「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その五 今回はちょっと寄り道をします。とりあえず、ひとこといっておきたいんです。これについてはまた今後いろいろしゃべっていくつもりです。 NHKテキスト(カルチャーアワー 文学の世界)「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」が発売になりました。番組は、NHKラジオ第二放送で十月から十二月までの三か月間の放送予定。講師はもちろん亀山郁夫です。 「『カラマーゾフの兄弟』を読む」ではなくて、「新訳」の冠つきなんですね。呆れました。 さて、亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』第五巻の「解題」でこう書いていました。
傍線部を採りあげて私が書いたのはこうでした(二〇〇八年八月七日付け)。ここを木下豊房も彼のページで引用しています(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost128.htm 八月二十一日)。
そうして、出たばかりのNHKテキスト「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」がどうなっているか?
なんですか、この「最初のきっかけとなった経験」というのは? そういうからには、次の「きっかけとなった経験」があるんですよね? ところが、このNHKテキストでは「謎の訪問客」のエピソードが語られるものの、それが ── 「解題」にあるように ── ゾシマの修道院入りのきっかけだとは断わっていません。では、どこに次の「きっかけとなった経験」が書いてあるかというと、書いてないんですね。その他には、この文章になりますか。
いい加減にしてくれ、と私は思いますが、これは「解題」のこの部分に対応します。
ここで、いっておきたいんですが、私は八月七日付けの記述の時点で、上の「解題」中の文章を読んでいませんでした(私が「解題」の全体を読んだのは八月七日付けの文章を書きあげてから、八月二十四日付けの文章を書くまでの間でした。そのことはそれぞれの文章に書いています)。しかし、もし八月七日付けの文章を書く前にここを読んでいたら、もっとひどく亀山批判をしていたでしょう。それというのも、上の引用が何を前提にしているかというと、これなんですから。
あのねえ、と思います。ゾシマ長老の「信念」が「人間は大きな罪を経て、はじめてある世界に到達できる」だなんて、どこからそんなことを引き出してこれたんですか、このひとは? いやいや、話が逸れました。私が疑っているのは、「それこそは、ゾシマが修道院にはいる最初のきっかけとなった経験でした」という一文が、私の文章およびそれを引用した木下豊房の文章を受けてのものじゃないか、ということです。 これがもし、「そうして、ゾシマは修道院にはいる決心をします」という表現であれば、私も疑いませんでしたが、「最初のきっかけとなった経験でした」というのは怪しいのじゃないでしょうか? 因みに、七月は十七、十八、二十八日、八月は十四、十八、二十七日、九月は二、三、八、九、十、十六、十八、二十二、二十四日と、この「連絡船」へのnhk.or.jpからのアクセスが記録されています。この間に、NHKテキストの編集者と亀山郁夫とがどういうやりとりをしたのか、知りたいものです。そこで編集者がどう考えたかを知りたい。彼の内心の揺れがどのようなものであったかを知りたいんです。私はそこに希望を見出したく思います。つまり、彼が亀山郁夫に呆れたのであればいいと思うわけです。もうこんなひとに仕事を頼まない、と考えたのであればいいなと思うんです。 他の箇所も指摘しましょうか? 私はいいたいんですが、もし私の想像が正しいなら、こんな鬼ごっこみたいなことをしたってしかたがないんですよ。そもそも『カラマーゾフの兄弟』を訳していた時点での亀山郁夫の読み取りが問題なんですから。根本が駄目だから、枝葉のつじつま合わせをしても駄目なんです。だから、仮に亀山郁夫が今度は本家の「解題」にまで修正を加えはじめることがあったとしても、駄目なんですよ。 さらにまた、こうもいいましょう。もし亀山郁夫がもう一度最初から『カラマーゾフの兄弟』を訳し直すということをしたとしても、駄目です。彼には無理だから。私は彼の個々の誤訳が正されればいいと考えているのじゃありません。彼の訳がなくなればいいと考えているんです。これは構造的な問題なのであって、表層の問題じゃないんです。 |