「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その二(後) 4 さて、前回の文章を書いた後で、私は亀山郁夫の「解題」をまたぱらぱらとめくっていて、こういう記述 ── これのせいで、今回の文章がこうまで長くなってしまったんですね ── を見つけたんでした。イワンとスメルジャコフとの対面についてです。
では、またこれまでと同じように、小説の辿り直しをしてみましょうか。 イワンは父の死の五日後に帰ってきました。
イワンは、ミーチャにも会い、それからスメルジャコフのところに向かいます。
イワンはモスクワで、父の死ばかりでなく、兄の逮捕のことをも知らされていたでしょう。ここで、考えてみてほしいんですが、もしミーチャが逮捕されていなかったら、ミーチャに嫌疑すらかかっていなかったら、あるいは、イワンが父の死だけを知らされて、ミーチャに限らず他の誰の逮捕をも知らされていなかったら、どうでしょうか? 「多くのことが心をかき乱し、多くの点が疑わしく思われた」どころじゃなかったんじゃありませんか? しかし、ともあれ、イワンはミーチャが逮捕されていることを知っていましたし、この表面的事実に頼ることができたんです。そうして、「その会話のことはしばらく黙っていることにした」イワンは、スメルジャコフとこんなやりとりをします。
そうして、この最初の対面の終わりはこうです。
イワンはそうして、
しかし、
さらに、
そのイワンは道でアリョーシャに出会うと、
ここでも、イワンは三度めのときと同じように、アリョーシャと話した直後にスメルジャコフを訪問するわけです。アリョーシャは、いわばイワンの良心 ── の番人、いや、証人なんですね。彼はイワンの良心の存在をいつでも証言する用意があります。イワンには「自分のために祈ってくれる」人間がいるんです ── なんですね。ここで読者はゾシマ長老の「神秘な客」(亀山訳では「謎の訪問客」)を思い出してもいいでしょう。イワンは心の底では、最初から真実を知っていましたが、先にもいいましたように、ミーチャが犯人だという表面的事実に頼ることで、自分を正視していなかった・しないでいられたんですよ。しかし、遅かれ早かれ、彼は真実に突き当たったはずです。ともあれ、彼にはまだスメルジャコフという表面的事実があるので、そこに当たってみるんです。 というところで、ちょっと横道に逸れます。いま、「神秘な客」について触れたので、それに絡めて話します。 前回、私は亀山郁夫の「解題」におけるいくつかの主張をでたらめだといいましたが、それは、たとえば、他にこんなところ ── この箇所も私はたまたまちらっと見かけただけです ── にも見出すことができます。亀山郁夫はこう書いています。
「その彼」というのはゾシマなんですが、彼が修道院への道を踏み出したのは、「謎の訪問客」に出会う以前なんですよ。「謎の訪問客」は、決闘を放棄して、軍籍を離れ、修道僧になろうとしている奇妙な人物ゾシマの評判を聞きつけてやって来たひとたちのひとりなんです。それなのに、なぜ亀山郁夫は「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんて書くんでしょうか? もうこれが理解できない。めちゃくちゃです。あまりに杜撰です。雑に過ぎる。わざとやっているのか? それとも、彼は本当にこの小説を訳したのか? でなければ、「解題」を誰かべつの無能な人物に代筆させているのか? 最悪なのが、小説を訳した人物と「解題」を書いた人物とが同一である場合です。最悪なのか? 最悪なんだろうなあ。 ── とまあ、こういうことです。 ともあれ、ついでに、また、私はこういう文章を引用しておきます。これも、以前に私が引用した際に、こういう人物が『カラマーゾフの兄弟』にいないでしょうか、といった文章です。
というところで、では、話を戻します。 スメルジャコフとの二度めの対面では、
さらに、
そうして、
いいですか、「あいつはとにかく無実なんだからな」なんていうのはイワンのごまかしですよ。そうして、先にもいいましたが、「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると」という条件づけは、まだイワンが自分を正視していないということを示します。しかし、それよりも、彼がそう考えながらも、「狂人のよう」になってしまったことの方に注目してください。この動揺がイワンです。イワン・カラマーゾフなんです。 カテリーナはミーチャの手紙をイワンに見せました。
最後の「モスクワから来た医者」に、イワンは(悪魔の)幻覚のことを話しているんですね。どうですか、これをどう読み取りますか? イワンは「すっかり安心した」のだから、そこからひと月以上も彼は平気なままでいられたんだ、そこでなぜか突然、身体に変調が起こったのだ、と読むんですか? そうして、アリョーシャの「あなたじゃない」を受けるまで、イワンが「自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つ」ことがなかったと読むんですか? そうじゃないでしょう? イワンはまたしても、ただ表面的事実に頼っただけですよ。またしても自分を正視するのを避けた・ごまかしたんです。しかし、彼の内心はこの間もずっと自分が人殺しだと知っていたんですよ。だから、ついにそれが身体の変調として現われてきたんです。とはいえ、語り手はここでイワンが表面的事実に頼っていることそのままに自身も表面的事実を語りつづけるんです。 それにしても、やれやれ、なんだって私はこんなにも長々とたくさんの引用をしてこなければならないんですかね? しかし、もうひと息です。 ここで、ある箇所 ── 語り手が表面的事実を中心に語りながらも、さりげなくそこに忍び込ませたような箇所 ── について、久々に亀山郁夫訳を引用してみます。
同じ箇所の原卓也訳はどうか?
亀山郁夫の訳文に傍点はありません。ちなみに、彼は「あなたじゃない」にも傍点をふっていませんでした。原文ではおそらく斜体の活字が当てられていたと思われる部分なんですが、亀山訳はそれを反映しない方針なんでしょう。しかし、傍点を施さないで、この部分を読者にわからせる・引っかけることがどこまでできるんでしょうか? そう思います。 それにしても、この「まさに兄が父を殺したためである」(亀山訳では「ほかでもない、ミーチャが父親を殺したせいだ」)は、どんなふうに読めばいいんでしょうか? 私はこう読みました。 「まさに兄が父を殺したためである」というのは、「まさに、自分イワンではなく、兄ミーチャが父を殺したためである」ということです。つまり、イワンは、一方で父を殺したのが自分でなく、ミーチャであることに「安心」していながら、他方では「父を殺したのが、自分であればよかったのに」と考えているんです。兄に手柄を横取りされたとでもいい換えましょうか。なぜ、そんなことを彼が考えるでしょうか? 私は次の文章を前回に引用しました。
イワンについては、しばらく後でこういう記述があります。
「このひと月の間」に何があったんでしょうか? 悪魔ですよ。悪魔の幻覚です。イワンは、最初から、心の奥底では「犯人は自分だ」と知っていました。しかし、現実には ── 表面的事実としては ── ミーチャが逮捕されました。それでも、イワンは犯人がスメルジャコフではなかろうか、と考えつづけています。ですが、彼はとにかく表面的事実に頼ります。ところが、やっぱり、彼は真実を知っているんですよ。そして、その真実が何に由来するかを承知していたんです。何に由来するか? 彼の思想 ── すべては許される ── ですよ。もし犯人がミーチャだとしたら、彼の思想は形無しじゃありませんか。その思想を抱いていた彼自身もみっともないことになるじゃありませんか。もちろん、私だって、イワンが本当に自分の思想から導き出せる結論として「すべては許される」、したがって、父親を殺すことがあっていい、などと信じていなかったと考えてはいます。でも、イワンはこれに足を取られてしまうんですね。イワンはこういう人間なんですよ。悪魔はイワンのこの点を刺激しつづけてきたわけです。事情は複雑ですが、それが「プライド」の問題です。彼は誰にも頭を下げたくはありません。彼には「謙遜な勇気」がありません。ただただ、自分の「プライド」にしがみつくんです。自分には「カラマーゾフ的な力」があるじゃないか、と彼は思いますが、限界はもうすぐそこです。先の『死に至る病』の文章を使っていえば、こういうことです。犯人がイワンでなく、ミーチャであるということは、イワンが「他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。」こうして、イワンのこの二か月間の語り直しによって、語り手はイワンの思想の決着を語るべく進んでいるのだと私は考えます。 さて、
どうですか?「それも、明らかにだいぶ前から考えぬいた計画」です。 5 さて、やっと、亀山郁夫の「解題」に戻ることができます。さっきも私は「なんだって私はこんなにも長々とたくさんの引用をしてこなければならないんですかね」とぼやきましたが、それは、亀山郁夫がこの「解題」において、イワンとスメルジャコフの対面の一回めと二回めとを軽く流してしまっているからなんですね。それはないだろう、と私は思ったわけです。というわけで、ここまで長々と引用してきました。というわけで、私はお断わりしておきますが、三回めの対面についての引用はごくわずかにします。
なんですか、これは?「実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である」って、亀山郁夫は本当に理解できないんですか? スメルジャコフはフョードル殺害を、イワンから直接指示されたわけじゃありませんでした。彼はイワンとの会話を「賢い人」との会話だとみなすことによって、イワンからの許可を得たつもりでいたわけです。そうして、いざ殺害を実行した後で、彼がまず確かめようとするのは、イワンが「賢い人」として自分に接してくるかどうかじゃないですか。一回めの対面でも彼はイワンに「もっぱら神さまに対するように、あなたに期待をかけている」とはっきりいっているじゃないですか。二回めでは、もうどうやらイワンが「賢い人」として自分に接することのないようなのを看取しつつも、まだいくらかの希望をかけて、「賢くなってくださいまし」というじゃないですか。イワンが最初から「賢い人」としてスメルジャコフに接していれば、彼だって殺害の事実を認めますよ。そうじゃなかったから ── 主犯であるイワンがとぼけはじめた・裏切りはじめた、と彼には思えたわけです ── 否認するんじゃないですか。スメルジャコフはイワンに合わせているんですよ。そうして彼の態度は、つまり、イワン自身が真実にどれだけ向き合うことができているかの度合いを、鏡のように正確に映し出しているんじゃないでしょうか? イワンが真実に近づくほど・自分自身を正視しようとすればするほど、スメルジャコフも真実を口にしていくことになるわけです。 こういうことがわかっていないから、亀山郁夫はまたしても無理やり珍妙な理屈をひねり出さなくてはならなくなるんです。
つまり、亀山郁夫はこういっているんです。ポリフォニーの小説である『カラマーゾフの兄弟』では、登場人物たちが作者の都合によって、本来彼らがいうはずのないことをいわされることはない・登場人物は本来彼らのいいそうなことしかいわない ── それだけ彼らは個性的であり、独立した声を持って相互に掛け合いを行なう ── のだが、なかには例外もあって、このスメルジャコフの「セリフ」は、彼自身は殺害の事実を述べるはずのところが、なぜか作者ドストエフスキーのよくわからない創作上の都合で、否認することになったのだ、 私・亀山にはそうとしか理解できない。 はっきりいいますが、「実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である。そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていいほど、バイアスがかかっていそうである。」というのは、でたらめです。亀山郁夫に読解力がないだけのことです。 次です。三度めの対面の前についての記述 ──
はいはい、「まさしくフロイト的である」ですか。ここでやっと亀山郁夫はイワンの心の内側が理解できかけたらしいです。遅すぎます。事件を知らされた直後から、これまでさんざんイワンの心理が描かれてきたのを、いったい、どう読んできたんですか? そして、次。
「二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」」って、それ、本当にそう思っているんですか? 本当にそう思っているんだろうなあ。でなければ、「「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。」なんて書かないものなあ。それ、『カラマーゾフの兄弟』ではなくて、もしかすると単純にフロイトなんじゃないですか? イワンはそんなことを考えていたんじゃありません。イワンはそんな悠長な、抽象的な、他人事のような理解なんかしている場合じゃなかったと思いますよ。彼は自分の全存在の存亡のかかった、ぎりぎりの、ひどく具体的・即物的な危機にあったでしょう。 次。
どうやら亀山郁夫は、スメルジャコフの「殺したのはあなたですよ」を読んで、やっとアリョーシャの「あなたじゃない」に反応できたらしいんですね。
「ああ、なるほど、このスメルジャコフのことばに対応しているのか、アリョーシャの台詞は! いや、ここまでわからなかったよ」と亀山郁夫は思ったに違いありません。ここを見つけたときに彼がどれほど安心したか、目に浮かぶようです。しかし、逆ですよ。スメルジャコフのことばがアリョーシャのことばに対応しているのであって、アリョーシャが先で、アリョーシャの方が強烈な意味を込めていたし、私がいったように、彼の「あなたじゃない」の方が、それを相手に告げるということに恐ろしく勇気を必要とすることばでした。作品中の位置づけということからしても、アリョーシャの「あなたじゃない」の方に、はっきり重量が置かれてもいるんです。 次はどうですか?
遅すぎます。しかも、読みが浅すぎる。浅いどころか、全然読めていない。誤読の累積です。 「あなたじゃない」に反応できなかった ── 致命的です ── 亀山郁夫には、もうこの小説について行くことができませんでした。彼はイワンとスメルジャコフとの最初の二回の対面を軽く素通りしようとしました。彼は、イワンの表面上の安心だけを読み取り、ぎりぎりまでイワンの本当の苦悩を理解することができません。というか、彼の文章からは、イワンの本当の苦悩ではない、空疎なことしか、私には読み取れません。スメルジャコフがどういう人間であるかも彼にはわかっていません。それで、三回めの対面でのスメルジャコフとアリョーシャのことばの対応に ── しかも、それぞれのことばの重量を逆に解釈して ── やっと気づいた亀山郁夫は、とにかく苦しまぎれのどうでもいい説明を書き散らしました。 それがこの「解題」におけるこの一連の文章になります。繰り返しますが、そうでなければ、あの訳にはならないし、また、「解題」の文章がこのようになるわけもありません。 笑いごとじゃありません。 めちゃくちゃです。こんなひとが『カラマーゾフの兄弟』を訳したんですよ。個々の誤訳がどうとかいう以前の問題でしょう。そもそも、亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』が全然読めていません。いや、『カラマーゾフの兄弟』に限らず、彼にはどんな文学作品をも読み解く力がないと私は思いますね。彼には、それぞれの登場人物も理解できていませんから、当然、彼らの関係もわかっていません。彼らが何をやりとりしているのかもわかっていません。そんなひとが訳したら、どういうことになるでしょうか?
いや、読者は、最後には、恐ろしく遠くまで原典から遠ざけられてしまったはずです。あまりのことに、私はそれこそ呆然とします。 |