「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その三(前) 1 ここまで、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』について ── 基本的にはアリョーシャの「あなたじゃない」を巡って、その周辺だけを、ですが ── もうだいぶしゃべってきたわけです。私がこの翻訳の「あなたじゃない」の部分と、「解題」のある箇所を読んで「ええっ」と声を出してしまった ── この箇所については、まだしゃべっていないんです ── のが七月六日でしたから、もうひと月以上が過ぎているんですね(前回(=「その二」)の文章を公開してから、私はようやく「解題」の全文と「訳者あとがき」とを読みました)。その間に、私のなかでの亀山郁夫への評価は下がる一方で、ドミートリイ・カラマーゾフの台詞をもじっていえば、「こんな男がなぜ訳してるんだ!」という具合にまでなってしまいました。もう彼の文章を読みたくないんですよ。あまりにひどすぎて、批評にも値しないように思われるんです。前回私は「『カラマーゾフの兄弟』に限らず、彼にはどんな文学作品をも読み解く力がない」といいましたが、彼の文章がまた読むに耐えないレヴェルなので、実は、それを根拠に批判すること自体がばかばかしいんです。それにもかかわらず、なぜ私がここで批判をつづけるかというと、これが『カラマーゾフの兄弟』に関わるからです。私は『カラマーゾフの兄弟』が亀山訳および彼の「解題」によって大きく損なわれて多数の読者(現時点で、この文庫は全五巻累計で九〇万部を刷っています)に受容されていることが許せないんですね。とんでもないことをしてくれた、と思います。「解題」についていえば、こんなものでも、ありがたがって読む読者が大勢いるんですよ。私が見つけたあるネット上の文章では、アリョーシャの「あなたじゃない」の意味が「解題」を読んでよくわかった、などというものさえあるんですね。恐ろしいことだ、と思います。 それにしても、こうまで原作を読み取れていない人間による翻訳が成立してしまっていることが、私をある種の感心に導くのでもあるんです。できるものなんだなあ、と思うんです。誤読の累積がありながらも、原作の一文一文を辛抱強く訳していけば、終わりまで行き着くものなんだなあ、と。このことから、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』にさして問題はないのだ、と主張するひとのあることも想像できます。しかし、それは誤りです。そんなことを主張するひとには「文学」がまったくわかっていません。 「文学」がまったくわかっていない、そういうひとたちの恐ろしい数を私は承知しているつもりです。自ら「多読家」を称しながら、「文学」の「ぶ」すらわからず、そうして、自らそれでいいと考えているひとたちの割合も相当なものになるでしょう。それも私は承知しているつもりです。そうして、私は、自らそれでいいと考えないひとたちのことを頼みにするんです。つまり、「背伸びする」つもりのあるひとたちですね。私はこのことを考えるときに何度か「大審問官」を引用してきましたっけ。私には、「大審問官」が何を考えているかがよくわかります。 以前に私は大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したときのことをしゃべりました。「大江健三郎の作品であればなんでもいい」という客が私の勤める書店に押し寄せたんですね。それで、店にある大江作品がすべて売り切れるということがあったわけです。そのときに、私は、そうやって「大江作品であればなんでもいい」といって買っていった客のほとんどが、いざ読みはじめて「なんだこりゃあ?」といって本を投げ出すことになるだろう、とあるひとにいいました。つまり、彼らに大江作品を読み解く力のあるはずがないからだ、と。すると、相手は私にこう問いました。「で、お前にはその大江作品を読み解く力があるってわけだ?」。そのときに私はこう答えたんですね。「その通りです」。この「その通りです」を、私はそれから何度口にして徒労感に襲われてきたでしょうか。 また、ここ最近でも、私は自分の勤める書店で、かなり売れている小説のいくつかを立ち読みしながら、あらためてくらくらしたのでもありました。 あらためて、というのはこういうことです。以前にも引用しましたが、
そうして、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』にしても、その大方の読者が「「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひと」でもあるだろうと私は思っているんです。また、亀山訳がそういう読者に「照準を合わせ」た翻訳でもあるだろうと思うだけでなく、そもそも亀山郁夫自身が「「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひと」であるだろうと思うんです。 既存の、たとえば原卓也訳を読もうとして挫折を経験したひとが、亀山訳をこなれていて読みやすいなどといって、とにかく最後まで読み切る、しかも、感動までするという例も、ネット上ではたくさん読むことができます。しかし、原卓也訳はけして古くさくなっていないし、優れた訳だと私は思います。これは、原訳を読みこなせないひとの方がおかしいのじゃないかと思います。 ここで、いささか乱暴なことをいいますけれど、つい最近に、あるひとが「翻訳作品というのは、どうして売れない・読まれないんだろう?」といい、「あの翻訳調というのが理由だろうか? それはたしかに自分にも苦手であるのだが」といったのに対して、私はこう答えたんですね。なぜ、翻訳作品が売れない・読まれないかというと、それは日本人作家による日本語作品よりも、翻訳作品の日本語の方がしっかりしているからだ。日本人作家による作品の売れているものの多くが、実はしっかりしていない日本語で書かれている。そうして、しっかりした日本語を読み取る力のない読者が多すぎるために、しっかりしていない日本語の作品がどんどん読まれる。そこで、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読みやすいなどといってしまう読者は、亀山郁夫のしっかりしていない日本語に惹かれるわけだ、と。乱暴ですけれど、的外れではないと私は思います。 いや、実際にどうなんでしょうか? 亀山訳で初めて『カラマーゾフの兄弟』を読んだひとにも、アリョーシャの「あなたじゃない」がイワンに図星だったというふうに受け取られるものなんでしょうか? 気にかかるところです。そんなことをいっても、お前自身が亀山訳全編を読んでいないじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、私は絶対にそれをしません。 2 さて、いらだちと嫌悪感に包まれたこのひと月あまりですが、この一連の文章を書いてきて、ひとつよかったと思うことがあります。『カラマーゾフの兄弟』のほんの一部分についてとはいえ、私がかなりしゃべることのできたことですね。こんな機会でもなければ・こんな馬鹿な読みかたの見本さえなければ、私がこの作品についてここまであれこれしゃべることはなかっただろうと思うんです。もっとも、これは未読のひとを対象にしての「読書案内」にはなっていませんけれど。しかし、既読のひとに再度『カラマーゾフの兄弟』について考えてもらうきっかけにはなりうるのじゃないかと思うんですね。再読の薦めにはなっているのじゃないか、と。 ともあれ、私はまだしばらく『カラマーゾフの兄弟』を自分がどんなふうに読んできたかということをしゃべりつづけます。そうすると、お前の読み取りだって、亀山郁夫と同じように誤読の累積じゃないか、呆れてしまうよ、という声の出てくることももちろん予想できます。しかし、だからこそ、私はとにかく自分の読み取りを話さなくてはならないんです。単に亀山郁夫を批判するだけでなく、私の手の内をすっかり明かしておかなくてはならない、私の読書の限界を示しておかなくてはならない ── そうでないと、亀山批判にもならない ── んです。また、それでこそ「読書案内」あるいは「再読の薦め」になるはずだと私は信じます。 それとともに、私はこの機会に『カラマーゾフの兄弟』以外の作品の「案内」までしてもいいんじゃないか、と思います。なにしろ時間はたっぷりあります。 そんなふうで、私はここでまた脱線して、いくらか余計なことをしゃべります。「大審問官」へとつながる話のなかで、イワンがこんなふうにいうんでした。
そこで、私はこの部分の影響を直接に大きく受けたべつの作家のある作品を引用します。 ある幼い子どもが病気によってひどく苦しんで死ぬんですね。しかも、その苦しみは長くつづきました。なぜかというと、この少年はこの病気に対抗するワクチンを注射されていたからです。ワクチンがある一定の効力を発揮してしまったために、本来もっと早く死ぬはずだった彼の存命時間が引き延ばされたんです。ということは、それに伴う苦しみもまた引き延ばされたんですね。しかも、結果として、このワクチンは彼を助けませんでした。この少年を助けようとしていたひとたちは、自分たちがよかれと思ってやったことが、彼の苦しみを引き延ばすことにしかならなかったことに絶望します。
リウーは医師です。そうして、パヌルーは神父。そうして、この後 ── べつの場面、教会での説教において ── でパヌルーはこういうことをいうんですね。
私はまた後で、こうした幼い子どもの苦しみについて触れた、これまたべつの作家の作品を引用することになりますが、いまはこれくらいにしておきます。 それから、私はまたこういう文章も紹介しておきましょう。
3 さて、私が亀山郁夫の「解題」をぱらぱらと読んでいて、「ええっ」と声をあげてしまった ── やっとこれについてしゃべることになります ── のは、「大審問官」についてのこういう文章でした。
大審問官の「受けとめた」ものを、こんなふうに受けとめるひとがいるなどとは、これまで想像したこともありませんでした。なんですか、この選択肢は? しかも、これだけなんですか? それで「ええっ」と声が出てしまったんですね。いや、本当にびっくりしました。 亀山郁夫はこうつづけます。
そして、アリョーシャのキスについては、こうです。
私の反応はどうだったか? 私は、開いた口がふさがらない、といった状態になりましたよ。なんだこれは? そう思いました。いやはや、まさかこんなふうに考えているひとがいるとは信じられませんでした。(数日後に、ようやく気がつきました。イワンのこの「物語詩」(原卓也訳では「叙事詩」)を最後までおとなしく黙って聞き、その後に「そのキスは、大審問官の事業を承認する、という意味なんですね?」と真面目に質問するかもしれない人物を私はひとりだけ知っていました ── スメルジャコフ!) ── というわけで、私はなんと「大審問官」についてしゃべらなくてはならなくなったわけです。笑ってしまいますが、しかたがありません。なんでこんなことをいわなくてはならないのか、と真面目に思いますよ。しかし、誰もいわないのだから、しかたがありません。とはいえ、かつて『カラマーゾフの兄弟』に深く感動したことのあるひとなら、私が前々回(=「その一」)で、実はしきりにこの「大審問官」とその周辺のイワンの思想について触れていたのがわかっていただろうとも思います。
同じことですが、これをアリョーシャの立場からいい換えてもみました。
それぞれに私はある留保をつけました。傍線部「いや、実は彼にもそこまでは不明だっただろうと思いますが」と「しかし、それを本当に信じていたのではなかった」です。さらに、こんなふうにもいいました。
こちらでも傍線部に注目してください。私は、これがイワン・カラマーゾフという青年(数えで二十三歳)だと思っているんです。 もしかすると、がっかりされた方があるかもしれません。それは、イワンを過小評価しているよ、それだと、『カラマーゾフの兄弟』の全体まで小さく思われてくるよ、という方があるでしょう。イワンがもっと悪魔的な異形の人物であった方がよかったと考えている読者ですね。そういう読みかたをするひとのあるのを、私は承知しています。しかし、私はそういう読みかたから、イワンをもっとこちら側へと引き戻したいんですね。イワンをもっとふつうの人間として考えたいんです。 私はこう考えているんです。作家は、自分の書いている作品で、登場人物にある思想を語らせることがあるでしょうが(私はここで「登場人物」と「思想」のことだけをいいます)、彼のすべきことは、まずその登場人物を読者の前に存在させることです。作家がどうにかこうにか、その登場人物を描き、読者の前に存在させることに成功したとします。ところが、出来上がったその登場人物では、当初作家の考えていた思想を語るには十分でない、とてもその登場人物がその思想を語るとは思えない、というふうになってしまったとき、作家は、その登場人物にその思想を語らせてはいけません。まず、登場人物です。思想はその次になります。つまり、登場人物は思想の発現する「場」なんですね。その「場」なしには、思想もなにも生じることがありません。作家はなによりもまず「場」を存在させなくてはならないんですよ。そういうことです。むろん、作家は、その思想に合わせた造形をその登場人物に与えようとはするんでしょうけれど……。 何がいいたいのかというと、こうです。イワンの思想は、必ずイワン自身の生身の身体のうえに成り立っていなくてはなりません。いいですか、イワンが(存在して)いて、そのうえで彼の思想が描かれるというのでなければなりません。イワンが先です。彼の思想 ── ということは「大審問官」も含まれます ── はその次です。 私は、アリョーシャのこのことばをそのまま受け取っていいだろうと思っているんです。
「大審問官」の直前における、アリョーシャを前にしてのイワンの上機嫌が、実はイワン本人を、他のどの場面よりよく表現しているだろうと思うんです。 私はイワンの「無神論」が、彼の生身の身体のうえに、どのように成立していたかを問題にするんです。 結論からいえば、こうなります。イワンは神を信じているんですよ。彼の「無神論」の基盤は、彼の信仰にあります。彼は神を信じていて、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」に大きい信頼と期待を寄せているんです。ところが、現実には、「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」には、イワンが絶対に同意できないような矛盾点があります。だから、彼は神をなじることになるんですよ。彼は裏切られたというふうに感じるんです。神が……してくれない、……もしてくれない、……もしてくれない、そんなことってあるか、と彼は主張してやまないわけです。これが彼の生身の身体のうえに成立していた「無神論」なんだ、と私は考えているんです。
これがイワンの本音ですよ。この本音が、アリョーシャ以外の誰の前にも出てくることはありません。これは、アリョーシャがそういう本音を引き出すことのできる人間であるということでもあります。イワンにとってのアリョーシャは特別です。だから、後に同じふたりの会話のなかに「あなたじゃない」が出てきてもおかしくないわけです。
イワンは、実はとても「神の創ったこの世界、神の世界なるもの」を認めたいんですよ。でも(だからこそ)、どうしてもそれを「認めないのだし、認めることに同意できない」んです。
これがイワンですよ。しかし、多くのひとが ── 一時期の私も例外ではありません ── この場面以外の、特にもっと後のイワンの印象に圧倒されるために、このことをすっかり忘れてしまうことになるんです。でも、おぼえておいてください。イワンは「まるきり幼いおとなしい少年のように、にっこり」することのできる若者なんです。 そもそも彼は小説のはじめにこんなふうに紹介されていました。
どうですか? それで、ゾシマ長老のところで、これに関する話題が出てきます。その後でミウーソフが最近のイワンの発言についてしゃべり、長老がイワンにたずねます。
これがイワンです。彼はふざけていたわけじゃありません。この若者は、ごく少数の、彼以上に考え、彼の考えていることを理解することができ、彼の抱えている問題に精通している相手であって、しかも、彼の問題を「肯定的なほうに」解決する立場の相手には、正直で誠実な敬意を表わすことができます。そうでない大多数の相手に向かっては、彼は自分の思想の、自他に対する嘲弄的な部分を取り出して、偽悪的・断定的にしゃべります。ここで、では、アリョーシャがどういう位置にいるかといえば、おそらく、彼はイワンにとって、単に「彼以上に考えている相手・彼の考えていることを理解することのできる相手・彼の抱えている問題に精通している相手」としてのゾシマ長老につづくはずの人間であって、イワンの理論のいちいちを長老ほどに理解できるのではなくても、しかし、現実に彼の問題を「肯定的なほうに」解決する形での生をすでに実践している ── それも、何も考えていないから・愚かだからというのとは正反対の意味での実践なんですよ。アリョーシャは非常に賢くて、もしかすると、イワンとまったく同じ苦悩を抱えていたかもしれないにもかかわらず、たまたまそうならずにすんでいる・すれすれのところにいるんです ── 人間なんですね。だから、アリョーシャはイワンにとっての希望です。アリョーシャゆえに、イワンも自分の問題を「肯定的なほうに」解決することができるかもしれないんです。
それで、この「肯定的なほうに」ということをもっとよく考えるために、「否定的なほうに」ということを想像してみてほしいんです。こういう存在を仮定してみてほしいんです。つまり、問題を「否定的なほうに」解決したゾシマ長老 ── という存在です。 ここで、私はまたトーマス・マンを引用してみます。
この『ファウストゥス博士』を私はこれまでたびたび引用してきましたが、この部分は初めてです。説明が必要だと思いますが、簡単にします。これは副題が「一友人によって物語られた ドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンの生涯」となっています。主人公の作曲家は、悪魔と契約して創作のインスピレーションを得ることになる ── 彼はイワン同様に悪魔と会話することになります。むろん、これはゲーテの『ファウスト』のみならず、『カラマーゾフの兄弟』を踏まえているわけです ── んですが、その契約には、こういう条項がありました。彼は「愛してはならない」んです。そうして、彼が愛を注ぐ相手は次々に死んでいくんですが、最後に彼が愛したのは幼い子どもだったんですね。恐ろしく苦しんで、この子どもは死にます。 次に引用する場面で、この子どもの名まえが「ネポムク」=「エヒョー」であることだけをいっておきます。
その後で、主人公が先ほど引用した「ぼくがそれを撤回しよう」をいうんですね。「第九交響曲」はもちろんベートーヴェンのそれです。そうして、彼は「ファウスト・カンタータ」という、最後の作品を作曲します。
どうでしょう?「問題を「否定的なほうに」解決したゾシマ長老」から、いまの引用へと私が連想したのがおわかりいただけましたか? 「等質的陰画」、「撤回」、「それは在ってはならない」、「言葉の最も暗鬱な意味において、その対蹠物として」ということばをよく噛みしめてほしいんです。 さらにまた私は大江健三郎を引用しましょう。
いかがでしょう? トーマス・マンの文章と合わせて、何度も何度も、この逆転・反転・裏返しのイメージがわかるまで読み返してみてほしいんです。 私は大審問官そのひとを「問題を「否定的なほうに」解決したゾシマ長老」のように考えているんです。これは、将来的に自分がそうなるかもしれない、と考えているイワン・カラマーゾフですね。だから、私は亀山郁夫の「イワンは、おそらく自分自身が「大審問官」のラストに託した意味を、そのキスに重ねようとしていた。」には同意します。でも、まったく逆の意味でなんですけれど。 (二〇〇八年八月二十九日 加筆訂正)
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