「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その六 1 前回(=その四 ── 余計な「その五」が割り込んでしまいましたが、本来はこちらが「その五」になるはずでした)、キリストは個々の「人間の顔」を愛するのだ、彼の愛は「人類全体」に向けられるものではなく、生身のひとりひとりの人間それぞれに向けられるものであって ──『カラマーゾフの兄弟』においては、「人類全体」を愛するのと、生身のひとりひとりの人間それぞれを愛するのとは全く違うことです ── 、「大審問官=イワン」もそのことを承知していた、と私はいいました。今回もそのつづきです。 私は「第五編 プロとコントラ」におけるイワンとアリョーシャの会話がどのように「大審問官」へとつながっていったのかを追ってみます。なぜそうするかといえば、いままで私が「大審問官」とそれまでの会話とのつながりを明確に理解していなかったからなんですね(ここでも私は亀山訳に感謝します。こんなでたらめな訳がなければ、私がこのことをこうまで考えることもなかったわけです)。「大審問官」も、それまでの会話も、惹きつけられて読んだくせに、両者がいったいどのようにつながっているのか、私には長いことわかっていませんでした。つまり、両者を別個のものとして読むことしかできなかったんです。しかし、両者のつながりを理解することができれば、なぜイワンが叙事詩「大審問官」を創作したのか(叙事詩「大審問官」は何のためにあるのか)、さらには、『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置や意味までが明らかになる、と私はいまからいっておきます。それが明らかになれば、亀山郁夫の「大審問官」解釈がどれほど荒唐無稽なものであるかがはっきりするでしょう。 さて、イワンとアリョーシャの会話で、イワンはこんなふうにいって、「大審問官」へとつながっていく話を始めたんでした。
まず、イワンはこういいました。
それで、イワンは「なぜ《この世界を認めないか》」の説明にかかりますが、このような断わりを入れるんですね。
傍線部のイワンのことばをアリョーシャも理解しています。しかし、アリョーシャは「でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ」というんです。イワンは即座にそれを否定します。それでもイワンは、自分や「数知れぬほど多くの人たち」には持ちえない愛をキリストが持っていたことは認めているんですね。つまり、イワンによれば、キリストになら「相手が姿を隠してくれ」なくても、「相手が顔を見せ」ても「人を愛する」ことができるわけです。そして、こういいます。「俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな」。 (会話のこの部分における、キリストはロシア語原典でも「キリスト」と書かれているようです。ここで、「なんだよ、イワンとアリョーシャとの会話のなかには、ちゃんとキリストの名まえが出てくるじゃないか」と、以前の私の主張の不備を指摘する方があるかもしれません。) イワンは話を先へ進めます。
イワンは「相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる」ので、ここからは専ら「子供」に限定して話すことになるわけです。
そうしてイワンは、裸にされ、犬に噛み殺された少年の話をするんでした。
こうして、アリョーシャの反応から、イワンは自分の論証の正しさを確信します。「この地上にはばかなことが、あまりにも必要なんだよ。ばかなことの上にこの世界は成り立っているんだし、ばかなことがなかったら、ひょっとすると、この世界ではまるきり何事も起らなかったかもしれない」ということが、最初の「俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ」に結ぶことになります。
さらに、
ここまでのところを整理しますよ。 「神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できない」というイワンがその理由を説明するにあたっての前提は、「まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけ」ということでした。その際、「人間の顔」が愛の妨げとならないのはキリストだけだということを認めています。イワンは、しかし、「相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる」ので、「子供たちの苦悩」に論点を絞ります。どんなことがあっても、「子供たちの苦悩」は償いえない、「この地上にはばかなことが、あまりにも必要」だし、「ばかなことの上にこの世界は成り立っている」んです。「この世界」とは、もちろん「神の創った世界、神の世界なるもの」のことです。「神の創った世界、神の世界なるもの」を認めないので、イワンは「神を認めないわけじゃない」けれど、「ただ謹んで切符をお返しする」というんです。 さて、ここで、イワンの論証の破れ目があるんです。彼の論証にはまだ一点、欠けている部分があります。 傍線部「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」に、その破れ目・欠如が存在します。イワンはむろん、わざとこの破れ目・欠如をアリョーシャの前に提出したんです。 先の「ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」のつづきはこうでした。
それまでのイワンの論証の破れ目・欠如 ──「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」にある ── というのは何でしょうか? 考えてみてほしいんですが、イワンのその問い ──「赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」── に対して「そういう存在はない」という答えが返ってくるなら、イワンの論証は完結するんです。ところが、そうではありません。「そういう存在はある、それはあの《ただ一人の罪なき人》だ」という答えが返ってくるんです。 先に「銃殺です!」といい、「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」といい、いまも「いいえ、承諾しないでしょうね」、「いいえ、認めることはできません」といったアリョーシャにもなしえないことを、かつてなしえたひとがただひとりだけいたんです。
ここで、キリストは、このイワンとアリョーシャの会話の最初にあったように ── 「人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな」── 単純に「神」として片付けられたりはしていません。ここでのキリストは「人間」です。それも、「知恵の実を食べてしまった」人間の大人としての存在でもありません。《ただ一人の罪なき人》なんです。しかも、彼は人間として血を流したのでもありました。 つまり、イワンはここまでの論証がアリョーシャを含めた「人間」には通用する ── 彼らを論破できる ── ことを承知はしていても、ただひとりキリストにだけは通じないことを知っているんです。「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」にだけは、彼の理屈は通じません。イワンはこのひとにだけは頭が上がらないんです。このひとにだけには単純に「謹んで切符をお返しする」というわけにはいきません。キリストは、イワンのなかでそれほどまでに大きい存在なんです。イワンはキリストを信じています。キリストこそ、「神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できない」というイワンの前に立ちはだかる唯一の大きな存在なんですよ。 だから、イワンは今度は、さらにキリストに・キリストだけに向けて、自分なりの回答をしなくてはなりませんでした。それが叙事詩「大審問官」です。「大審問官」はこのためにあります。 それゆえ、「大審問官」においても、そのキリストの位置や意味は不動です。これは、動かしたら、イワンの回答が無効になってしまいます。イワンは必ず「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」に向けて回答しなくてはなりません。「その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストという存在に回答しなくてはならないんです。これは絶対に動かすことができません。大審問官=イワンは、その不動のキリストに向かって、ただ自分の考えを述べることしかできません。これはもう最初から作者イワンの承知していることでした。 そういうわけで、私はいいますが、
── ありえません。 イワンは、ただ自分の考えを述べることしかできません。 イワンの論証はここまでキリスト以外の人間を「論破」することができたわけですけれど、もうここからは「論破」云々ということのできないレヴェルに移行することになります。ここからは、叙事詩「大審問官」の読者 ── キリスト以外の人間 ── の共感を得られるかどうかということにはなるでしょうけれど、大審問官=イワンがキリストそのひとに対して「論破」云々などというレヴェルで向き合うことなど絶対にできないんです。なぜかといえば、「あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストに、イワンが何をいおうが、その愛を変更させることなどできないからです。「論破」云々の土俵にキリストを引き入れることなんかできません。それでも「論破」云々にこだわって、その視点 ── もはや愚劣・低劣な視点としかいいようがありませんが ── から無理やりいうなら、イワンにキリストを「論破」することはできません。イワンが何をいおうが、キリストには「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」んですし、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することができるんですよ。最初からイワンの負けは決まっています。 これまた、そういうわけで、私はいいますが、
── 亀山郁夫のこの問いは、もはや愚劣・低劣な視点としかいいようがありません。繰り返しますが、大審問官=イワンはキリストを自分の土俵に引き入れることすらできないんです。「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すこと」ができ、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛する《ただ一人の罪なき人》が、いったいどうして顔の見えない「人類全体」をしか愛せないひとりの人間の思想・行為を承認・祝福なんかするんですか? 亀山郁夫がそれを可能だと思った時点で、彼が「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」をまったく理解できなかったことが露呈します。亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』の読者として失格です。 さて、キリストに向けて、イワンが叙事詩「大審問官」において、どのような論点 ── といっても、キリストはそんなことには答えませんよ ── を持ち出したかというと、こうです。「あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストの、その愛は人間にとってあまりにも大きすぎ、高すぎたというんです。
そうして大審問官は、自身としてははっきりキリストの愛を理解しているけれど、「弱く卑しい」人類のために「欺瞞を受け入れ」て、「人々を今度はもはや意識的に死と破滅へ導かねばならない。しかもその際、これらの哀れな盲どもがせめて道中だけでも自己を幸福と見なしていられるようにするため、どこへ連れてゆくかをなんとか気づかせぬよう、途中ずっと彼らを欺きつづけねばならない」というんです。大審問官には「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛するなんてことはできませんから、「人類」を軽蔑しつつ愛することになるわけです。 大審問官の語る ── キリストを前にしての ── 思想・行為の是非は当の大審問官自身がなにもかも承知しているわけです。是非はどうかといえば、非です。大審問官は、その非を承知で、敢えて自分の思想・行為を選択し、それをやりつづけてきたわけです。大審問官は、とにかくキリストに話したいから話すだけです。彼もキリストに自分の思想・行為の是非を問いません。キリストはただ、ひとりの苦悩する人間を前にしているだけだし、大審問官もひとりの苦悩する人間としてキリストの前にいるだけなんです。 つまり、「大審問官」とは、「謹んで切符をお返しする」というイワンの主張のキリスト向けヴァージョンだということになります。 くどすぎるのを承知でいいますが、大審問官にキスするキリストは、「あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在のままのキリスト、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストそのままでなければなりません。そのキスは彼の思想・行為に向けられたものでなく、ただ彼というひとりの苦悩する人間に向けられたものにすぎません。前回(=その四)で私がいったように、キリストが大審問官の話を全然聞いていなかったということにしてもいいわけです。たとえば、大審問官の話しているのがスペイン語だったとして、キリストにはまるっきりスペイン語がわからなかったということにしてもいい、ということになります。イワンがそのつもりで「大審問官」を創作しただろうと私は考えます。 2 あなたが『カラマーゾフの兄弟』の「第五編 プロとコントラ」中のイワンとアリョーシャの会話から読み取らなくてはならないのは、何よりもまずこの作品における《ただ一人の罪なき人》イエス・キリストなんだと私はいいます。あなたがキリスト教について何も知らなかったとしても、イワンとアリョーシャの会話から逆に読み取っていってほしいんですね。これはまた、「自由」ということの大きさ・恐ろしさを、あなたが「大審問官」を読むことであらためて(あるいは初めて)認識するのと同じように、そうしてほしいんです。というのも、大審問官はキリストが人間に与えようとした「自由」がどれほど大きく・恐ろしいものであるかを問題にして、人間にはそんなものを受け入れる力がないと主張するからです。大審問官の思想・行為を理解するためには、絶対にキリストの愛がどのようなものであるかを知らなくてはなりません。 キリストの愛を受け入れることがどれほど困難であるか(キリストがどんなに「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれに向けて手をさしのべつづけているか ── を含んで)、人間にはどれほどこれが理解不能で、「恐ろしい贈り物」だと思われるか、ということがわからないと、「大審問官」を読むことはできません。 ここで私は再びキルケゴールの『死に至る病』から長い引用します。私がこれまで何度かアリョーシャに関して口にした「謙遜な勇気」ということばが出てきます。
いまの引用の後半「さてキリスト教は如何!」から最後までをもう一度読み返してみてください。ある意味で、これが『カラマーゾフの兄弟』の全体です。この小説に「躓き」を抱えていない人物がいますか? 自分を「嫉視」していない人物がいますか?「自己自身に対して最も悪意を抱いている」のでない人物がいますか? 全登場人物がそれぞれに「躓き」を抱えています。そうして、この小説の全体に、彼らへさしのべられた《ただ一人の罪なき人》の手が描かれていないでしょうか? さしのべられたその手にそれぞれの登場人物がどのように反応するか、その応答が『カラマーゾフの兄弟』ではないですか? そういう「応答の小説」として『カラマーゾフの兄弟』を読むことを私はあなたに薦めます。 アリョーシャの「あなたじゃない」も、そのようにさしのべられた手のひとつです。「あなたじゃない」は、イワンの自分自身への「嫉視」・「悪意」の否定です。さらにいえば、実は、イワンだけでなく、この「あなたじゃない」を必要としていない登場人物が『カラマーゾフの兄弟』にいるでしょうか? どうでしょう? これでもまだあなたには、キリストのキスが大審問官の思想・行為を承認・祝福するものだなんて考えられますか? 3 というわけで、ここまでのところを理解していただいた方に私がプレゼントするのは、ものすごく読解力のない呆れた二人組による力みかえった傑作対談(私はこの対談の全部を読んでいません)からの引用です。
はいはい、「文学的真実」ね。
はいはい、そうですか、「アリョーシャのキスはまさに犯罪」なんですね?
斎藤美奈子が実際に何といったか知りませんが、亀山郁夫はそれを褒めことばだと思っていていいんでしょうか?
ありません。 |