(二三)翻訳の問題 ── その一 『母なる夜』 カート・ヴォネガットの『国のない男』(NHK出版)── 出るなりすぐに買って読みました ── ですが、訳者は金原瑞人。なぜ(早川書房でなく)NHK出版なのか? なぜこの訳者なのか? なぜ浅倉久志や飛田茂雄じゃないのか? まずは、そして、読みながらもそう思いました。 たとえば、こういう箇所。
私はなにが不満なのか?「バーニー・オウヘア」。 ヴォネガットを訳すのならば、既訳をみな読んでからにしてほしかった、というのが私の考えていることなんですね。長年にわたってヴォネガットを読みつづけてきた日本の読者が相当数いるという認識に立ってほしかった。他の作家についてなら私はこんなことはいいません。ヴォネガットは特別なんです。私は金原さんが間違っているといっているのじゃありません。しかし、「バーニー・オウヘア」。 お願いだから「オヘア」と表記してくれ、と私は思うわけです。長年のヴォネガット読者は「バーナード・オヘア」にすっかり馴染んでいるんですよ。私は金原さんがそれを承知で敢えて「オウヘア」を選択したとは思わないんです。
もうひとつ思ったのは、ヴォネガット自筆のイラストで、頻出する「*」を思わせる記号(?)の説明があってもいいのじゃないか、ということでした。よく見ると、彼のサインにも必ずついているあれのことをいっています。これは『パームサンデー』(飛田茂雄訳 早川文庫)を読んでもらえば、わかります(ということは、長年の読者なら承知のことではあります)。 それと、巻末の作品一覧ですね。『母なる夜』が池澤夏樹訳(白水社uブックス)しか記載されていないのはあんまりじゃないでしょうか? 絶版とはいえ、早川文庫の飛田茂雄訳も必ず記載すべきだった。なぜなら、私の考えでは、飛田訳の方が池澤訳より数段勝っているからです。『母なる夜』を読むならば、まず飛田訳です。(ついでにいえば、当の早川書房の「SFマガジン」二〇〇七年九月号 ── カート・ヴォネガット追悼特集 ── での飛田訳の扱いもなさけないものでした。未読の方は白水社=池澤訳の方を読んでください、早川書房でも一度は出版したことがあるんですけれどね、という形です。いけません。私は飛田訳を「epi文庫」で復刊してほしいと思いますが)。 『国のない男』については以上です。 というわけで、ここから、私は『母なる夜』のふたつの翻訳の優劣についていくらかしゃべります。 飛田茂雄が自身の翻訳のあとがきになんと書いているか。
つまり、飛田訳は後発(一九八七年)なんですね。池澤訳はまず白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊として一九七三年に、次いで、同社のuブックスとして一九八四年に出ています。いま私の手許にあるのがuブックスの一九九九年第八刷です。 ちょっとふたつの訳を並べてみます。
では、飛田訳を ──
どうでしょうか?
では、飛田訳を ──
どうですか? さて、ここで、優劣以前の話を。池澤訳の問題のある箇所を指摘します。
飛田訳では ──
で、原文は ──
ちなみに現実にブラームスの交響曲は四番までしかないんですよ(だから、私がこの箇所に気づいた ── ということは、二、三、四番のいずれかとして訳されていたなら、私は気づかなかった ── わけです)。ただ、そうだとしても、語り手のしゃべりのなかに五番というでたらめが入ってもいいんです(これはそういいかねない語り手だからです)が、池澤訳はそれとも違うんですね。なぜこんなことになったんでしょうか? ここを訳しながら、池澤夏樹の頭のなかで同じ作曲家の「ハンガリー舞曲」第五番が鳴っていたということはないか、とまで想像してしまいます。 さらにここで、もっと大変な箇所。
で、飛田訳。
原文は ──
しかし、原文を参照するまでもなく、池澤訳はおかしいです。意味が通りません。
どうですか? 日本語としておかしいでしょう? おかしいと思わなかったひとは、はい、さようなら、もう二度とここに来なくていいですよ。 で、飛田訳をもう一度。
これ、結構大事な場面なんですよ。 私は『母なる夜』をそもそも飛田訳で読んでいました。一度だけでなく、何度か読んでいます。ヴォネガット作品のなかでは ──『タイタンの妖女』と並んで ── いちばん通読の回数は多いだろうと思います。それが、あるとき池澤訳を読んで「あれ?」と思ったんですね。 というわけで、賢明なみなさんは、ヴォネガットの『母なる夜』なら古本ででも飛田訳を手に入れてお読みください。 ここで、釈明になります。いったんこの件に関して公開した文章(八月二十一日)を抹消し、あらためて書き直した文章(八月二十六日・二十七日)をここ(八月二十一日付)に出したわけですが、それは当初の文章があまりにも舌足らずであったためでもあります。また、私はこの間に白水社に連絡を取って、先に挙げた二点を報告しています。当の出版社に告げ知らせずにこの場所だけであれこれいうのもおかしいと思ったからです。この後で、これがどうなったかということを報告することになると思います。 池澤夏樹の「訳者のあとがき」から引用しますが、
この誤訳が「新しい世界の文学」シリーズのときにすでにあったもの(だとすると三十年以上誤ったまま)なのか、uブックスへの移行時に発生したもの(これでも二十数年誤ったまま)なのか、わかりません。 どうでしょうか? しかし、ブラームスの交響曲の番号違いはともあれ、「簡易食堂をキャフェテリアにする」過程で、「せめて挿絵さえ入っていれば!」に池澤夏樹は気づかなかったんですね。それは、翻訳者としてはむろんのこと、作家としてものすごく大きな過失ではないでしょうか? 結局「翻訳」の話になってしまいましたが、これに関しては、もうひとつべつの作品をここで採りあげることにします。 (二〇〇七年十月十日追記。 昨日、都内の書店で白水社uブックス『母なる夜』の「二〇〇七年六月二十日 第十八刷」を見ました。「挿絵」の部分は正しい訳に変わっていました。しかし、ブラームスの方は「交響曲第五番」のままでした。) |