連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか
PDF 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか(現在までの全文)



これから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読むひとのために
           ── 亀山郁夫による新訳がいかにひどいか



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 ここしばらく私は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいかということを書きつづけています。もしあなたがこれから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読んでみようと考えているなら、この訳でなく、新潮文庫の原卓也訳になさい、と私はいいます。

 私の主張はとても簡単です。訳者である亀山郁夫にそもそも『カラマーゾフの兄弟』が全然理解できて・読み取れていないので、彼の翻訳が正しいものであるはずがない、ということです。読解力のない亀山郁夫は、登場人物のひとりひとりを理解することができず、彼らの関係が理解できず、彼らが何をやりとりしているかも理解できないまま、この仕事をしました。
 私は「ロシア文学の専門家・研究者」(でないとわからない)レヴェルでの亀山郁夫の『カラマーゾフの兄弟』解釈を問題にしているわけじゃありません。私が問題にしているのは、そんな専門家・研究者レヴェルではなく、ごくふつうの、一般の読者としての読み取りのレヴェルなんです。単純に、ごくふつうの、一般の読者として亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』が読めていません。つまり、「ロシア文学の専門家・研究者」でもないあなたが読んでも容易にわかる・読み取れるはずのことが、訳者亀山郁夫にはわかって・読み取れていない、と私はいっているわけです。亀山郁夫の読解力はあなたよりずっと下なんです。

 光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』はそんなひとによる翻訳です。

 東京外国語大学の学長であり、「ロシア文学、とくにドストエフスキーの権威」という扱いでテレビや雑誌や新聞などにも頻繁に顔を出すこの人物がそのような仕事をするはずがないと思われるでしょう。逆にいえば、そういう仕事をする人物が東京外国語大学の学長であり、「ロシア文学、とくにドストエフスキーの権威」という扱いでテレビや雑誌や新聞などにも頻繁に顔を出しているわけがないと思われるでしょう。
 残念ながら、亀山郁夫はそのような仕事をしましたし、しかも、東京外国語大学の学長であり、「ロシア文学、とくにドストエフスキーの権威」という扱いでテレビや雑誌や新聞などにも頻繁に顔を出しているわけです。



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 そのように主張する私が、実は亀山訳をほんのごく一部分しか読んでいないことをいっておきます。私は亀山訳のある箇所 ──『カラマーゾフの兄弟』全体のなかでも非常に重要な箇所 ── を読んで違和感をおぼえ、その箇所に関する亀山郁夫自身の記述が最終巻の「解題」にあるのを見つけたんです。それを読んで、仰天しながら私が思ったのはこういうことです。ああ、亀山郁夫はこの部分をこんなふうにしか読めていないのか、だから、こんな訳文になってしまっているんだ。

 私は二十五年前、二十歳になる直前に原卓也訳での『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)を読みました。以来、何度も通読し、とくにいま私が問題にした箇所はそれこそ数え切れないくらい読み返してきたんですね。私は初読以来、『カラマーゾフの兄弟』を世界最高の小説と考えてきていて、短い期間にせよ、一時期は新潮文庫三巻それぞれの帯は私の手書き(をそのまま印刷したもの)── 上巻に巻かれたものは「世界最高の小説。これを超える小説は今世紀も出ませんよ。断言。きっぱり」の文言を含みます ── でした。

 さて、いま私が問題にした箇所 ──『カラマーゾフの兄弟』全体のなかでも非常に重要な箇所 ── ですが、おおざっぱにいえば、こういうことです。

 登場人物AとBがしゃべっていて、BがAに(Aのためを思って、献身的に、勇気をふりしぼって)あることをいいます。Aはびっくりします。Bのいったことが図星だったからです。Aはこのところずっとそのことで身体にも変調をきたすほど苦しんできたんです。AにはBが自分を正確に見通していることがわかります。しかし、AはBのいうことを否定します。

 これが、亀山郁夫の読み取りにかかると、どうなるか?

 AはBが何ををいっているのか、最初のうち、わかりません。身に覚えのないことだからです(当然、BがAためを思って、献身的に、勇気をふりしぼっていっているということもわかりません)。そうして、AはBのいっていることを正反対の意味に受け取った(!)あげく、それを突然本気にしてしまいます。とにかくAはBのいうことを否定しますが、この後いきなり身体に変調をきたすほど苦しみはじめることになります。

 なぜこんなことになるのか?
 亀山郁夫自身にBのいっていることがわからなかったんですよ。もうこれが致命的です。そうなると、BのことばをAもわからなかったということにせざるをえないんです。それでもAとBのやりとりは続いていき、AがBのいうことを否定するわけで、亀山郁夫はおそらくそこから、はじめのBのことばを正反対の意味に解釈することになるんですね。

 なぜこんなことになるのか? 
 亀山郁夫にはこの場面に直接に関わる前後がまったく読めていないからです。さらに、そもそも小説の最初からAとBとがどういう人物で、どういう信頼関係にあるかということが読めていないからです。そうして、作品のつくりもわかっていないからなんです。

 繰り返しますが、これ、あなたがふつうに読んでわかるレヴェルでこうなんです。

 同様の問題が、いまいった箇所だけでなく、他にもたくさんあるんですよ。

 まさか、いくらなんでも、と思いながら、私は彼の「解題」の全体を読んで、私の疑念の的中を確信するとともに、他のいろんな箇所についても、次から次へと仰天するような読み取りの記述を見つけることになりました。というわけで、私が亀山郁夫を批判する根拠は主としてこの「解題」にあります。これを読んでいくと、彼がどんなに『カラマーゾフの兄弟』を読み取れていないかということがどんどん露呈してきます。

 はっきりいって、めちゃくちゃなんですよ。開いた口がふさがりません。

 そんなひとが訳したら、『カラマーゾフの兄弟』はどんなことになるでしょうか? もちろん、亀山郁夫の前に原作のロシア語テキストはあるわけですよね。訳者のどんな読み取りがあろうとも、原作の一文一文をそのまま訳していけば、それで全体の翻訳が成立するはずだ、と思われますか? この登場人物はこういう人間で、べつのこれこれの人物とはこういう関係にある、という読み取りができていないひとでも、原典の一文一文を訳していけば、問題はない、と思われますか?
 そんなことはありません。


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 私がこの問題に首を突っ込むことになったきっかけは、今年六月八日付けでの産経新聞によるネット配信記事「スタンダール『赤と黒』新訳めぐり対立」(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080608/acd0806080918004-n1.htm)を読んだことでした。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』と同じ光文社古典新訳文庫での『赤と黒』(野崎歓=東京大学大学院准教授訳)について、立命館大学教授の下川茂が、日本スタンダール研究会の会報に「『赤と黒』新訳について」という文章を載せ、野崎訳を「前代未聞の欠陥翻訳」と評し、数百箇所の誤訳のうち、かなりの分量を具体的に示して、こう書きました。

 野崎は直ちに現在書店に出回っている本を回収して絶版にし、全面的な改訳に取り組むべきである。一日も早く野崎訳が書店から姿を消すことを私は願っている。便々と前代未聞の欠陥訳を売り続けるとしたら、野崎には翻訳者・学者としての能力がないだけでなく、読者に対する良心もないとみなすことにする。
(下川茂「『赤と黒』新訳について」 「会報」第十八号)
http://www.geocities.jp/info_sjes/newpage3.html

 そうして、この産経新聞記事のどこに私がいちばん反応したかといえば、この部分です。

 一方、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントした。
(産経新聞 二〇〇八年六月八日)

 私はこれを採りあげて、六月十九日付け「翻訳の問題 ── 新訳『赤と黒』、『カラマーゾフの兄弟』」でこう書きました。

 事実この通りだとすれば ── 私にはコメント文書の全体がどうなっているかを知ることもできないわけですが ── 、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は恥知らずの大馬鹿者です。これが大西巨人の文庫『神聖喜劇』、『三位一体の神話』、『迷宮』、『深淵』を出している出版社の編集長なんでしょうか。
 下川茂はなにも光文社に喧嘩を売っている・いいがかりをつけているわけではないでしょうに。駒井稔は、しかし、それをあたかも喧嘩を売られた・いいがかりをつけられたかのように回答することで問題をすり替えています。
「読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。」ということが、誤訳があってかまわないということにはならないし、むしろかえって、悪いこと、とんでもなく悪いことだというふうに考えなくてはなりません。駒井稔は青くなって新訳を点検すべきなんです。これが「些末な誤訳論争」のわけがありません。

 すでに亀山訳『カラマーゾフの兄弟』にも同様の指摘があったことを知っていた私は、今度は自分で、この作品においてそれこそ数え切れないほど読み返してきた箇所を、亀山訳で当たってみたわけです。そこで違和感をおぼえ、さらに「解題」を読んで仰天したというわけです。

「すでに亀山訳『カラマーゾフの兄弟』にも同様の指摘があった」というのは、木下豊房(国際ドストエフスキー学会副会長・千葉大学名誉教授)によるこのサイトです(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm)。
 ここでの「検証」は、まずロシア語の専門家として木下豊房とNNという人物によって、亀山訳の誤訳が指摘され、その理由が説明され、なおかつ既訳として米川正夫、原卓也、江川卓の三者による当該箇所の翻訳が提示されています。このやりかたは非常に公正で、誤訳を指摘する側の手の内がすべて明かされ、反論を待つ形になっています。反論があれば、それに答える用意が彼らにはあるわけです。
 さらに、ロシア語を解さない森井友人という人物による、亀山訳の日本語としてのおかしさが指摘され、これにも当該箇所を参照しながら、木下・NNのふたりがコメントを付けています。
 整理しましょうか? まず亀山郁夫に恐ろしく大量の誤訳があるという指摘がロシア語の専門家からなされ、次に、ロシア語を解さない人物から亀山郁夫の訳は日本語としておかしいという指摘がなされ、それが先のロシア語の専門家からも裏打ちされているわけです。
 そこへ同じくロシア語を解さない私が加えた視点は、亀山郁夫にはそもそもこの原作が読み取れていない、そんな人物による翻訳がどんなに信頼を置けないものであるか、というものです。
 そうして、先のサイトから私のこの「連絡船」へのリンクが貼られることにもなり、木下豊房によって私の文章が引用されるようにもなりました。

 この一連の文章「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」というのは、NNによる「検証」中のひとことで、亀山訳の本質を突いたことばだと思った私が表題に借りたわけなんです。



   4

 あなたの周りに亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだというひとがいたとしますね。そのひとが読んだものは、実は『カラマーゾフの兄弟』ではないのだと私はいいます。
 そのひとが、原卓也訳では読むのを挫折した経験があって、それに比べて亀山訳が読みやすかったなどといっているとしたら、そのひとの日本語力を疑ってかまいません。
 そのひとが亀山訳しか読んでおらず、しかも彼の「解題」にも助けられたというのなら、あなたは、もうただそのひとの不幸を憐れんでください。
 そのひとが原卓也訳を読んでいて、しかも亀山郁夫による「解題」を読んで、理解が深まったなどといっているようなら、もうあなたはそのひとを見捨ててください。原卓也訳をふつうに読んで感動したひとであるなら、亀山郁夫の「解題」に必ず仰天するはずです。



   5

 これから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読むというあなたに、ここまで私のいってきたことが切実に感じられもしないだろう、と思います。あなたにもまた、これが「瑣末な誤訳論争」としか思われないのかもしれません。
 それどころか、あなたはこう考えているかもしれません。そもそも翻訳作品なんかに何を目くじら立てているんだ? 翻訳作品に誤訳はつきものじゃないか? 誤訳のない翻訳なんかあるのか? そこから、こうなります。ロシア語のわからないお前が、なぜ原卓也訳を正しいかのようにしゃべるんだい? どうして原卓也訳に問題がないなんていえるんだい?

 私は翻訳作品を日本人作家による日本語作品と同じように、日本語作品として読みます。ただ、翻訳作品の場合は、同じ原作に対していくつもの訳(日本語作品)がありうるのを承知していることだけが違います。

 非常に単純化して ── これにも問題があるでしょうが ── いうと、ベートーヴェンの第九交響曲(の譜面)に対して、様々な指揮者とオーケストラによる様々な演奏があるのと同じことですね。この場合も、私はまったく譜面を解しませんから、個々の演奏 ── そのすべてが譜面通りであるかどうかも私にはわかりません ── を聴かされて、「これが第九交響曲です」といわれれば、そうですか、と答える他ありません。そうして、録音だけでもこの曲の演奏はものすごい数があるわけです。どれひとつ、そっくり同じ演奏というのはありません。これ、クラシックを聴かないひとにはわからないかもしれませんが、もう全然違うんですよ。同じ曲を演奏していることはわかります。しかし、演奏は千差万別です。
 この曲については、私もずいぶんたくさんの録音を聴いてきましたが、特に繰り返し聴く録音があるんですね。そうして私は、それがこの曲の最上の演奏ではないかと思いもしているわけです。そう思う私 ── 譜面の読めない私 ── に、おそらく基本として、一定の第九交響曲像があるはずなんですね。そうして、ベートーヴェンのこの曲について「よい・悪い」の評価が私にあるでしょう。それがあって、そこからどの演奏が優れているかを聴き分けるということを、私はやっているはずなんです。
 また、べつの作曲家の作品ですが、いくつもの録音を聴いてきて、どうも自分にはなじめないと感じてきた曲があったんですが、それがあるとき、ある演奏を聴いたときに初めて「ああ、これはこういう曲だったんだ」と得心する、という経験をしたこともありました。そうして、そこから、これまで聴いてきた録音に戻ると、あの「なじめない」という感じが消えていたんですね。そういうこともあります。
 演奏の数が多いことは歓迎します。よりよい演奏、より高いレヴェルの演奏を私は期待します。
 しかし、ベートーヴェンをはじめ教科書に載るような作曲家たちは例外として、同じクラシックの分野においても、作曲されたからといって、どの曲ももれなくすべてが演奏されるということもないし、録音があるにしても一曲について一演奏しかないということの方が多いでしょう。そういうものも、私は聴きます。そうして、ひとつの演奏しか知らなくて、その曲について「よい」とか「悪い」といった評価をすることになるでしょう。ここでも、譜面の読めない私のなかに、おそらく基本として、その曲についての一定の像ができているはずなんですね。この場合、演奏があまりにもひどいせいで、本当は素晴らしいその曲が不幸にも私の評価を得られないということも起こりうるでしょう。
 とはいえ、お断わりしたように、やはりこの単純化での説明には限界があって、音楽の場合は指定された楽器で譜面の音をそのまま鳴らす ── いろんな鳴らしかたがあるとはいえ ── んですね。世界じゅうのどの国のひとも、その音をそのまま聴くことになるわけです。ところが、言語の翻訳ではそうはいきません。
 なんだか私は余計なことをしゃべっているのかもしれません。これでは、あなたをいたずらに混乱させるだけなのかもしれません。

 それでも、翻訳作品を読むことによって、原作の「よい・悪い」がわかるはずだし、翻訳そのものの質をも見極めることができると私は考えているんです。そのとき、その翻訳作品が作品として自立しているかどうか、どのように自立しているか、ということを、おそらく私は測っているんです。

 ここまでのところを踏まえつついいますが、私は原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』を日本語作品として読んで、しかも、それでこの原作についての一定の像を自分のなかに抱き、そのうえで、原卓也訳を「よい」と思うと同時にドストエフスキーの原作をも「よい」と思っているのだ ── ということです。
 原卓也訳に表現されているものが、ドストエフスキーが原作で表現したものを誠実につかんで、格闘しながら日本語に置き換えられたものであることが、読んでわかる、と私はいっています。それで、日本語作品としての『カラマーゾフの兄弟』を「よい」というばかりでなく、ドストエフスキーの原作をも「よい」というんです。ドストエフスキーの原作をあるレヴェル以上に理解したうえでなければ、このように日本語訳を仕上げることができない、ということが原卓也訳を読んでわかります。原卓也にも、それは、たしかに誤訳はあるでしょう。しかし、それをも含んでなお、彼がこの原作のつくりから、登場人物の把握から、彼らの位置関係や、その推移などをしっかり理解していることがわかります。これはそういう翻訳作品です。それが私にはわかります。

 どんなふうにわかるのか? 私は作品をどんなふうに読んでいるのか?

 ここで私のしゃべることは、この「連絡船」── まだ始めたばかりで、進路も定かならぬ ── の全体で私自身がおいおい明らかにしていこう、ゆっくりことばにしていこう(ということは、いまだに自分でもよくわかっていない)と思っていたことなので、いまはとりあえず、このようにいっておきます。
 どんな作品を読むとき ── すべて日本語です ── にも、私の評価の基準は、その作品の自立性です。何をもって自立性を問うかといえば、作者が自分の描く「なにを」と「どのように」とをどんなふうに拮抗させたか、ということで問います。どこまでそれが実現されているか、ということですね。これが ── 現時点で私が自覚し、ことばにしうる範囲での ── 私の作品観になります。

 もう何度も引用している文章をさらに長く提示しますが、

 ……小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。そういう読者にだけ照準を合わせて「なにが」だけを提示しているにすぎない自称「作品」がどれだけ売れているかを考えるとくらくらします。私が疑うのは、単に「なにが」だけしか提示していないものを読むときに、多くの読者が勝手に作家の非力を、いかにもありがちなイメージで ── すぐにわかる、わかって安心できる、すでに自分のなかにある安手なあれ・それを当てはめながら ── 補ってやっているのではないか、最近の傾向でいえば、読んで泣こうとして、泣く方向にねじまげて読むから、だめなものでも泣かずにはいないということがあるのではないか、ということですね。しかし、ちゃんとした作品、「どのように」のきちんとできている作品はもっと自立したものであるはずです。泣くことが目的の読者のごまかしに手伝ってもらう必要など全然ありません。
 しっかりした「どのように」がともなってはじめて可能になる「なにが」の表現ということを考えてほしいんです。つまり、読者がいまだ知らないなにか、名前をつけようと考えたこともないなにか、自分のすでにもっている(そしてすぐに取り出せる)どの観念にも落とし込むことのできないなにか、それが、作品の「どのように」に支えられてのみ、その作品一回きりの「なにが」として立ち上がってくるということがあるはずなんです。そういうことの実現こそがほんものの作家の仕事じゃないでしょうか? そして、そういう作品を読むことこそがほんとうの読書なのでは?
 ……(中略)……
 ……「なにが」と「どのように」を、もう一度作家の側に返して「なにを描くか」と「どのように描くか」にいいかえますが、ほんものの作家のなかで、このふたつは切り離すことができません。作家が「なにを」を想定しようとするとき、すでに彼のなかでは、それについての「どのように」がついてまわっています。「どのように」を考えると、「なにを」も決まっている。つまり、「なにを」は自分の生かす「どのように」を求め、「どのように」は自分の生かしてやれる「なにを」を求めるということです。両者は強力に拘束しあいます。この関係の破綻したものを作品などといってはいけません。ということは、作家が書きはじめたとき、彼は自分が「なにを描か(け)ないか」「どのように描か(け)ないか」を知っているということでもあります。最初から大きい断念が生じるはずなんです。作家は全然自由ではなく、非常に不利なところからはじめます。しかし、書き進めながら彼はこの拘束のなかですんなり小さくまとめればいいというのでもない。彼は自分の書いていくなにかしらを、この拘束を脅かすほどに内部から大きく発展させていきます。敢然として拘束に拮抗させていく。そのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが作品なんです。作品というのは、最初からきれいにまとまった完成形に向かって書き進められていくのではないし、当初の設計図も当てになりません。もつれ込んだ末に作品は、ついに作家の思ってもみなかった形でできあがってしまうでしょう。ふつう考えられている作家と作品の関係は実はちがっていて、作品が主であり、作家が従なんです。作品は作家からも自立しようとし、作家はひたすらそのために奉仕してたたかうわけです。『カンバセイション・ピース』でもちらりと触れられている『魔の山』の作家、トーマス・マンを引用すると、《芸術家は、その作品がそもそもどんなものになっていこうとしているのか、それがまさに彼の作品としてどうなるべきものなのか、ということを全く知らず、やがて彼はその仕事を前にして「このような物を私は望んでいなかった。だが、今やそれをせねばならぬ。神よ、助けたまえ!」と感じることがしばしばなのであります。》(『リヒァルト・ヴァーグナーと『ニーベルングの指輪』』青木順三訳 岩波文庫『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』所収)
(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)
(<『カンバセイション・ピース』(保坂和志 新潮文庫)>解説)

 そんなふうに私はあらゆる作品を ── 原作が何語であろうが ── 日本語作品として読みます。「なにを」と「どのように」のせめぎ合い・たたかいの軌跡としての作品を読むわけです、日本語で。そうして ── 先にいいましたように ── 、実はそれによって、翻訳作品の場合、原作をも評価できると考えているわけです。
 繰り返しますが、もちろん翻訳作品には、そこに誤訳の可能性を承知はしています。しかし、もし多数の誤訳があろうとも、原卓也訳に原作の「なにを」と「どのように」のせめぎ合い・たたかいの軌跡が十分に表現されていると私は思っているんです。それでいいんです。原卓也がそもそも原作をしっかり読み込んで、誠実にこの仕事に取り組んだ、しかも、よい結果を残したことを、私は理解します。原卓也が原作に奉仕したことが私にはわかります。だから、私は彼の訳した『カラマーゾフの兄弟』を「世界最高の小説」だと「断言」しました。しかし、原卓也訳よりもよい訳の可能性は当然あります。さらによい訳が出てくればいいな、とは、もちろん思いますよ。それを読みたい。
 というわけで、日本語作品として、私はトーマス・マンの『魔の山』、『ファウストゥス博士』を、フォークナーの『八月の光』を、カミュの『ペスト』を、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、『戦争と平和』を、ヴォネガットの『タイタンの妖女』、『母なる夜』、『スローターハウス5』を、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』、『予告された殺人の記録』を、アンドレイ・マキーヌの『フランスの遺言書』等々を ── きりがないのでこのへんにしておきますが ── を読んできたんです。そうして、それらは ── 日本語作品として ── きちんと自立しています。つまり、それらは、翻訳者がそもそも原作をしっかり読み込んで、誠実にこの仕事に取り組んだ、しかも、よい結果を残したものだということです。それは、読めばわかります(そうして、それぞれの原作の素晴らしさも理解できます)。それらの翻訳に、原作の「なにを」と「どのように」のせめぎ合い・たたかいの軌跡が十分に表現されているのがわかります。部分的に、もうちょっと何とかならなかったのか、と思うものがないとはいいません。しかし、それを考慮に入れたうえで、私はそれらの翻訳をよしとし、あるレヴェル以上のものとみなしてきたわけです。



   6

 それで、いま私のしゃべった読みかたなんですが、これはよい作品を採りあげて「よい」というときには、これだけじゃ足りないんですね。そこから先は口ごもらざるをえないんです。というのも、私はある一定のレヴェルを示しているだけで、それより上のレヴェルの作品となると、また個別にあれこれいわなくてはならないんです。つまり、その一定のレヴェルというのは前提でしかないからです。
 しかし、これ、そのレヴェル以下のものを扱うとなると、俄然威力を発揮することになるんですね。というのは、私の評価の最低基準すら満たしていないものということで、容易に切り捨てができるからです。

 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は、そんなふうに切り捨てることができます。

 なぜか? 彼には原作がしっかり読めていないからです。彼には作品の「なにを」も「どのように」も全然わかっていないからです。彼は、ただ原作の全文に対応する日本語を最後までやっつけで並べてみたにすぎません。彼の「解題」がはっきり示しています。そこで披露されている彼の読み取りはでたらめばかりで、開いた口がふさがらないほどのものなんです。こんな読みのひとに『カラマーゾフの兄弟』を訳せるはずがありません。「断言」します。こんな歪んだ、稚拙な、でたらめな、とんちんかんな読み取りのひとにかかると、訳される細部は、個々の語や文の力点が見当違いの場所に置かれているはずです。それがどんどん蓄積されていくんです。「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」というのは、そういうことです。

 私が最初にあげた登場人物Aはある思想の持ち主なんですが、亀山郁夫には、その思想がAという生身の人間のなかでなぜ生まれ、それがAのなかでどういう意味を持っていて、どこを向いているのか、それがA自身にどれだけ負担になっているのか(どれだけAを傷つけているのか)、等々が全く理解できません。亀山郁夫はAの思想を固定された、ただの思想としてしか理解できません。その思想がAのある側面でしかないということがわかりません。そういう思想を抱いてしまったAという人物の動いている生を理解せず、その思想=Aとしか読んでいないんです。だから、登場人物Bのことばと、それを聞いたAの衝撃とが亀山郁夫にはわかりません。そうして、Bという人物の読み取りもまた同様にひどいんです。

 繰り返しますが、これはただの一場面だけではすまない問題なんですよ。そもそも小説の最初から登場人物AとBとを読み誤っていたからこそ、こうなったわけです。亀山郁夫には、ドストエフスキーが非常に動的に描いた作品を、そのまま動的にとらえることができていないんです。なんだか平べったい止まったものとしてしか読めていないんです。
 こうして、ドストエフスキーの原作が持っていた作品の自立性は亀山訳では失われます。亀山訳には日本語作品としての自立性もありません。

 語学的にああだこうだという以前の問題です。亀山郁夫には日本語であれ、ロシア語であれ、そもそも一般的な意味で作品を読む力がないんです(もちろん、あなたよりも。あなたの方がずっと読めます、間違いありません)。こんなひとがいくら自分で奮闘したって ── さらにそれを自分で吹聴したって ── 無駄です。害悪ですらある。

 まったく、こんなひとが『カラマーゾフの兄弟』についての新しい「発見」云々を、「解題」以外にも、いろんなところで書いたり、話したりして、「ロシア文学、とくにドストエフスキーの権威」を「僭称」しているわけです。笑ってしまうとともに、恐ろしくもあります。
 そうして、亀山郁夫のこの実質を知ってか知らでか、大手の出版社も放送局も新聞社も彼を持ち上げているんですね。ひどい話です。

 いいですか、亀山郁夫なんかを信じちゃ駄目ですよ。自分でしっかり考えて読書してください。わからないことを他人 ── たとえば「亀山郁夫先生」── に丸投げするような読書は駄目です。亀山訳しか読んでいないひとは『カラマーゾフの兄弟』ってすごいと聞いていたけれど、全然大したことないな、と思って当然なんです。その読者には、かわいそうなことですけれど。

 これから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読もうとしているあなたに、あまりに刺激の強すぎることをいっているかもしれませんが、そうなんです。私にはどうしようもありません。私がどういおうが、事実は事実です。
 亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』を甚だしく汚しました。彼はこの仕事をするうえで、ドストエフスキーの原作に全然奉仕しませんでした。自分自身の虚栄心の満足しか考えずにこの仕事をしたんです。



   7

 六月からここまでの三か月間(ネット上での公開は二か月間ですが)、私はずっと亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか、ということを ── 「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」という表題のもとに(一)、(二)、(三)と ── 書きつづけてきました(まだこの先も書いていきます)。
 それは『カラマーゾフの兄弟』をすでに亀山郁夫訳以外の翻訳 ── たとえば原卓也訳 ── で読んだことのあるひとを対象にしていました。既読のひとに向けて、亀山訳のひどさについて具体的に ── 作品に踏み込んで ── 詳述してきたわけです。

 しかし、ここで一度、これから初めて『カラマーゾフの兄弟』を読むというひとに向けての文章を書いておかなくてはならないと考えました。

 数日後の増刷によって、光文社古典新訳文庫・亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は全五巻の累計刷部数が一〇〇万部を超えます。内訳は、第一巻が三〇、五〇〇〇部、第二巻が二一一、〇〇〇部、第三巻が一七七、〇〇〇部、第四巻が一六二、〇〇〇部、第五巻が一五五、〇〇〇部です。さらには、このタイミングで同文庫シリーズ最新刊として、亀山郁夫訳『罪と罰』の刊行が始まります。大宣伝がかかります。新聞の全面広告というものさえ予定されています。加えて、NHKラジオでも間もなく亀山郁夫による『カラマーゾフの兄弟』講義が連続放送されます。
 シリーズは違え、同じ光文社の文庫で『神聖喜劇』(あなたは一生のうちに、亀山訳以外の『カラマーゾフの兄弟』を読むとともに、この日本の大傑作をも読むべきです)、『深淵』などが出版されている大西巨人のことばを引用して、この一連の事実を表現すると、「俗情との結託」ということになる、と私は考えます。こんなことを許してはなりません。

(二〇〇八年九月二十五日)


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