連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その三(後)


    4

「あのね、アリョーシャ、笑わないでくれよ、俺はいつだったか、そう一年くらい前に、叙事詩を一つ作ったんだよ。もし、あと十分くらい付き合ってくれるんなら、そいつを話したいんだけどな」
「兄さんが叙事詩を書いたんですか?」
「いや、書いたわけじゃないよ」イワンは笑いだした。「それに俺は生まれてこの方、一度だって二行の詩さえ作ったことはないからな。でも、この叙事詩は頭の中で考えついて、おぼえてしまったんだ。熱心に考えたもんさ。お前が最初の読者、つまり聞き手になるわけだ。実際、作者としてはたとえたった一人の聞き手でも、失う法はないものな」イワンは苦笑した。「話そうか、どうしようか?」
「大いに聞きたいですね」アリョーシャが言った。
「俺の叙事詩は『大審問官』という表題でね、下らぬ作品だけど、お前にはぜひきかせたいんだよ」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 こうしてイワンは話しだします。彼が話すのは、相手がアリョーシャだからですよ。イワンが話したいくせに、自作を「下らぬ」といったり、「話そうか、どうしようか?」などというのを、読者はほほえましく感じるべきなんです。イワンが話すのは、アリョーシャに希望を見出そうとしているからですし、信頼も寄せているからです。そうして、これは当の大審問官が相手に寄せているのと同じなんですよ。また、私はこうもいいましょう。大審問官は、先に私がイワンについていったように、「ごく少数の、彼以上に考え、彼の考えていることを理解することができ、彼の抱えている問題に精通している相手であって、しかも、彼の問題を「肯定的なほうに」解決する立場の相手には、正直で誠実な敬意を表わすことができます。そうでない大多数の相手に向かっては、彼は自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分を取り出して、偽悪的・断定的に」接する・扱うことになるでしょう。

 早々に私の読み取り・結論をいいますよ。大審問官は作者イワン・カラマーゾフ自身の投影でありますが、彼は神を信じています。それで、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を認めたいんですよ。でも(だからこそ)、どうしてもそれを「認めないのだし、認めることに同意できない」んです。それでも、自分の問題を「肯定的なほうに」解決したいと思っているんです。彼は相手を前に告白します。その後での、彼に寄せた相手のキスは何を意味するか? 私はこう考えています。それは、彼の「苦しみ」に対するキスなんですよ。私はこれを二十五年前の初読時からそう読み取っていましたし、いま、いっそう深くそう信じています。これが私の手の内です。どうですか? がっかりされましたか?

「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。」
(同)
(傍線は私・木下による)

 これを、大審問官とキリストとの問答 ── 問答になっていませんが ── にも当てはめてよいだろう、私は考えているんです。

 で、亀山郁夫はどうか?

 問題は、その「キス」の意味するところとは何か、その「キス」をどのような意味として大審問官は受けとめたのか、という点である。「彼」はその「キス」で、キリストみずからの絶大な力を、表明しようとしていたのか。大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言の代替行為だったのだろうか。それとも、歴史は動かせない、だからあなたの好きなようになさるがよいという、承認と、ことによると「祝福」のキスだったのか。
(亀山郁夫「解題」

「なんですか、この選択肢は? しかも、これだけなんですか?」と、先に私はいいましたが、そのときにはまだ、亀山郁夫がわざとこんなことをいっているのか? と思いもしていたんですよ。でも、わざとじゃないだろうといまは思うんです。本当にこのひとはこれしか考えていなかっただろうといまは思うんですね。

 何よりも、この物語詩がイワンによる創作であるとの前提をふまえなくてはならない。言い換えるなら、これは無神論者イワンがみずからの世界観を補強する物語詩なのである。そうならば、イエスのキスの意味するところは、おのずから明らかだろう。それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる。
(同)

「それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる。」つまり、亀山郁夫は、「大審問官」における「イエスのキスの意味するところは」「承認と、ことによると「祝福」」だったといいたいんですよ。亀山郁夫の、いわば亀山式「ポリフォニー的な読み」によれば、です。亀山式 ── それが問題なんです。

 方法論的な側面から見て、ドストエフスキーの小説の最大の特色と魅力は、その「ポリフォニー(多声)性」にある。
 しかし、おなじ「ポリフォニー性」とはいっても、じつはいろいろな視点、いろいろな様態がある。登場人物のそれぞれが作者一人の思想を代弁することなく、一人ひとりが自在にいわば勝手に動き、発言し、作品のなかで自立した「多くの声」を形づくる ── 。
(同)

 しかし、亀山郁夫はそのようにポリフォニーを説きながら、アリョーシャの「あなたじゃない」についてこういいもしていたんですね。

 では、あえてこの歴然たる事実について、奇妙な文体で答えたアリョーシャの真意とは、どのようなものであったのだろうか。ここにふたたび露出するのが、心理的なドラマの層を超越する「自伝層」ないしは「象徴層」である。このセリフは、ドストエフスキーがわざわざアリョーシャに語らせている層ともいうべき部分であり、その意味では、根本のところで、登場人物の独立を保証すべきポリフォニーの原理にさからうセリフ、といえるかもしれない。
(同)

 スメルジャコフについては、こうでした。

 実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である。そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていいほど、バイアスがかかっていそうである。
(同)

 アリョーシャの「あなたじゃない」も、スメルジャコフの否定も、私が前々回(=「その一」)と前回(=「その二」)で問題にした箇所じゃないですか。それぞれに私はドストエフスキーによるポリフォニーの原理は十全に生かされているという立場から、亀山郁夫の読解力を疑ったんでした。彼にはアリョーシャとスメルジャコフがどういう人物であるかということが全然読み取れていないので、「このセリフは、ドストエフスキーがわざわざアリョーシャに語らせている層ともいうべき部分」であり、「そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていい」などと、とんちんかんなことをいうことになるんです。
 つまり、亀山郁夫はポリフォニー云々といっておきながら、いざ自分に読み取れない部分に行き当たると、とたんに、ここではポリフォニーが作動していないといい出して、それを作者ドストエフスキーのせいにしてしまう・自分の読解力を棚に上げてしまうんですね。彼にはポリフォニーが何かということがわかっていません。もうこれがひどいと私は思いますが、もうひとつ引用しましょう。

 繰り返すと、ここで「物語層」と呼ぶ最下層が、小説全体を駆動させていく物語レベル(筋書き、心理的なメロドラマ)の層であるなら、最上層の「象徴層」は、ある意味で、少しむずかしくなるが、形而上的な、「ドラマ化された世界観」とでも呼ぶべき層である。そしていま、訳者が「自伝層」と呼ぶところの中間部とは、象徴層とも物語層とも異なる次元のドラマを形づくる部分、作者=ドストエフスキーが、みずからの個人的な体験をひそかに露出させる部分と考えていただけると幸いである。もっともこれは、ドストエフスキーの伝記について何ひとつ知識をもたない読者にとって、およそ無縁の層と言うこともできるのだが……。
 しかし逆に、読者は、一読して、変だ、おかしい、なぜなのか、といったディテールに遭遇したさい、いちおうこの「自伝層」を疑ってみるのもよい。たんにプロット面での物語でなく、作家の内面に横たわる体験に、またそれとのかかわりのなかで浮上するこの中間層に注意することで、『カラマーゾフの兄弟』は、第三の驚くべき側面、新たな深みを獲得すると訳者は考える。
(同)

 これはドストエフスキーを馬鹿にしていると私は思いますよ。そうして、作品の自立性をも馬鹿にしている。自分に読解力がないことを作者と作品のせいにしてしまっている。何が「自伝層」だ、と思います。亀山郁夫のいうこの「自伝層」は、彼が自分の無能を隠すためにちゃっかり用意している逃げ道にすぎません。こんなことをまともに受け入れていたら、作品の自立性などないことになってしまいます。しかも、亀山郁夫は、これを『カラマーゾフの兄弟』についていっているんですよ。あんまりです。私は亀山郁夫にこういってみたいんです ── 訳者は、一読して、変だ、おかしい、なぜなのか、といったディテールに遭遇したさい、必ず「自分の読解力」を疑ってみなくてはならない。

(とはいえ、自分の作品 ── 本当は作品などとはとても呼べないんですが ── に自立性がないために、「自伝層」的読書を読者に要求するような、そんなへぼ作家はたくさんいます。しかし、ドストエフスキーは違います。)

 というわけで、亀山郁夫が「無神論者イワンがみずからの世界観を補強する」というとき、彼は、イワンの生身の身体をまったく考慮に入れて(読み取れて)いません。無神論を展開するイワンそのひとがどういう人間であるか、ということを考えて(読み取れて)いない。どういう人間が展開する無神論であるのか、ということがわかって(読み取れて)いない。いや、イワンと彼の無神論とは不可分なんですよ。ドストエフスキーは、無神論を唱えたくてそれを無理やりイワンに背負わせたんじゃありません。これは ── ひどく馬鹿ないいかたをしますが ── 、「無神論を唱える人物を描こうとしていたら、イワンという人物になってしまった」ということと「イワンを描いていたら、無神論を唱える人物になってしまった」ということとの奇跡的な混合なんですよ。どうですか、馬鹿ないいかたでも、理解の助けにはなったでしょうか? そこにはただイワン・カラマーゾフがいるだけなんですよ。思想のパンフレットがあるわけじゃないんです。そこにあるのは、イワンという人間なんです。そうして、イワンの生身の身体まで含みこんでこその「ポリフォニー的な読み」なんです。亀山郁夫は「ポリフォニー」を全然理解していません。彼はただ上っ面でのイワンの「思想」をおもちゃにしているだけです。

 イワンは、おそらく自分自身が「大審問官」のラストに託した意味を、そのキスに重ねようとしていた。つまり、キリストに擬せられたアリョーシャが自分の世界観を承認した、ととらえたにちがいない。しかしアリョーシャは、おそらくそれとは逆の意味を施していたにちがいない。
 ……(中略)……
 かりにアリョーシャのキスが「承認」を意味し、イワンがそれを感じたとするなら、「大審問官」の最終的な結論はどのようなものになるのか。「彼」すなわちイエス・キリストは、大審問官が行ってきた事業を承認する、という意味に変わる。つまりイエス・キリストは無力だという、イワンの認識そのものである。
(同)

 私は口をあんぐりと開けます。だいぶ以前にも引用しましたが、またこれを思い出しましたよ。

 シュテール夫人は亡きヨーアヒムの遺骸を見て、感激して泣いた。「英雄ですわ! 英雄でしたわ!」と彼女はいくどもさけび、埋葬式にはベートーヴェンの「エロティカ」を演奏しなくてはならないと要求した。
 「あなたは黙ってらっしゃい!」とセテムブリーニが横から叱りつけた。
(トーマス・マン『魔の山』 関泰祐・望月市恵訳 岩波文庫)

 私は ── 前回同様 ── はっきりいいますが、亀山郁夫には ── 『カラマーゾフの兄弟』はもちろん、そもそも一般的な意味で ── 小説を読み解く力がありません。

 またべつの記述ですが、

 この問いに答えるまえに、イワン=ドストエフスキーがとる一つの奇妙な手法について、ふれなくてはならない。つまり、「大審問官」では、いちどとしてイエスキリストの固有名詞が用いられていないということだ。もちろん、「彼」がイエスであるとすることは可能でも、そう訳すと、じつはミスを犯すことになる。なぜなら、これはあくまでイワンによって作られた物語詩であって、イワンがあえて「彼」をイエスとして同定しなかったことこそが重要なのである。キリストと書けばキリストに限定されるが、「彼」と呼ぶことにより、ある別人格的なものを付与することができる。いや、その「彼」はキリストのいわゆる僭称者ですらあるかもしれない。
(亀山郁夫「解題」

 では、その亀山郁夫が、これにつづく「大審問官」を論じる文章で、イエス・キリストの名まえを出すのはどういうことなんでしょうか? 

「彼」すなわちイエス・キリストは、大審問官が行ってきた事業を承認する、という意味に変わる。つまりイエス・キリストは無力だという、イワンの認識そのものである。
(同)

 何が「「彼」すなわちイエス・キリスト」だ、と私は思いますよ。
 偽者のキリストが大審問官の事業を承認することに何の意味があるんですか? 大審問官が騙されたってことにしていいんですか? そうすると、作者イワンは大審問官が騙されているってことを承知しているわけですよね、作者なんですから。それで、その後アリョーシャのキスを受けたイワンが「おそらく自分自身が「大審問官」のラストに託した意味を、そのキスに重ねようとしていた。」と書く亀山郁夫は、イワンが偽者のキスを受けて喜んだっていうんですか? そういうことですよね。笑っちゃって力が抜けてきますよ。もうこんなひとを相手にしていたくない。私は自分が馬鹿に思えてきます。
 さあ、それで、その場合、どうしたらイエス・キリストが無力だっていうことになるんですか?

「イワンがあえて「彼」をイエスとして同定しなかったことこそが重要なのである」って、ねえ、いいですか、「大審問官」を披露する直前に、アリョーシャとイワンはこんなふうに話していたんです。そもそも彼らがイエス・キリストの名まえを出してなんかいなかったんですよ。

「いいえ、認めることはできません。兄さん」ふいに目をかがやかせて、アリョーシャが言った。「兄さんは今、この世界じゅうに赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうかと、言ったでしょう? でも、そういう存在はあるんですよ、その人ならすべてを赦すことができます。すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができるんです。なぜなら、その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げたんですからね。兄さんはその人のことを忘れたんだ、その人を土台にして建物は作られるんだし、『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ』と叫ぶのは、その人に対してなんです」
「ああ、それは《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血のことだな! いや、俺は忘れてやしない。むしろ反対に、お前がいつまでもその人を引っ張りだしてこないんで、ずっとふしぎに思っていたくらいさ」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 それに、イワンは「大審問官」を語りながら、アリョーシャとこんなやりとりをします。

「あまりよくわからないけど、それはいったい何のことです、兄さん?」それまでずっと黙ってきいていたアリョーシャが微笑して言った。「ただの雄大な幻想ですか、それとも老人の何かの誤解か、およそありえないようなqui pro quo(人違い)ですか?」
「なんなら後者と受けとってもいいんだぜ」イワンが笑った。「もしお前が現代のリアリズムにすっかり甘やかされた結果、何一つ幻想的なものは受けつけず、あくまでもqui pro quoであってほしいというんなら、それでもかまわんさ。たしかにそのとおりだよ」彼はまた大笑いした。「なにしろ老人は九十なんだから、とうの昔に自己の思想で気がふれかねなかったんだしな。それに囚人がその外貌で彼をびっくりさせたのかもしらんしさ。結局のところ、こんなのは、死を目前に控え、しかも百人もの異端を焼き殺した昨日の火刑でまだ興奮のさめやらぬ、九十歳の老人のうわごとか幻覚にすぎないかもしれないんだよ。しかし、俺たちにとっては、qui pro quoだろうと、雄大な幻想だろうと、どうせ同じことじゃないかね? 要するに問題は、老人が自分の考えを存分に述べる必要があるという点なんだし、そしてついに九十年の分をひと思いに述べ、九十年も黙っていたことを声に出して話しているという点だけにあるんだからな
(同)
(傍線は私・木下による)

 そうして、当の大審問官はこういっていました。

「『お前はキリストなのか? キリストだろう?』だが、返事が得られぬため、急いで付け加える。『答えなくてもよい、黙っておれ。』」
(同)

 つまり、ここでは、相手が誰であろうが、とにかく大審問官はイエス・キリストに向かって話すわけです。大審問官は、キリストを相手にしているつもりです。それだけでいいし、それだけが重要なんです。そうして、これは ──

 問題は、その「キス」の意味するところとは何か、その「キス」をどのような意味として大審問官は受けとめたのか、という点である。「彼」はその「キス」で、キリストみずからの絶大な力を、表明しようとしていたのか。大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言の代替行為だったのだろうか。それとも、歴史は動かせない、だからあなたの好きなようになさるがよいという、承認と、ことによると「祝福」のキスだったのか。
(亀山郁夫「解題」)

 ── と主張する亀山郁夫にとっても、そうであるはずです。しかし、その亀山郁夫が、「いや、その「彼」はキリストのいわゆる僭称者ですらあるかもしれない。」などといってしまって、どうするんですか? 大審問官にとっての「彼」が問題であるところへ、「彼」の側から何かを考えてもしかたがないのじゃないでしょうか? それはキスにしてもそうなんですよ。大審問官にとっての「彼」からのキスということだけが大事なんですよ。「彼」の側からあれこれいう必要なんかないんです。大審問官にしても、イワンにしても、キリスト本人に話したい・キリスト本人に聞いてもらいたいし、キリスト本人の返事を ── それを得られぬことは最初からわかっていますが、それでも ── 聞きたいんですよ。イワンも大審問官も、人違いであろうが、とにかくキリスト本人を相手にしたいんです。こういう文脈のなかで、この叙事詩の作者イワンが、「彼」を「キリストの僭称者」などにすることはありえません。亀山郁夫は「キリストの僭称者」=「悪魔」だといいたいんでしょうが、「大審問官」はそんなつくりになっていません。そうして、大審問官の受けたキスの意味もひとつです。

 さて、その「キス」について、私はこうもいっておかなくてはなりません。キリストが大審問官の話を黙って最後まで聞いているところまでは、たしかに「大審問官=イワン」と考えてもよかったんですが、その後での「キス」になると、それを受けるのは大審問官だけになるんですね。イワンは脱落します。なぜなら、この叙事詩の作者がイワンだからです。ここまで作者イワンは自分=大審問官がキリストを相手に思いを語ることだけ(自分=大審問官の側からだけ)を考えていればよかったんですが、ここからはそうはいかないんです。キリストが自ら動きだすからです(おそらくこの事情から、亀山郁夫は「僭称者」云々をいい出してくるんだと思うんですが、いいですか、大審問官の相手はずっとキリストなんですよ)。大審問官はキリストからキスを受けますが、イワンはこのキスを受けることができません。作者だからです。そのキスは、イワンから大審問官への、いわば贈り物なんですね。この点だけを採り上げれば、イワンよりも大審問官の方が、なんというか、幸せなんですよ。大審問官は思いもかけないキスに感動したに違いありません。その感動を想像してみてほしいんですね。その感動を、この時点で、イワンはただ見守るだけしかできません。このキスは、大審問官に託してキリストに向けたイワンの願いでした。
 ところが、作者イワン自身もまた、語り終えてから、思いもかけないキスを受けることになるんです。イワンがどれほど感動したか、想像してみてほしいんです。

 そんなイワンの思いなど全然想像できない亀山郁夫には、キリストの大きさ・深さがまったく理解できません。「キリストは無力だという、イワンの認識」などという論点を持ち出すからには、本来、亀山郁夫自身にとっても、イワンのなかでのキリストの存在は、大きければ大きいほどいいはずなんですよ。そんな大きなものを克服したイワンの認識ということで、思い切り扱えるわけですから。ところが、どうもそうではないんですね。亀山郁夫にとって、イワンのなかでのキリストは非常につまらない、ちっぽけな存在にすぎません。
 つまり、亀山郁夫にとっては、キリストすらも、キスによって「みずからの絶大な力を、表明しよう」なんていう存在なわけです。「大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言」なんてことをしようとするちっぽけな存在なんです。いいんですか、これで? イワンのいう《ただ一人の罪なき人》がそんな存在なんですかね? 

「俺だって赦したい、抱擁したい、ただ俺はあらかじめ断わっておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。結局のところ俺は、母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱擁し合うなんてことが、まっぴらごめんなんだよ! いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか! 赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、たとえ当の子供がそれを赦してやったにせよ、母親が迫害者を赦すなんて真似はできやしないんだよ! もしそうなら、もしその人たちが赦したりできないとしたら、いったいどこに調和があるというんだ? この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいただきつづけているほうが、よっぽどましだよ。それに、あまりにも高い値段を調和につけてしまったから、こんなべらぼうな入場料を払うのはとてもわれわれの懐ろではむりさ。だから俺は自分の入場券は急いで返すことにするよ。正直な人間であるからには、できるだけ早く切符を返さなけりゃいけないものな。俺はそうしているんだ。俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 このように話すイワンにアリョーシャがいうんでした。先ほどと同じ引用をしますが、

「兄さんは今、この世界じゅうに赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうかと、言ったでしょう? でも、そういう存在はあるんですよ、その人ならすべてを赦すことができます。すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができるんです。なぜなら、その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げたんですからね。兄さんはその人のことを忘れたんだ、その人を土台にして建物は作られるんだし、『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ』と叫ぶのは、その人に対してなんです」
「ああ、それは《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血のことだな! いや、俺は忘れてやしない。むしろ反対に、お前がいつまでもその人を引っ張りだしてこないんで、ずっとふしぎに思っていたくらいさ」
(同)

 イワンはそう答えて、「大審問官」を語り始めることになるわけです。彼はそもそも「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」という問いを設けたとき、すでに「そういう存在はある、それはあの《ただ一人の罪なき人》だ」と自答していたはずです。だから、彼はアリョーシャが「その人をいつまでも引っ張りだしてこないんで、ずっとふしぎに思っていた」わけです。早く「その人」を引っ張り出して来いよ、と思っていたんです。というのも、イワンはその《ただ一人の罪なき人》に対して、特別な思いがあるんです。
 そういう存在を ── 繰り返しますが ── 、キスによって「みずからの絶大な力を、表明しよう」だとか、「大審問官の驕りにはいずれ裁きが下る、歴史がいずれ審判を下すという、ある余裕に満ちた預言」なんてことをしようとする存在だなんていっていていいんですか? もうこんな貧しい選択肢しか出せなかった時点で、亀山郁夫はすでに読者として失格です。もし彼が私のいま想像する通りにしかキリストを理解していないのであれば、なおいっそう、彼の訳による『カラマーゾフの兄弟』は最悪の翻訳だということになります。これは、亀山郁夫がイワンを理解していないとともに、イワンにとってのキリストをも理解していないということですね。イワンにとってのキリストを理解できないでイワンを理解することはできないんですから、彼は、なおのことイワンを理解していないということになる、と私はいいましょう。

 「英雄ですわ! 英雄でしたわ!」と彼女はいくどもさけび、埋葬式にはベートーヴェンの「エロティカ」を演奏しなくてはならないと要求した。
(トーマス・マン『魔の山』 関泰祐・望月市恵訳 岩波文庫)

「僭称者」云々の話に戻りますが、おそらくこれは、「「大審問官」では、いちどとしてイエスキリストの固有名詞が用いられていない」(=これまでの翻訳では、それにもかかわらず、キリストの名まえで訳されてきていた。自分・亀山はそれをついに改めた)ということを亀山郁夫が得意顔で報告したくてたまらなくなったということなんでしょう。既訳が「キリスト」とわざわざ訳さなくてはならなかった理由は、単純に、キリスト教をよく知らない日本人 ── 原文通りに訳してしまうと、日本の一般の読者には理解できないだろうと翻訳者に思われた ── に向けての翻訳として翻訳者が判断したことだと思いますけれどね。

 というわけで、

 これはあくまでイワンによって作られた物語詩であって、イワンがあえて「彼」をイエスとして同定しなかったことこそが重要なのである。キリストと書けばキリストに限定されるが、「彼」と呼ぶことにより、ある別人格的なものを付与することができる。キリストと書けばキリストに限定されるが、「彼」と呼ぶことにより、ある別人格的なものを付与することができる。いや、その「彼」はキリストのいわゆる僭称者ですらあるかもしれない。
(亀山郁夫「解題」)

 ── はでたらめです。イワンはわざわざ「彼」をキリストだと断わる必要なんかありませんでした。アリョーシャは「彼」をキリストだと思って聞いていました。大審問官自身もキリストだと思って話していました。亀山郁夫の読み取りは、未熟な読者のしがちな、余計な・無駄な・害悪でさえある読み取りの典型にすぎません。

 なおかつ、

 このキスは、たんなる「盗作」と軽々しく扱うわけにはいかない。なぜなら、キスの理解は、イワンとアリョーシャとでは百パーセント異なっていたはずだからである。イワンは、おそらく自分自身が「大審問官」のラストに託した意味を、そのキスに重ねようとしていた。つまり、キリストに擬せられたアリョーシャが自分の世界観を承認した、ととらえたにちがいない。しかしアリョーシャは、おそらくそれとは逆の意味を施していたにちがいない。
 ……(中略)……
 かりにアリョーシャのキスが「承認」を意味し、イワンがそれを感じたとするなら、「大審問官」の最終的な結論はどのようなものになるのか。「彼」すなわちイエス・キリストは、大審問官が行ってきた事業を承認する、という意味に変わる。つまりイエス・キリストは無力だという、イワンの認識そのものである。
(同)

 私はいいますが、「キスの理解は、イワンとアリョーシャとでは百パーセント異なっていたはず」なんていうのは大間違いです。イワンもアリョーシャも同じ理解をしていました。先にもいいましたが、

 何よりも、この物語詩がイワンによる創作であるとの前提をふまえなくてはならない。言い換えるなら、これは無神論者イワンがみずからの世界観を補強する物語詩なのである。そうならば、イエスのキスの意味するところは、おのずから明らかだろう。それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる。
(同)

 ── が、そもそもでたらめです。「何よりも、この物語詩がイワンによる創作であるとの前提をふまえなくてはならない」といわれなければならないのは、読者ではなく、亀山郁夫自身です。キリストをもイワンをも安っぽくしか読み取れなかった亀山郁夫、ポリフォニーについても理解できなかった亀山郁夫がこういっているわけです。話になりません。



    5

 イワン・カラマーゾフは「世間の二十三歳の青年とそっくり同じような青年」であって、「やっぱり若くて、ういういしくて、溌剌とした愛すべき坊や」、「おまけに嘴の黄色い雛っ子」です。先にいいましたように、彼は神を信じていて、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」に大きい信頼と期待を寄せているんです。ところが、現実には、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」には、イワンが絶対に同意できないような矛盾点 ── たとえば幼い子どもの虐待 ── があります。だから、彼は神をなじることになるんですよ。彼は裏切られたというふうに感じるんです。神が……してくれない、……もしてくれない、……もしてくれない、そんなことってあるか、と彼は主張してやまないわけです。
 そこで、彼は「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を離れて、自分の思想を頼りに生きようとしました。
 彼は、ごく少数の、彼以上に考え、彼の考えていることを理解することができ、彼の抱えている問題に精通している相手であって、しかも、彼の問題を「肯定的なほうに」解決する立場の相手には、正直で誠実な敬意を表わすことができます。そうでない大多数の相手に向かっては、彼は自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分を取り出して、偽悪的・断定的にしゃべります。

「概してこの話題は打ち切るよう、あらためておねがいしておきますがね」ミウーソフがくりかえした。「その代り、ほかならぬイワン君に関するきわめて興味深い、この上なく特徴的な話を、みなさんにご披露しましょう。つい四、五日前のことですが、この町の主として上流婦人を中心とする集まりで、この人は議論の中で得々としてこんなことを明言したんですよ。つまり、この地上には人間にその同類への愛を強いるようなものなど何一つないし、人間が人類を愛さねばならぬという自然の法則などまったく存在しない。かりに地上に愛があり、現在まで存在したとしても、それは自然の法則によるものではなく、もっぱら人間が自分の不死を信じていたからにすぎないのだ。その際イワン君が括弧つきで言い添えたことですが、これこそ自然の法則のすべてなのだから、人類のいだいている不死への信仰を根絶してしまえば、とたんに愛だけでなく、現世の生活をつづけようという生命力さえ枯れつきてしまうのだそうです。それどころか、そうなればもう不道徳なことなど何一つなくなって、すべてが、人肉食いさえもが許されるのです。しかも、これでもまだ足りずに、この人は結論として力説したのですが、たとえば現在のわれわれのように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただちに従来の宗教的なものと正反対に変るべきであり、悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべきなんだそうです。みなさん、わが親愛なる奇人の逆説家イワン君が提唱している、そしておそらくこの先まだ提唱するつもりでおられる、他のすべてのことに関しては、今のパラドクス一つで、十分ご推量いただけると思いますが」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 ── そんなふうにしゃべるんですね。それで、「しかも、これでもまだ足りずに、この人は結論として力説したのですが」以下の部分は、後に悪魔によってこのように語られます。

「ところで問題は、やがてそういう時期の訪れることがありうるか、どうかだと、わが若き思想家は考えた。もし訪れるなら、すべては解決され、人類は最終的に安定するだろう。しかし、人類の根強い愚かさからみても、おそらくまだ今後千年は安定しないだろうから、現在でもすでにこの真理を認識している人間はだれでも、まったく自分の好きなように、この新しい原理にもとづいて安定することが許される。この意味で彼にとっては《すべては許される》のだ。それだけでなく、かりにそういう時期が永久に訪れぬとしても、やはり神や不死は存在しないのだから、新しい人間は、たとえ世界じゅうでたった一人にせよ、人神になることが許されるし、その新しい地位につけば、もちろん、かつての奴隷人間のあらゆる旧来の道徳的障害を、必要とあらば、心も軽くとび越えることが許されるのだ。神にとって、法律は存在しない! 神の立つところが、すなわち神の席なのである! 俺の立つところが、ただちに第一等の席になるのだ……《すべては許される》、それだけの話だ! 何から何まで結構な話ですな。ただ、ペテンにかける気を起こしたのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞが必要なんだろう、という気はするけどね?」
(同)

 最後の「ただ、ペテンにかける気を起こしたのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞが必要なんだろう、という気はするけどね?」というのをよくおぼえていてほしいんですね。イワンは「真実の裁可」を必要とする人間です。まだ自分ひとりでは踏み切れないんです。なぜかというと、イワンの思想がそもそも「信仰」や「旧来の道徳」を土台にしているからですよ。「信仰」や「旧来の道徳」が「右」といってくれるから、彼は「左」を向こうとすることができるので、自分だけではどちらを向いていいのかもわからないんです。もし、彼に「信仰」や「旧来の道徳」なしに自由に動くことができるなら、わざわざ「すべては許される」なんて断わる必要なんかないんです。
 それに、こうしてイワンひとりだけが「すべては許される」といってしまった場合に、あの「子供たちの苦しみ」はいったいどうなるんでしょうか? イワンは、頑強に「子供たちの苦しみ」の責任を「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」に押しつけます。「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」こそが、「子供たちの苦しみ」を何とかしてやらなきゃならないんです。「子供たちの苦しみ」はこれからもなくならないし、けして償われることがないとイワンは考え、これを盾に取るわけです。それで彼ひとり「反逆」するんですね。しかし、そのときにも相変らず「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」は存在しつづけなくてはならないんですよ。「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」は、どうにかして「子供たちの苦しみ」を何とかしなくてはならない。何とかしろ、とイワンが要求するからです。そこには必ず「真実の裁可」が必要です。それとともに、イワン自身の「反逆」の根拠とするために、です。「反逆」せざるをえなかったイワンの「苦しみ」も「真実の裁可」を必要とするんです。

 イワンはこの「すべては許される」を本気で考えていたでしょう。しかし、それは彼が「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」に大きい信頼と期待を寄せていたからです。彼が大きい期待と信頼を寄せれば寄せるほど、彼は「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」から裏切られることになり、ひどく傷ついた彼は、もうそんなものに頼まずに、「世界じゅうでたった一人にせよ」、「すべては許される」と主張するんです。これは、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を信じればこその、そこからの反逆・離反です。そこまではよかった。しかし、彼はこの思想を自ら選び、これについて誇りも持っていたでしょうが、確信はとうとう持つことができませんでした。

「俺は望んでいた、殺人を望んでいたんだ! 俺が殺人を望んでいたって? ほんとに望んでいたのだろうか?」
(同)

 あるいは、

「なぜって僕はたきつけたんだからね。僕がたきつけたのかどうか、まだわからんな」
(同)

 これがイワンです。だから、悪魔にこう笑われるんです。

「ただ、ペテンにかける気を起こしたのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞが必要なんだろう、という気はするけどね?」
(同)

 スメルジャコフにはこういわれましたっけ。

「あのころはいつも大胆で、『すべては許される』なんて言ってらしたのに、今になってそんなに怯えるなんて!」
(同)

 確信を持てないでいたイワンに、そのことをはっきり指摘したのがアリョーシャの「あなたじゃない」なんですよ。「あなたは、あなたの思想から導き出せる可能性のなかから、すべては許される、したがって、父を殺すことがあってもいい、それは許される、と考えていたけれども、しかし、それを本当に信じていたのではなかったし、事実、それを実行してもいない」ということです。イワンには良心があり、いかなる思想を抱こうとも、それは壊されはしませんでした。アリョーシャはその良心の証人になろうというんです。
 しかし、イワンはあまりにもこの「すべては許される」に誇りを抱いていたために、「犯人は自分ではない」と自分でいうことができなくなってしまっているんです。
 しかも、その誇りゆえに、イワンは、自分の思想が正しいのならば、父フョードルを殺すことがあってもかまわない、いや、父フョードルが殺されるのならば、それはこの自分イワンの手によってでなければならないはずだ、なぜなら、自分イワンだけが「すべては許される」を手にしている、世界じゅうでたったひとりの人間だからだ、とさえ考えていたでしょう。そこで、その思想の全体が自分の存在理由であるとすら、イワンは考えてもいました。そうして、実際にフョードルが殺されてみると、彼はもうただ自分のその思想にしがみつくことしかできなくなってしまったんですね。

 絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向って彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な凶暴となるのである。そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない、いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、── いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って凶暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、── それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。このことが最後には非常に深く彼の脳裏に刻み込まれるので、彼は全く独自の理由からして永遠の前に不安を抱くことになる、── 永遠は彼が他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。
(キェルケゴール『死に至る病』 斎藤信治訳 岩波文庫)

 ゾシマ長老は以前、イワンにこういったんでした。

「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。」
(同)

 しかし、スメルジャコフが行動してしまったために、イワンは自分の思想を保留の状態にしておけなくなってしまったんです。イワンは、自分の思想の帰結がこんなにも醜い、いやらしい、卑しいものでしかなかったこと、自分自身への嘲弄でしかなかったことに耐えられなくなってしまったんですね。

 これが、私のイワン・カラマーゾフについての理解です。

「大審問官」はイワンの信仰告白です。彼はキリストに向かって、自分が「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を認めない理由を述べたて、「このままだったら、俺は自己流でやるよ」と宣言するんです。そのイワンは、なんとしてもキリストに答えてほしいんです。キリストはことばを発しませんが、しかし、キスをしました。それは、大審問官=イワンの「苦しみ」に向けたキスでした。大審問官=イワンはキリストのキスがもちろんその意味であると認識します。認識しつつ、それでも自己流で行くというのが大審問官=イワンの悲劇です。イワンはこれが悲劇だということを承知していますし、それをアリョーシャに理解してほしいんです。アリョーシャにだけは、イワンはこういう信仰告白ができるんです。かりに、イワンがラキーチンに語ることがあったとしても(ありえませんが)、最後のキスのくだりだけは、絶対にいいませんね(ラキーチンなら、このキリストが実は「僭称者」かもしれないなどといいだすかもしれません)。

 というわけで、イワンの「無神論」は彼の信仰ゆえのものだと私はいいます。

 加えて、私はこれこそが「まさにポリフォニー的な読みということになる」と自分でいいましょう。
(二〇〇八年八月二十五日)
(二〇〇八年八月二十九日 加筆訂正)