=007の映画の主題歌だったんです。映画のタイトルとしてはともかく、この訳はよくないですね。「死ぬのは奴らだ」というつもりで、私のここで書いたことを読むと、たぶんわかりづらくなるでしょう。 |