連絡船 ── 航行記(第一期・第二期)



(二三)翻訳の問題 ── その一 『母なる夜』

 カート・ヴォネガットの『国のない男』(NHK出版)── 出るなりすぐに買って読みました ── ですが、訳者は金原瑞人。なぜ(早川書房でなく)NHK出版なのか? なぜこの訳者なのか? なぜ浅倉久志や飛田茂雄じゃないのか? まずは、そして、読みながらもそう思いました。

 たとえば、こういう箇所。

 わたしは友人の家を訪ねた。バーニー・オウヘア。軍隊仲間だ。そしてわたしたちは、大戦中、捕虜としてドレスデンにいた頃のことを思い出そうとした。
(カート・ヴォネガット『国のない男』 金原瑞人訳 NHK出版)

 私はなにが不満なのか?「バーニー・オウヘア」。

 ヴォネガットを訳すのならば、既訳をみな読んでからにしてほしかった、というのが私の考えていることなんですね。長年にわたってヴォネガットを読みつづけてきた日本の読者が相当数いるという認識に立ってほしかった。他の作家についてなら私はこんなことはいいません。ヴォネガットは特別なんです。私は金原さんが間違っているといっているのじゃありません。しかし、「バーニー・オウヘア」。

 お願いだから「オヘア」と表記してくれ、と私は思うわけです。長年のヴォネガット読者は「バーナード・オヘア」にすっかり馴染んでいるんですよ。私は金原さんがそれを承知で敢えて「オウヘア」を選択したとは思わないんです。

 ドレスデンへの旅には、戦友のバーナード・V・オヘアが同行した。オヘアと私は……
(カート・ヴォネガット『スローターハウス5』 伊藤典夫訳 早川文庫)

 インディアナポリスに関するわたしの思い出は、いまや戦友のバーナード・V・オヘアの死でゆがめられた。オヘアはインディアナポリスと薄いつながりがあった。
(カート・ヴォネガット『死よりも悪い運命』 浅倉久志訳 早川書房)

 まあ聞いてほしい ── そこにはドイツ軍もいた。まだ武装しているが、すっかり戦意を失い、ソ連軍以外の降伏の相手をさがしていた。相棒のバーナード・V・オヘアとわたしは、何人かのドイツ兵と話をした。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』 浅倉久志訳 早川文庫)

 わたしは、パイロットの胸ポケットの上にある名札に、ちらと目をやった。名札にはこうあった ──

 バーナード・オヘア大尉
(カート・ヴォネガット『スラップスティック』 浅倉久志訳 早川文庫)

 いくつかの箇所では、罪もない現存の人々に迷惑やそれ以上のものが及ぶことを恐れて、名前を変えておいた。たとえばバーナード・B・オヘアや……
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 もうひとつ思ったのは、ヴォネガット自筆のイラストで、頻出する「*」を思わせる記号(?)の説明があってもいいのじゃないか、ということでした。よく見ると、彼のサインにも必ずついているあれのことをいっています。これは『パームサンデー』(飛田茂雄訳 早川文庫)を読んでもらえば、わかります(ということは、長年の読者なら承知のことではあります)。

 それと、巻末の作品一覧ですね。『母なる夜』が池澤夏樹訳(白水社uブックス)しか記載されていないのはあんまりじゃないでしょうか? 絶版とはいえ、早川文庫の飛田茂雄訳も必ず記載すべきだった。なぜなら、私の考えでは、飛田訳の方が池澤訳より数段勝っているからです。『母なる夜』を読むならば、まず飛田訳です。(ついでにいえば、当の早川書房の「SFマガジン」二〇〇七年九月号 ── カート・ヴォネガット追悼特集 ── での飛田訳の扱いもなさけないものでした。未読の方は白水社=池澤訳の方を読んでください、早川書房でも一度は出版したことがあるんですけれどね、という形です。いけません。私は飛田訳を「epi文庫」で復刊してほしいと思いますが)。


『国のない男』については以上です。

 というわけで、ここから、私は『母なる夜』のふたつの翻訳の優劣についていくらかしゃべります。

 飛田茂雄が自身の翻訳のあとがきになんと書いているか。

 正直に申しますと、早川書房から『母なる夜』の文庫版についての打診があったときには、光栄とは思いながらもかたくなにご辞退いたしました。この作品には池澤夏樹氏による立派な翻訳があることを記憶していたからです。池澤氏の翻訳はただ読みやすいだけでなく、ヴォネガット独特の語り口を見事に再現しております。しかし、現在も刊行されている他社の翻訳をハヤカワ文庫に使用するわけにはいかない、といった事情の説明を含む熱心な要請に負けて、結局お引き受けしたのは、なんと言ってもこの作品に対する並々ならぬ愛着のせいです。愛着があればこそ、すべてにわたってわたしなりの解釈を貫きましたが、池澤氏の翻訳から教えられたことも少なくありません。特に記して感謝の意を表します。
(飛田茂雄「訳者あとがき」 『母なる夜』早川文庫)

 つまり、飛田訳は後発(一九八七年)なんですね。池澤訳はまず白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊として一九七三年に、次いで、同社のuブックスとして一九八四年に出ています。いま私の手許にあるのがuブックスの一九九九年第八刷です。

 ちょっとふたつの訳を並べてみます。

 アイヒマンは、ちょうど今わたしが自分の人生をこうやって書いているように、彼の人生を書いているところだった。この顎なしの羽をむしられたおいぼれ鳥、六百万件の殺人を釈明しなくてはならない男は、わたしにむかって聖者のように微笑した。
 ……(中略)……
「六百万のユダヤ人を殺した罪がご自分にあるとお思いですか?」と私は言った。
「全然思わない」と、アウシュヴィッツの建設者、ベルト・コンベアー式火葬場の開発者、チクロン=Bと呼ばれるガスを世界で一番たくさん買いこんだ男は言った。
 ……(中略)……
 アイヒマンは冗談を言った。「いいかね ──」と彼は言った、「あの六百万のことだが ──」
「はい?」とわたしは言った。
「きみの本のために少しわけてやろう」と彼は言った。「実際わたしはあんなにたくさんはいらないんだよ」
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 池澤夏樹訳 白水社uブックス)

 では、飛田訳を ──

 アイヒマンは、いまわたしが回想録を書いているのと同じように、自分の生涯のことを書いているところであった。六百万人を虐殺した理由を釈明しなければならない、この ── 羽をむしられたハゲタカを思わせる ── あごなしの老人は、わたしに対して聖者のような微笑を見せた。
 ……(中略)……
「あなたは六百万人のユダヤ人の虐殺に関して有罪だとお考えですか」とわたしはたずねた。
「全然思わんね」と、アウシュヴィッツ監獄の建設者であり、火葬炉へのベルトコンベアーの導入者であり、チクロンBというガスを世界一大量に消費したこの男は答えた。
 ……(中略)……
 アイヒマンは冗談をとばした。「ところで ──」と彼は言った。「あの六百万人のことだが ──」
「はあ?」
「きみの本のために少し分けてやってもいい」と彼は言った。「正直言って、六百万人全部は必要ないと思うんでな」
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 どうでしょうか?

「あるところまでは化学だと思うんだ」と彼は言った。
「何が?」とわたしは言った。
「いやな気持になることが」と彼は言った。「そういう発見じゃなかったかい ── 化学物質がたくさんあってっていう?」
「知りません」とわたしは言った。
「読んだことがある」と彼は言った。「今研究中のことの一つらしい」
「おもしろそうですな」とわたしは言った。
「人にある化学物質をやると、そいつは気狂いになる」と彼は言った。「そういう研究もあるらしい。すべてが化学物質かもしれない」
「なるほどね」とわたしは言った。
 ……(中略)……
「そうなんだ」と彼は言った。「もう少し考えてみてほしい」
「はい」と私は言った。
「ぼくはいつも化学物質のことを考えている」と彼は言った。「学校へ戻って化学物質について今までわかっていることを全部調べてみようかとときどき思うよ」
「おやりになるといい」とわたしは言った。
「もう少し化学物質のことがよくわかるようになったら」と彼は言った。「もう警官もいらないし、戦争も、精神病院も、離婚も、酔っぱらいも、青少年の不良化も、堕落する女の人も、なにもかも、なくなるかもしれない」
「すばらしいでしょうね」と私は言った。
「可能なんだ」と彼は言った。
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 池澤夏樹訳 白水社uブックス)

 では、飛田訳を ──

「ひとつには化学物質のせいだと思う」と警官は言った。
「なにが?」とわたし。
「めいってしまうこと」と警官は言った。「そういう発見がなされているんだろう ── 憂うつ症の多くは化学物質のせいだという?」
「知りませんねえ」とわたし。
「そう書いてあったよ」と彼は言った。「いま発見されている一連の事実のひとつだって」
「とても面白い」とわたし。
「ある人の体内にある種の化学物質を入れると、その人は気が狂う」と彼は言った。「そのことも研究中だそうだ。万事が化学物質のせいかもしれない」
「大いにありうる話ですね」とわたし。
 ……(中略)……
「そうとも」と警官は言った。「もう少し考えてくれ」
「いいでしょう」
「ぼくは寝てもさめても化学物質のことを考えている」と警官は言った。「時には、学校に戻って、化学物質についてこれまで発見された事実を全部調べてみたいとさえ思う」
「ぜひそうなさい」とわたしは言った。
「化学物質についてもっと多くのことがわかったら、きっと警察官も、戦争も、精神病院も無用だし、離婚も、アル中も、少年の非行も、堕落した女やなんかもなくなるかもしれない」
「確かにそれはすばらしいことだ」
「実現は可能だよ」
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 どうですか?

 さて、ここで、優劣以前の話を。池澤訳の問題のある箇所を指摘します。

 そして、その闇の中で、ガーガーザーザーという短波の雑音が聞こえ、フランス語が一瞬、ドイツ語が一瞬、それにおもちゃの笛で演奏しているようなブラームスの交響曲第五番が一瞬聞こえ ── やがて、はっきりと大きく ──
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 池澤夏樹訳 白水社uブックス)

 飛田訳では ──

 そのあと、真っ暗闇のなかで短波放送特有のカリカリザーザーという雑音がしたかと思うと、フランス語の断片、ドイツ語の断片が聞こえ、つぎにカズー笛で演奏しているかと思われるような、ブラームスの第一交響曲のこれまた断片が流れ ── そのあと大きくはっきりした声で ──
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 で、原文は ──

 And then, in the darkness, there was the crackle and susurrus of the short - wave static, a fragment of French, a fragment of German, a fragment of Brahms’ first Symphony, as though played on a Kazoos ? and then, loud and clear ?
(Kurt Vonnegut “Mother Night” Vintage U.K.)

 ちなみに現実にブラームスの交響曲は四番までしかないんですよ(だから、私がこの箇所に気づいた ── ということは、二、三、四番のいずれかとして訳されていたなら、私は気づかなかった ── わけです)。ただ、そうだとしても、語り手のしゃべりのなかに五番というでたらめが入ってもいいんです(これはそういいかねない語り手だからです)が、池澤訳はそれとも違うんですね。なぜこんなことになったんでしょうか? ここを訳しながら、池澤夏樹の頭のなかで同じ作曲家の「ハンガリー舞曲」第五番が鳴っていたということはないか、とまで想像してしまいます。

 さらにここで、もっと大変な箇所。

「せめて挿絵さえ入っていれば!」とわたしはワータネンに憤慨して言った。
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 池澤夏樹訳 白水社uブックス)

 で、飛田訳。

「せめてイラストさえなければ!」とわたしは憤慨をワータネンにぶつけた。
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 原文は ──

 ‘If only it weren’t illustrated!’ I said to Wirtanen angrily.
(Kurt Vonnegut “Mother Night” Vintage U.K.)

 しかし、原文を参照するまでもなく、池澤訳はおかしいです。意味が通りません。

「せめて挿絵さえ入っていれば!」とわたしはワータネンに憤慨して言った。
「そんなに違うことかね?」と彼は言った。
「破壊行為ですよ!」とわたしは言った。「絵は言葉を破壊するものです。あの言葉は絵をつけるつもりで書いたものじゃない! 絵がついたのでは言葉は別のものになってしまう!」
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 池澤夏樹訳 白水社uブックス)

 どうですか? 日本語としておかしいでしょう? おかしいと思わなかったひとは、はい、さようなら、もう二度とここに来なくていいですよ。

 で、飛田訳をもう一度。

「せめてイラストさえなければ!」とわたしは憤慨をワータネンにぶつけた。
「同じことじゃないかな」とワータネンは言った。
「文書毀損罪ですよ!」とわたしは言った。「絵は言葉を毀損するにきまっています。あの作品の言葉は絵解きを想定していなかった。絵が伴うと、本来とは違う言葉になってしまうんです!」
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 これ、結構大事な場面なんですよ。


 私は『母なる夜』をそもそも飛田訳で読んでいました。一度だけでなく、何度か読んでいます。ヴォネガット作品のなかでは ──『タイタンの妖女』と並んで ── いちばん通読の回数は多いだろうと思います。それが、あるとき池澤訳を読んで「あれ?」と思ったんですね。

 というわけで、賢明なみなさんは、ヴォネガットの『母なる夜』なら古本ででも飛田訳を手に入れてお読みください。

 ここで、釈明になります。いったんこの件に関して公開した文章(八月二十一日)を抹消し、あらためて書き直した文章(八月二十六日・二十七日)をここ(八月二十一日付)に出したわけですが、それは当初の文章があまりにも舌足らずであったためでもあります。また、私はこの間に白水社に連絡を取って、先に挙げた二点を報告しています。当の出版社に告げ知らせずにこの場所だけであれこれいうのもおかしいと思ったからです。この後で、これがどうなったかということを報告することになると思います。

 池澤夏樹の「訳者のあとがき」から引用しますが、

 この翻訳は一九七三年に白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊として刊行され、今回のuブックス版に至っている。今回は怠惰な訳者もさすがに少々訳文に手をいれ、簡易食堂をキャフェテリアにするといった程度の改善を試み、一見やさしい英語ながらつくづく訳しにくい文体であることをまたも痛感させられた。
 それはそれとして、これだけながく読みつづけられる本となったのは訳者望外の喜びである。
(池澤夏樹「訳者のあとがき」 『母なる夜』白水社uブックス)

 この誤訳が「新しい世界の文学」シリーズのときにすでにあったもの(だとすると三十年以上誤ったまま)なのか、uブックスへの移行時に発生したもの(これでも二十数年誤ったまま)なのか、わかりません。

 どうでしょうか?

 しかし、ブラームスの交響曲の番号違いはともあれ、「簡易食堂をキャフェテリアにする」過程で、「せめて挿絵さえ入っていれば!」に池澤夏樹は気づかなかったんですね。それは、翻訳者としてはむろんのこと、作家としてものすごく大きな過失ではないでしょうか?

 結局「翻訳」の話になってしまいましたが、これに関しては、もうひとつべつの作品をここで採りあげることにします。



 (二〇〇七年十月十日追記。 昨日、都内の書店で白水社uブックス『母なる夜』の「二〇〇七年六月二十日 第十八刷」を見ました。「挿絵」の部分は正しい訳に変わっていました。しかし、ブラームスの方は「交響曲第五番」のままでした。)

(二〇〇七年八月)