「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その四 1 前回(=「その三」)で、『カラマーゾフの兄弟』について私は「こんな機会でもなければ・こんな馬鹿な読みかたの見本さえなければ、私がこの作品についてここまであれこれしゃべることはなかっただろうと思うんです」といいましたけれど、「あなたじゃない」や「大審問官」についてあれこれ話すうちに、これまで明確には意識していなかった自分の読み取りをあらためて点検・整理することにもなり、それは有益だったと思っているんです。 「大審問官」については、前回の記述以降もいろいろ考えました。 どうやら私は、「大審問官」でキリストが相手をしていたのは、大審問官というひとりの苦悩する人間であって、彼の語る内容ではないのだと ── 二十五年前の初読以来 ── 読み取ってきていたんですね。他の可能性を考えてみることがなかった。そのことを今回初めて自覚しました。その読み取りからすると、キリストが大審問官の話を全然聞いていなかったということにしてもいいわけです。たとえば、大審問官の話しているのがスペイン語だったとして、キリストにはまるっきりスペイン語がわからなかったということにしてもいい、ということになります。キリストにとっては、大審問官というひとりの苦悩する人間が自分の目の前にいるという、そのことだけでよかっただろう。キリストにとっては、自分に向かってなにごとか懸命に訴えてくるひとりの苦悩する人間がいただけだろう、その人間がただそこにいるということだけが重要で、話の内容はどうでもよかったのではないか、ということです。 そんなふうに、苦悩する人間ひとりひとりの前にいる、というのがキリストだろう ── 私はそう考えているんですね。で、それは、こういうことにもなります。キリストは「人類全体」の前にいるのじゃありません。「キリスト対人類」という図はありえません。キリストは「人類全体」ではなくて、それを構成するひとりひとりの人間それぞれの前にいるんです。この違いがわかりますか? それを構成するひとりひとりの人間の総和が「人類全体」だから、キリストは結局「人類全体」を相手にしているんだよ、などといってはいけません。それは、私の考えていることの対極の考えになるんですよ。
もうひとつ、イワンとアリョーシャの会話から。
キリストは個々の「人間の顔」を愛するのだ、と私は考えているんです。キリストは、ひとが「食卓でいつまでも食べている」とか「風邪をひいていて、のべつ洟をかむ」とか、「身体が臭い」とか「ばか面をしている」とか、そういうことを全然苦にしないんですね。それどころか、それらのことゆえにさらに愛するかもしれません。 キリストは「人類全体」に語りかけたりしません。生身のひとりひとりの人間それぞれに語りかけるでしょう。 そうしてこれが、ゾシマ長老の、アリョーシャの愛にもつながっているだろうと思うんです。それは論理的・抽象的な愛でなく、実践的な愛です。 もうひとつ、アリョーシャとイワンの会話から。
ところが、イワンの大審問官は個々の「人間の顔」を愛することができません。彼が愛するのは「人類全体」なんですね。「人類全体」ということばは「論理」のことば ── 「意味」を欲し、理由を求めることば ── です。彼には個々の「人間の顔」が耐えがたいでしょう。しかし、彼は「人類全体」ならいくらでも愛することができるんですね。彼の理論はこういう愛の上に打ち建てられています。 そのくせ、大審問官はキリストに向かっては、自分の「人間の顔」を認めてもらいたいんです。ここでまた、「大審問官=イワン」ということを私は繰り返します。 「大審問官=イワン」はキリストの愛がどういうものであるか、はっきり承知していました。キリストの愛は「この地上では不可能な奇蹟」であり、「人間の顔」を持ったひとりひとりの人間それぞれに自由をもたらそうとしても無理だと考えているわけです。そこで、そんな愛から離れて、「人類全体」をうまく生かしてやることのできるシステムを彼は考えたんですね。 2 それで思い出したのが、木下豊房のページ(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120e.htm)で森井友人の指摘した「エピローグ」中の箇所なんです。
それは、こういうことです。
その後で、アリョーシャがこう話すんですね。
つまり、アリョーシャはコーリャの「全人類のために死ねれば」を自分のことばのなかで「僕はすべての人々のために苦しみたい」といい換えているんです。 それを亀山郁夫がどう訳したか?
亀山郁夫は、アリョーシャがせっかくいい換えたコーリャの台詞を元に戻して ── コーリャのことば通りにして ── しまいます。ということは、ドストエフスキーの書いた通りに訳さなかったんです。 この箇所について、森井友人が「死ぬ」と「苦しむ」との違いを問題にして、先の掲示板で書き込みを(「「死ぬ」か「苦しむ」か、それが問題だ」の表題で、ハンドルネーム「ソースケ」として)行なったんです ── 「アリョーシャがコーリャの台詞を言い換えて引用しているのなら、そこには、それなりの意味があるはずです(アリョーシャにとっても、また、作者にとっても)」。 ── と、以上のことを思い出して、私が気づいたのは、これは「死ぬ」と「苦しむ」との違いの問題であるとともに、実は「全人類のために」と「すべての人々のために」との違いの問題なのじゃないか、ということでした。 アリョーシャはここでもゾシマ長老の教えを想起していたんじゃないでしょうか?「愛の経験の少ない」コーリャ少年の「全人類のために死ねればと思います」という発言のはらむ危うさは、アリョーシャにとってなじみのものでした。だから、彼はコーリャの発言をいい換えたんじゃないですか? コーリャ、そんなふうに考えてはいけない、論理より先に愛することだよ、「全人類」なんかじゃなく、個々の「人間の顔」を愛することだよ、とアリョーシャはいいたかったのじゃないですか? 「全人類のために死ぬ」ことなんか実は簡単なんだよ、「すべての人々のために苦しむ」ことの方がはるかに難しいんだよ、コーリャ、生きて、「人間の顔」を持った「すべての人々のために苦しみ」なさい…… それで、私はここまでで引用したいくつかの箇所について、ロシア文学に詳しい友人に『カラマーゾフの兄弟』ロシア語原典における「人類」・「人類全体」・「全人類」と「人間」・「多くの人たち」・「すべての人々」とに当たる語を調べてもらったんですが、どうやら両者はきちんと書き分けられ、原卓也訳ではその通りに訳されているようです。 そうすると、生身のひとりひとりの人間それぞれに向けられるキリスト( ─ ゾシマ長老 ─ アリョーシャ)の実践的な愛が、『カラマーゾフの兄弟』全体に隈なく行き渡っているのだ、ということができるのじゃないでしょうか? そうして、それの対極にイワン=大審問官の愛が配置されているわけです。この作品において、キリストの愛がどういうものとして・どんなふうに描かれているかが、私のなかでこれまで以上にぐんと重みを増してきました。私は次に『カラマーゾフの兄弟』を読み返すときには、この照明のもとで読んでみるでしょう。 3 そんなわけで、これほどまでに重要な意味のこめられた、アリョーシャによるコーリャの台詞のいい換えをそのまま訳さなかった亀山郁夫のでたらめ・不誠実・無理解・無能がさらに鮮明に浮き上がってきました。 亀山郁夫にはアリョーシャのいい換えの意味がまるっきりわかっていなかったということです。それは彼がアリョーシャを理解していないだけでなく、ゾシマ長老をも理解していないこと、さらには、この作品におけるキリストの意味をもまったく理解していないということを示します。 そんなひとが「大審問官」におけるキリストを理解できていたわけもありません。 今回の文章を書きながら、あらためて亀山郁夫の例の文章を思い起こすと、これまで以上に怒りが噴き上がってきましたね。
ひどすぎる。 4 ひどすぎるけれども、しかし、こんな馬鹿な読み取りによる訳がなかったなら、森井友人が「死ぬ」と「苦しむ」との違いを問題にすることもなかったし、その森井友人の指摘を思い出した私が「全人類」と「すべての人々」との違いに気づくこともなかったわけです。その意味では、亀山郁夫訳は森井友人と私の『カラマーゾフの兄弟』読解にとって非常に貴重な機会をもたらしてくれた素晴らしい仕事だったんですね。私たちは亀山郁夫に感謝しなくてはならないのかもしれません。 それで、この一連の文章をお読みいただいている方がたに提案したいんですが、私たちはそれぞれに、てんでんばらばらに、亀山批判をしたらいいと思うんです。亀山批判をすることによって新しく見えてくる『カラマーゾフの兄弟』があるはずです。ただし、誰にもわかるような文章を書かなくてはなりません。自分の手の内を明かさなくてはなりません。自分の考えを自信をもって示さなくてはなりません。間違ったら、それをただ認めさえすればいい。卑下したり、自分を信じなかったりしたら駄目です。どっちつかずでなく、懐疑的にならずに、堂々としゃべることです。自立してしゃべるんです。せっかくネットというものがあるんですから。 もし、それが四方八方から実現したなら、私たちの『カラマーゾフの兄弟』読解に大きい深化が得られるのじゃないか、と私は夢想するんです。 光文社文庫の一作品から引用しますが、
「正しいなら、一人でも行く」という者たちが手を握り合う ── それを私は夢想します。 |