連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その二(前)

    1

 あらためてお断りしておきますが、私は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の全体を読んでいません。それどころか、私はただこの翻訳におけるアリョーシャとイワンの会話「あなたじゃない」という第四巻中の箇所を読んでみたにすぎません。それ以前にも自分の勤める書店の店頭で、数箇所を立ち読み(斜め読み)したことはあった ── そして気に入らなかった ── んですが、きちんとじっくり読んでみたのはここだけです。それで、まず、疑問に感じたことがありました。それから、ちょうどこの箇所について亀山郁夫自身が第五巻の「解題」── 私はこちらも通読していません ── で触れているのを、たまたま見つけてしまったんです。これに気づかなければ、前回のああも長い文章を書かずにすんだはずなんですね。

 すこしおさらいをしますが、亀山郁夫の訳と「解題」の文章を読むかぎり、どうやら、イワンはアリョーシャの「あなたじゃない」を即座に理解できなかった・「あなたじゃない」がイワンには図星ではなかったようなんですね。だから、この部分の会話が最初しばらく、とんちんかんなやりとりになってしまうんです。神がかり的な妄言をアリョーシャが一方的にイワンにもちかけ、イワンがわけもわからず困惑する、という図です。そうして、亀山郁夫の読み取りでは、それを「あなたが殺した」と受け取ったイワンがアリョーシャに絶交をいい渡す、というふうになります。ところが、私は二十五年前の初読時 ── 以後、何度もこの作品の全体を通読しましたし、特にこの場面は数え切れないくらい読み返してきました ── から、イワンには「あなたじゃない」の意味が即座にわかった・「あなたじゃない」がイワンには図星だった、と解釈していたんです。その解釈ゆえに、この場面に私は大きく感動したんですし、以後、ずっとこのアリョーシャのことばについて考えつづけてきたんでした。しかし、どうも亀山郁夫はかつて一度もここに心を動かされることがなかったらしい。「殺したのは、あなたじゃありません」についても、語順が奇妙だという認識 ── それも、この点に言及する数多い他の研究者たちを横目にして ── にとどまり、「端的にいって、居心地がわるい」としか感じなかったようなんです。それで、亀山郁夫は鈍感だ、と私はいいました。
 ここで、こういう仮定をしてみます。いや、亀山郁夫は、イワンには「あなたじゃない」の意味が即座にわかった・「あなたじゃない」がイワンには図星だったと、もちろんそう解釈していたんだ、と。しかし、それであの訳にはならないし、そうであれば、「解題」の文章があのようになるわけもありません、と私はいうでしょう。いや、それでもあの訳になり、あの「解題」の文章になったんだよ、と、もし真顔でいわれたとすると ── いや、そんなことはありえませんね。

 あるいは、前回の私の文章を読んでも、原卓也訳と亀山郁夫訳の違いがわからなかった、ピンとこなかった、というひとがあるかもしれません。もし、あなたがそうなら、私は提案しますが、ひとつ、あなたが『カラマーゾフの兄弟』の芝居を演出するとして、イワン役とアリョーシャ役のふたりの俳優に演技指導してみることを想像してほしいんです。頭のなかで、原訳と亀山訳とのふたつの台本を俳優たちにそれぞれ演じさせてみてほしいんですね。そうすると、まったく別の芝居が出来上がるはずだと私は考えているんです。ふたつの台本の違いが、ちょっとしたト書きの違いではないことが納得されるはずだ、と思うんです。思い出してください ──

 些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。
(「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」

 ── というか、それが本来小説を読むということなんですけれども。これに関しては、ついでに、こういう文章も引用しておきます。

 会話の魅力もさることながら、ト書きの部分、つまり会話にはさまれたちいさな説明文も、たいせつに読んでいただきたい。きわめて単純化した形でしか訳しようのないト書き文も、原文ではしばしば、それぞれに豊かなニュアンスをはらんだ語が使用されており、登場人物の心理状態がきわめて精密に書き込まれているのである。
(亀山郁夫「解題」)

 しかし、どうでしょうか。先にもいったように、亀山郁夫の「解題」を読まなければ、つまり、「あなたじゃない」の訳文を読んだだけでは、私はこれほど確信を持って以上のことを指摘できなかったのじゃないでしょうか? そうかもしれません。違和感をおぼえつつも、素通りしてしまったかもしれません。そもそも、イワンには「あなたじゃない」の意味が即座にわかった・「あなたじゃない」がイワンには図星だった、と解釈して四半世紀の私は、その解釈のまま亀山訳を読み、ちらっと不審を抱いただけで終わりにしていたのじゃないでしょうか。その意味では、「解題」を書くことで亀山郁夫は墓穴を掘っていたわけです。ということは、亀山郁夫の訳文自体にさほど問題はないのじゃないか、という声も聞こえてきそうです。そのまま同意してしまうひとも多いかもしれません。いや、多いだろうと思います。
 でも、それは間違いです。

 私は、翻訳者がどのように原作を読み取っていたか ── どのように作中人物たちを読み取り、彼らの関係を読み取り、その関係の推移を読み取っていたか(それらの読み取りは別々のものでなく、切り離すことのできないものなんですが) ── ということが、必ず彼の翻訳に反映されると考えているんです。私はこういうことをいいたいんですよ。原作の一部だけを無作為に取り出して、それを和訳するということがあったとしますね。たとえば、「何時ですか?」、「三時五分前です」というやりとりがあったとします。一部だけ取り出して訳せば、いま掲げた訳でいいとしても、原作の文脈のなかでは、このやりとりをする人物たちがどういう関係にあるのかによって、訳しかたが変わらざるをえないわけです。彼らは「何時?」、「三時五分前」というやりとりをする間柄なのかもしれないわけですよね。「何時かね?」、「三時五分前でございます」という間柄かもしれません。「何時だい?」、「三時五分前っ」という間柄だってありうるでしょう。こういう差異は、翻訳者が原作をどのように読み取っていたかによって生じます。そのうえ、当の場面がどういうものであったかにもよって、この会話は変化しなくてはなりません。原作では三時きっかりに登場人物たちの目の前にある爆弾が爆発することになっているのかもしれません。それで、このとき、「三時五分前」と答えた人物だけが爆弾の存在を、爆発時間を知っているのかもしれません。逆かもしれません。それとも、彼らの間では、常に二時間分を足して時刻を告げる習慣があったのかもしれません。実際は一時五分前なのを、三時五分前というのかもしれません。または、そういう習慣があったにもかかわらず、このときだけたまたま、答える方の人物が自分の腕時計の針の指している時刻をそのまま読みあげてしまった可能性だってありますよね。そんなふうで、登場人物たちがどういう関係で、彼らの置かれているのがどのような状況であるか、ということの読み取りによって、翻訳者は訳文を変えていかなくてはならないんです。それは作品の個々の箇所ばかりか、全体にわたってそうでなくてはなりません。

 だから、亀山郁夫がアリョーシャの「あなたじゃない」をイワンに図星であったか、なかったかを読み違えた場合に、それは必ず訳文に現われてしまうだろうというんです。そういう読み違えがあるからには、もしかすると、この場面のみならず、亀山郁夫がアリョーシャとイワンとの関係を読み違えている可能性だってあるわけです。アリョーシャがどういう人間で、イワンがどういう人間かということの彼の誤読が、作品全体に行きわたる可能性だってあるわけなんですよ。私はロシア語を知りませんから、それが実際にどんなふうに現われているか、わかりませんけれども。

 いや、私はいいますが、亀山郁夫の「解題」を読むかぎり、私は彼の『カラマーゾフの兄弟』がとんでもない誤読の累積に違いないと考えているんです。「解題」における彼の読み取りがあまりにもひどいので、そういうんです。前回に私の口にした「鈍感」どころじゃないだろうと、いまは思います。

 私は、前回の文章を書いた後、そのままつづきに取りかかっていたんですが、その最中、また何度も「解題」をぱらぱらとめくるうちに、次々驚くような文章を見つけてしまうことになりました。そうして、それも、これも、あれも問題にしなくちゃならないと考えて途方に暮れることになりました。ちらっと見ただけで、こちらが呆れてしまうような文章がたくさんあるんですよ。それで、私の方が迷走して、あれこれずいぶん長い文章を書きはしたものの、収拾がつかなくなってしまい、しばらく、どうしゃべっていいものかわからなくなってしまいました。
 それでも私は、やっとこういう立ち位置を自分で確保しました。つまり、私は、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読み終えた ── しかも「解題」に大きい影響を受けもした・「解題」の通りに作品を読んでしまった ── 若い初読者を聞き手に想定しながらしゃべればいいんです。この、非常に数多いはずの初読者たちが、この後、亀山郁夫以外の翻訳者による『カラマーゾフの兄弟』を読むことになるかというと、考えにくいでしょう。彼らのほとんどは、今後ずっと、ある大切な芽を摘まれたままの読書を引きずって生きていくことになるでしょう。私は、彼らがそうならないように、とにかく、たとえば私の読んだ原卓也の訳を読んでもらえるように、彼らにある種の「解毒」ができるようにしゃべりましょう。そういうわけで、これから私がしゃべることは、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいないひとにはもう通じないだろう ── 前回の文章ですらすでにそうだったでしょう ── と思います。ただ、そういうひとにも、私の読書のしかたとか態度とか、あるいは、私の読書の限界とか、そういったことを想像してもらうことはできるかもしれません。

 しかし、その前にまだいっておかなくてはならないことがあるようです。こういう疑問の聞こえてきそうな気配を私が感じるからですね。
 つまり、おまえは、イワンには「あなたじゃない」の意味が即座にわかった・「あなたじゃない」がイワンには図星だった、という解釈だけが正解のようにいうけれど、それが間違っているという可能性を考えてみないのかい? それは、ここでの論議に必ずなくてはならない論点じゃないか? あるいは、原卓也はああ訳しているけれども、しかし、彼ももし「解題」を書いていたら、やはり亀山郁夫と同じことを書いていたのじゃないのかい? 
 愚問だと思いますが、一応返答します。
 私は、イワンには「あなたじゃない」の意味が即座にわかった・「あなたじゃない」がイワンには図星だった、という解釈の論拠を前回かなり詳細に説明しました。つけ加えておきますが、私は、『罪と罰』におけるポルフィーリイの「あなたですよ」なしでも、イワンには「あなたじゃない」の意味が即座にわかった・「あなたじゃない」がイワンには図星だったと考えていました。「あなたですよ」の再読で、あらためて、自分の解釈の強化がなされたということです。もうひとついっておきますが、キルケゴールの『死に至る病』を私が読んだのは、『カラマーゾフの兄弟』初読の一年ほど前でした。これは、ある意味で、イワンの苦しい深刻な自意識の堂々巡り ── 自分自身への際限のない問いかけと否定 ── のからくりについて、私がその読書とともに、自分自身の個人的な経験を通じて、『カラマーゾフの兄弟』を読む以前から知っていたということでもあります。
 また、私はこうもいっておきたいんですが、『カラマーゾフの兄弟』は、無意味に ── いいですか、無意味にですよ ── 「会話が最初しばらく、とんちんかんなやりとりになってしまう」ことのありえないつくりになっています。この小説にそんな無意味はないし、そんな無意味を取り込んだ小説 ── そんな無意味を取り込むつくりの小説はありえます ── ならば、必ず他にもこういう無意味が数多く含まれるはずです。『カラマーゾフの兄弟』のつくりのなかで、ドストエフスキーがせっかくの「あなたじゃない」を強烈な即効性なしに使用することがあるとは思えません。
 また、私はいいますが、原卓也が「解題」に、イワンはアリョーシャの「あなたじゃない」を即座に理解できなかった・「あなたじゃない」がイワンには図星ではなかった、と書くことはありえません。そうでなければ、あのような訳になるはずもないんです。

 話が逸れますが、『カラマーゾフの兄弟』における「あなたじゃない」の ── そっくり同じというのでは全然ありませんが、それでも ── 遠い反響のように、ある非常に感動的な場面を描いた作品として、私はピーター・ウィアー監督による映画『フィアレス』(「Fearless」 原作の翻訳も出ていますが、そちらではありません。これは読む必要がありません)をたくさんのひとに観てもらいたいと思います。これは、必ず「あなたじゃない」を読む助けになる作品です。ひとが「あなたじゃない」と誰かにいうことがどれほど困難であるか、それをいうためにどれほどの献身をしなければならないか、ということがわかるでしょう。



    2

 さて、私はまず、前回の補強といったことから始めます。先にちらと触れたこの作品のつくりとも結ぶことです。
 私は前回にこういいました。アリョーシャの「あなたじゃない」は「殺人事件からしばらくの間、読者の前から遠ざかっていたイワンの消息を一挙に伝える」ことばでもある、と。「しばらくの間」といいましたが、イワンは「第五編 プロとコントラ」を最後に、小説が「第六編 ロシアの修道僧」、「第七編 アリョーシャ」、「第八編 ミーチャ」、「第九編 予審」、「第十編 少年たち」と進むなかで、ずっと直接に姿を見せることがありません。しかし、読者は「大審問官」を含むイワンとアリョーシャの会話を強烈におぼえているでしょうし、読み進みながら、ゾシマ長老の話のなかにイワンの影を見出しもしていたのじゃないでしょうか。

 ミーチャが連行されてから、小説は「第十編 少年たち」に移ります。自分がこっけいに見えないだろうか、と尋ねるコーリャ少年に向かってアリョーシャがこんなことをいいます。

「人間なんて、いったい何度こっけいになったり、こっけいに見えたりするか、わからないんですよ。それなのに、この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になるのをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです。」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 つづく「第十一編」が「兄イワン」です。いよいよ明日がミーチャの裁判という一日が語られます。イワン本人が姿を現わす前に、アリョーシャがいろいろなひとたちと会うなかで、伝聞の形で、イワンに関する情報を得ていくという導入がなされます。
 アリョーシャが最初に訪ねるのはグルーシェニカです。

「いいえ、これはラキートカじゃないわ。弟のイワン・フョードロウィチがあの人の心を掻き乱すのよ、よくあそこに来ているから、そうだわ……」グルーシェニカは口走り、突然はっと口をつぐんだ。アリョーシャはびっくりしたように彼女を見つめた。
「よく来てる? ほんとに来たことがあるんですか? ミーチャ自身は僕に、イワンは一度も来たことがないって言ってたけど」
(同)

 そうして、アリョーシャは、イワンがミーチャの脱走を計画していることを知ります。アリョーシャはこういいます。

「イワン兄さんは、ミーチャの事件に関して僕とは話をしないんですよ」彼はゆっくりと言った。「それに概してこのふた月というもの、僕とはほとんど口をきかないし。僕が訪ねて行くと、いつも、僕が行ったのが気に入らぬ様子をするもんだから、もう三週間ほども訪ねていないんです」
(同)

 次はホフラコワ夫人。

「あら、あのね、アレクセイ・フョードロウィチ、ひょっとすると、ここがいちばん肝心の点かもしれませんわ」ホフラコワ夫人がふいに泣きだして、叫んだ。「神にかけて申しますけれど、あたくしリーズは本心からあなたにお任せしていますのよ。ですから、あの子が母親に内緒であなたをおよびしたからといって、そんなこと何でもございません。でも、あなたのお兄さまのイワン・フョードロウィチには、失礼ですけど、そう気軽に娘を任せるわけにはまいりませんのよ、そりゃ今でもあの方をこの上なく騎士的な青年と見なしておりますけれどね。だって考えてもごらんなさいませな、お兄さまはだしぬけにリーズのところにいらしたんですのよ、あたくしそんなこと少しも存じませんでしたのに」
「え? 何ですって? いつです?」アリョーシャはひどくおどろいた。
(同)

 アリョーシャはその「リーズ」=リーザの部屋に行きます。彼はそこで、彼女の夢の話を聞き、「僕もそれとまったく同じ夢を見ますよ」といいます。

「アリョーシャ、時々あたしのところに来てね、もっとひんぱんに来て」突然、祈るような声で彼女は言った。
「僕はいつになっても、一生あなたのところへ来ますよ」アリョーシャがしっかりした口調で答えた。
「だってあたしが言えるのは、あなただけですもの」リーザはまた話しはじめた。「自分自身とあなただけ。世界じゅうであなた一人よ、それに、自分自身に言うより、あなたに言うほうが、すすんで話せるわ。あなたなら、全然恥ずかしくないし。アリョーシャ、なぜあなただと全然恥ずかしくならないのかしら、全然?」
(同)

 それから、リーザはイワンに絡めて「パイナップルの砂糖漬」の話をするんですね。アリョーシャはいいます。

「そうじゃありませんよ、だってその人自身、パイナップルの砂糖漬を信じてるかもしれないんですからね。その人も今、病気が重いんですよ、リーザ」
「そうね、あの人も信じているんだわ!」リーザが目をきらりとさせた。
「その人はだれのことも軽蔑しません」アリョーシャはつづけた。「ただ、だれのことも信じないだけです。しかし、信じないとすると、もちろん、軽蔑しているわけですね」
(同)

 ここでは、アリョーシャはもちろん、読者も、イワンがリーザにどんなことをいい、どういう態度でいたかということがわかっています。これは、例のイワンの嘲弄的な思想 ── すべては許される ── にまっすぐ結ぶものだ、イワンはまだこの思想のなかにいる、ということがわかります。

 そうして、アリョーシャはミーチャを訪れます。

「イワンには神がない。あいつには思想があるからな。それも俺なんかとは規模が違うやつがさ。それでも黙っているんだ。あいつはフリーメイソンだと思うよ。きいてみたんだけど、何も言いやしない。あいつの知恵の泉の水を飲んでみたかったんだが、何も言わないんだ。たった一度、一言だけ言ってたがね」
「何て言いました?」アリョーシャは急いで水を向けた。
「俺がこう言ってやったのさ。つまり、そうなると、すべてが許されるってわけかって。あいつは眉をひそめて、『うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方は正しかったよ』と、こうだぜ。言ったのはそれだけだよ。これはもうラキーチンより純粋だな」
「ええ」アリョーシャは沈痛に相槌を打った。「いつここへ来たんですか?」
(同)

 その後で、ミーチャは、イワンから持ち込まれている脱走の計画について、アリョーシャに話すんですが、

「俺たちの秘密をすっかり打ち明けるよ!」ミーチャは急いでささやきはじめた。「あとでうち明けるつもりだったんだ。だって、お前に相談せずに何が決められると思う? 俺にとってはお前がすべてだからな。俺はよく、イワンは俺たちより偉いなんて言うけれど、お前は俺の守護天使だよ。お前の決定だけがすべてを決めるんだ。もしかすると、いちばん偉いのはイワンじゃなく、お前かもしれないな。実はね、これは良心の問題なんだよ、最高の良心の問題なんだ。あまり重大な秘密なんで、俺は自分ひとりで解決できずに、お前に話すまで一寸延ばしに延ばしてきたほどなんだよ」
(同)

 イワンがこの計画を誰にも漏らさないこと、特にアリョーシャには絶対にいってはならないと、ミーチャに口止めしていることを、アリョーシャは知ります。

 ともあれ、この面会の最後はこうです。

「俺の前に立ってくれ、こうやって」
 そして彼はまたアリョーシャの肩を両手でしっかりつかんだ。その顔が突然まったく蒼白になったっため、ほとんど闇にひとしい中でも不気味なくらい目についた。唇がゆがみ、眼差しがアリョーシャにひたと注がれた。
「アリョーシャ、神さまの前に立ったつもりで、掛値なしに本当のことを言ってくれ。お前は俺が殺したと信じているのか、それとも信じていないのか? お前は、お前自身は、そう信じているのか、どうなんだ? 本当のことを言ってくれ、嘘をつかずに!」彼は狂おしく叫んだ。
 アリョーシャは全身を揺すぶられたような気がした。心の中を何か鋭いものが通りすぎたみたいで、彼にはその気配さえきこえた。
「いい加減にしてくださいよ、何を言うんです……」途方にくれたように彼はつぶやきかけた。
「本当のことを言ってくれ、隠さずにな。嘘をつくなよ!」ミーチャがくりかえした。
「兄さんが人殺しだなんて、ただの一瞬も信じたことはありません」突然アリョーシャの胸からふるえ声がほとばしりでて、彼はさながら自分のことばの証人に神を招くかのように、右手をあげた。とたんにミーチャの顔全体を幸福の色にかがやかした。
「ありがとう!」気絶のあと息を吹き返すときのように、彼は長く語尾をひいて言った。「お前は今、俺を生き返らせてくれたよ……本当の話、今までお前にきくのがこわかったんだ。なにしろ相手がお前だからな! さ、もう行くがいい、行きなさい! お前は俺に明日のための力をつけてくれたよ、お前に神の祝福があるように祈ってるぜ! それじゃ、行きなさい、イワンを愛してやってくれ!」最後の言葉はミーチャの口からほとばしりでた。
(同)

「あなたじゃない」の前にこの場面のあったことはおぼえておいてほしいですね。

 いまのミーチャの最後のことば「イワンを愛してやってくれ!」を亀山郁夫は「イワンを好きになってくれ!」と訳しているんですが、感心しませんでしたね。ミーチャがアリョーシャにいったのは、イワンに対するある種の行為・行動の呼びかけ ── たとえば、いたわってやってくれ、とか、助けてやってくれ、とか、守ってやってくれ、とか、そういうことですね ── と取ったほうがいいんじゃないでしょうか。そうすると、「愛してやってくれ!」の方が妥当じゃないでしょうか。
(そして、いま亀山郁夫の「好きになってくれ!」を確認するために、亀山訳での、このふたりの会話をざっと見てみたんですけれど、原訳での「アリョーシャは全身を揺すぶられたような気がした。心の中を何か鋭いものが通りすぎたみたいで、彼にはその気配さえきこえた。」に当たる亀山訳は、「アリョーシャは体全体を揺さぶられたような気がし、心臓を、何かするどいもので刺しつらぬかれたような気がした。」です。この違いはどうなっているんでしょうか?)

 この後で、アリョーシャはイワンに会うんです。ようやくイワン本人が、読者の前に再登場することになるわけです。

 この「第十一編 兄イワン」の導入部において、小説の語り手は、なかなかイワン本人を出してきません。グルーシェニカ、ホフラコワ夫人、リーズ、それからミーチャなどからの伝聞でのみ、彼の消息を伝えてきました。そこで、いくつかの手がかりが読者の前に提示されてきました。しかも、すべてアリョーシャ ── イワンを「もう三週間ほども訪ねていない」── がそれらを聞き取るという形ですね。
 語り手は、イワン再登場にあたって、慎重に、周到に舞台を用意します。それと同時に、先の四人 ── 特に最後のふたり ── が、どれほど自分の心情の吐露の聞き手としてアリョーシャを信頼しているかを描きもします。アリョーシャになら、どんなことも話せるんですよ。どうですか、語り手は、イワンを語りながら、アリョーシャをもさらに描いているんです。こういうことのすべてが、語り手にとって、この後すぐにも語ろうとしている「あなたじゃない」への地ならしになるでしょう。

 ところで、アリョーシャについて、亀山郁夫はこんなふうに ── ここも偶然見かけた箇所で、この前後を私はちゃんと読んでいません ──「解題」に書いていました。

 アリョーシャの優しさ、清廉さなどの魅力には、じつはいくつか不透明な部分が出てくる。読者もおそらく、無意識のうちにそれを感じとってきたのではないか。とくに、アリョーシャがスネギリョフ二等大尉にお金を渡しそこねるいきさつなどは、注意を要するだろう。そもそも、他人にお金を渡し、慈善をほどこす行為には後ろめたさがつきまとうのが当然だし、その点については、「婚約者」のリーザも十分に気にかけている。極度に自尊心の強いスネギリョフが相手だけに、ここは細心の配慮がなされるべきところだが、大尉に対するアリョーシャの態度には、どこか見通しの甘さがつきまとう。また、施しに失敗した彼が、大尉の胸のうちをしたり顔で分析するあたりは、とても来るべき聖人のようには見えない。
(亀山郁夫「解題」)

 私は以前にちょうどこのアリョーシャのいいぶんを引用しながらしゃべったことがあります(「航行記 第一期」(二六))。

「だってね、リーズ、もしあの人がお金を踏みにじらずに受けとっていたりしたら、家に帰って、一時間かそこら後には、自分の屈辱を泣いたでしょうからね、きっとそういう結果になったにちがいないんです。泣きだして、おそらく明日、夜が明けるか明けないうちに僕のところへ乗りこんできて、たぶん先ほどと同じように札を僕にたたきつけて、踏みにじることになるでしょう。ところが今あの人は《自滅行為をした》と承知してはいても、ひどく誇りにみちて、意気揚々と帰っていったんですよ。とすれば、遅くも明日あの人にこの二百ルーブルを受けとらせるくらい、やさしいことはないわけです、なぜってあの人は自分の潔癖さを立派に示したんですからね、お金をたたきつけて踏みにじったんですもの。踏みにじっているときには、僕が明日また届けにいくなんてことは、わかるはずありませんしね。ところが一方では、このお金は咽喉から手の出るほど必要なんです。たとえ今誇りにみちていたにせよ、やはり今日にもあの人は、なんという援助をふいにしてしまったんだと、考えるようになるでしょうよ。夜になればもっと強くそう思い、夢にまで見て、明日の朝にはおそらく、僕のところへ駆けつけて赦しを乞いかねぬ心境になるでしょう。そこへ僕が現われるという寸法です。『あなたは誇りにみちた方です、あなたは立派にそれを証明なすったのですから、今度は気持よく受けとって、わたしたちを赦してください』こう言えばあの人はきっと受けとりますとも!」
 アリョーシャは何か陶然とした口調で、「こう言えばあの人はきっと受けとりますとも」と言った。リーズは手をたたいた。
「ああ、そのとおりね、あたし急におそろしいほどよくわかったわ! ああ、アリョーシャ、どうしてあなたはそんなに何もかもわかってらっしゃるの? そんなに若いのに、もう人の心の動きがわかるなんて……あたしだったら、決して考えつかないでしょうに……」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 私はいまの引用部分について、アリョーシャが「大尉の胸のうちをしたり顔で分析する」というのとは、まるっきり反対の見かたをしているんです。私はアリョーシャに感心したんですね。「そもそも、他人にお金を渡し、慈善をほどこす行為には後ろめたさがつきまとうのが当然」だとは、私も思いますよ。しかし、アリョーシャにはそれを乗り越えることができます。彼はスネギリョフの心中を正確に見通します。正確に見通して、なおかつ金を彼に渡すために必要なのが、以前に私のいった「謙遜な勇気」(キルケゴール)なんですよ。目の前にいる相手に対する自分の面子とか、恥ずかしさとか怯みとかを捨てて、へりくだり、なおかつ自分の信じていることを相手に施すために必要なものなんです。また、「謙遜な勇気」なしに、誰彼の心中を正確に見通すことはできません。金を渡そうとするアリョーシャはスネギリョフを馬鹿にしたり、見下しているわけじゃありません。ここでアリョーシャが恥ずかしがったり、変なためらいを見せてしまえば、スネギリョフを恥入らせ、受け取りは拒否されるでしょう。しかし、アリョーシャはまっすぐに、怯まず、「謙遜な勇気」を持って再び彼のもとへ行こうとします。ふつうにできることじゃありません。しかし、アリョーシャになら、できるんですよ。そうして、スネギリョフはアリョーシャから金を受け取ったでしょう。

 断わっておかねばならないが、このところずっと、金には不自由しなかったのである。カテリーナからのあのときの二百ルーブルを、彼はずばりアリョーシャの予言どおり、受け取った。
(同)

 それと同じことが、イワンへの「あなたじゃない」にも現われていると私は思います。イワンの心中を正確に見通していたアリョーシャは、「謙遜な勇気」を持って、イワンのために、献身的にことばを発したんですよ。アリョーシャの勇気はそういう性質のものです。そうして、これはゾシマ長老にもいえることで、このふたりは、他人の心理を洞察することに長けているんです。犯罪者の心理にまで、その洞察の範囲は及んでいるでしょう。アリョーシャがリーザにいった「僕もそれとまったく同じ夢を見ますよ」もおぼえておいてほしいですね(それを受けてリーザが、彼には何でも話せる、というんでした)。こういうアリョーシャだから、イワンに「あなたじゃない」といってやることができるんです。もしかすると、これを悪用することができるのじゃないか、という疑いも生じるかもしれませんが、おそらく、彼らの洞察力の基盤は「信仰」── あるいは、「善意」でしょうか。あるいは、人間を尊重する心でしょうか ── にあります。「信仰」なしに、この洞察力がどこまで力を発揮するのか、疑問ですね。しかし、亀山郁夫には彼らのすごさがこうした洞察力にあるということがわかっていません。だから、「聖性」だの「聖人」だの「予言」だのということを大げさなやりかたで持ち出さなくてはならなくなるんです。「来るべき聖人」なんてどうでもいいし、そもそもゾシマ長老だってそういう「聖人」なんかじゃありません。

 さて、アリョーシャはカテリーナのところでイワンに出会います。ようやく、本人の姿が現われました。

「あの人について行ってください! 追いかけてちょうだい! 片時もあの人を一人きりにしてはいけませんわ」彼女は早口にささやいた。「あの人、気が変になってるんです。気が変になってることを、ご存じないんですの? あの人、熱病なんです。神経性の熱病ですわ! お医者さまがあたくしにそうおっしゃいましたもの、さ、早くいらして、あとを追ってください……」
 アリョーシャは跳ね起きて、イワンのあとを追った。兄はまだ五十歩と離れ去っていなかった。
「何の用だ?」アリョーシャが追いかけてくるのに気づいて、彼はだしぬけにふりかえった。「俺は気違いだから、あとを追うようにって、彼女に言われたな。きかなくともわかるさ」苛立たしげに彼は付け加えた。
「もちろんあの人は誤解してますけど、兄さんが病気だってことは、あの人の言うとおりですよ」アリョーシャは言った。「僕は今あそこで兄さんの顔を見ていたんです。ひどく病人らしい顔をしてますよ、ひどく、兄さん!」
 イワンは立ちどまらずに歩きつづけた。アリョーシャはあとにつづいた。
「おい、アレクセイ、人間がどんなふうに発狂してゆくか、知ってるか?」まったく突然にイワンが、もはやすっかり苛立たしさの消えた低い声でたずねた。その声には思いがけなく、きわめて素朴な好奇心がひびいていた。
「いいえ、知りません。狂気にもいろいろな種類がたくさんあると思うけど」
「じゃ、自分が発狂してゆくのを、観察できると思うか?」
(同)

 どうですか?「じゃ、自分が発狂してゆくのを、観察できると思うか?」です。そうして ──

「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった。
「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。
「だれだ? 例の気のふれた白痴の癲癇病みとやらいう、たわごとか? スメルジャコフ説かい?」
 アリョーシャはふいに、全身がふるえているのを感じた。
「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」力なくこの言葉が口をついて出た。彼は息を切らしていた。
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
 三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘づけになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分自身を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」
(同)



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 さて、ここまでのところで私が何をいおうとしているかというと、私は、イワンに対する「あなたじゃない」が全然脈絡のないものでない、唐突でわけのわからぬものではない、ということをいいたいわけです。「あなたじゃない」は、語り手によって周到に準備されて出てきたことばです。そうして、読者もイワンも、そのことばの意味がわかります。「あなたじゃない」によって、読者はイワンがどういうことになっているのかを決定的に知るんです。しかも、「あなたじゃない」という表現のしかたに感動もするんです。「あなたじゃない」というのは、単なる情報「あなたは犯人ではありません」ではなくて、それをはっきりイワンに告げること、また、告げる人間がいる、しかも、このようなことばで、ということのすさまじさを含み込んで読者に衝撃をもたらすんですね。なのに、亀山郁夫にはこれがわかりませんでした。彼は全然反応できず、まごまごしているので、アリョーシャが「予言」を始めたんだ、ということにしてしまいます。「あなたじゃない」の意味を「あなたが殺した」にしてしまう。「あなたが殺した」と受け取ったイワンがアリョーシャに絶交をいいわたす。亀山郁夫は、わからないから、とにかくなんとか理屈をでっちあげなくてはならなくなったわけです。こうして『カラマーゾフの兄弟』が、なにかできそこないの超能力ファンタジーみたいな作品として無理やり説明されていくんですね。

 アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった。しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。要するに、アリョーシャは、結果として悪魔とイワンは一体ではないと語る(予言する)ことで、悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告したことになる。
(亀山郁夫「解題」)

 さらに、

 だが、アリョーシャのこの暗示に満ちた言葉を聞いたイワンは、逆に悪魔と自分が一体かもしれないという自覚にはまり込むことになった。その意味で、きわめてドラマティックな転換点といえる。すでに悪魔と一体でありたくないという願望が、彼のなかに兆していることを暗示しているともいえる。
 アリョーシャのこのひとことは絶大な意味を持つにいたった。こののち、イワンにとっては、悪魔との戦いが最大の課題としてのしかかり、彼の存在を根源から揺るがすような発見へと、彼自身を導いていくからである。
 また、イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つとともに、じつは「幻覚症」の入り口に立ったといっても過言ではないのである。彼が思わず、自分を犯人とみなしているアリョーシャを「絶交」という言葉で突き放したのは、きわめて当然のふるまいだった。
 いずれにせよ、この奇妙なセリフは、アリョーシャがゾシマの死後はやくも「予言者」としてのある透徹した能力を確実にさずかったことを裏づける。このわずかなやりとりから、それまでのアリョーシャとは根本的にちがう何かが、彼のなかで作動しはじめていることを暗示している。
(同)

 しかし、『カラマーゾフの兄弟』に戻りましょう。
 しばらく前から私は、この小説の「語り手」を担ぎ出して、彼がどういうふうにイワン再登場をお膳立てしてきたかをしゃべってきましたけれど、私は彼の企てのいちいちが成功しているだろうと思っています。という意味は、彼の企図通りに読者がこの小説を読み込むだろう ── 亀山郁夫は例外でしたけれど ── と信じているということです。私はさらにこの「語り手」の企てについてしゃべります。

「あなたじゃない」の会話の後、イワンはスメルジャコフを訪ねます。殺人事件の後にイワンがスメルジャコフと話すのはこれが三回めになります。

 モスクワから帰って以来、イワンがスメルジャコフと話しに行くのは、これがもう三回めだった。あの惨劇のあと、帰郷したすぐその日に会って話したのが最初であり、そのあと二週間後にもう一度訪れた。だが、この二度目のあと彼はスメルジャコフとの対面を打ち切っていたため、もうひと月以上会っていなかったし、噂もほとんど何一つ耳にしなかった。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 そこから、語り手は時間を遡って、殺人事件後のイワンの消息を語り始めます。そうして、スメルジャコフとの過去二回の対面の様子を含めた諸事情を語ることになります。つまり、これまでのところ、アリョーシャが見聞きしたことを通してだけ読者に伝えてきたイワンの消息を、またべつの角度から語り直すというやりかたです。語り手はそこで、イワンのある部分にはできるだけ踏み込まないような語りかたをします。そう私がいうのは、語り手が、まさにアリョーシャのいう通りの意味での「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないとイワンが思いつめていた」を直接に語らない、ということです。一度、イワンが自分を犯人だと口にするのは「もしスメルジャコフがやったのなら」という条件つきでです。アリョーシャが指摘したのは、そういうレヴェルのことではありません。そんな条件なしで、ずばりイワンの良心の問題としてアリョーシャは指摘しているんです。語り手は、ある意味でとぼけたようにアリョーシャの「あなたじゃない」の意味していることに直接踏み込まないんです。その周辺をぐるぐる回る語りかたをします。これは意図的なものです。つまり、語り手は、すでにアリョーシャに「あなたじゃない」といわせてしまっているから、もうそれ以上自分が踏み込む必要がないんですね。しかし、わざとのように(いや、わざとなんですが)踏み込まないここでの語りが全体としてどう読めるかというと、やはり「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないとイワンが思いつめていた」ということになるんです。私のいっているのが、まどろっこしくてわかりませんか?
 べつの観点からいってみましょうか。
 語り手は、時間を遡ってイワンのこの二か月を語り直していきますね。どういう経緯でアリョーシャがイワンとここしばらく会っていなかったのか、アリョーシャが誰を真犯人だと考えているか、その他、ミーチャの脱走計画などのことを具体的に語ります。それと同時に、イワンとスメルジャコフとの過去二回の対面がどのようなものであったかを語ります。そうして、この語り直しがそのまま三回めの対面にまでつづくんですが、そこでようやく語り手は、先に自分が語っていた小説内時間 ── イワンが帰ってきてから二か月後、アリョーシャが「あなたじゃない」をイワンに告げた時間 ── に追いつく・戻ってくることになるんですね。そこで、考えてみてほしいんです。もし語り手が、この二か月の出来事を時系列そのままにいっぺんにいろいろ語っていたら、どうなっていたか? あれこれの情報を絡めながらスメルジャコフとの二回の対面を語り、アリョーシャの一日を語り、それから「あなたじゃない」を持ってくるとしたら、どうか? そのとき「あなたじゃない」はどうなるか? どうでしょう? 「あなたじゃない」の衝撃は失われます。
「あなたじゃない」はあの位置で語られなくてはならなかったんです。あの位置が最も有効に「あなたじゃない」を響かせることのできる位置なんです。イワン再登場にあたって、語り手はまず「あなたじゃない」をあの位置に持ってくることを最優先にしただろうと私は考えます。その後に語り手のする二か月間の語り直しは、彼が読者に向けて鳴らした「あなたじゃない」の残響のもとで読まれるべきものだろうと思います。この語り直しにおいて、さらに語り手が企図していたのは、「あなたじゃない」に直接触れないでいたのと同様に、もうひとつ触れないでいたものを語るための準備です。つまり、イワンのあの思想 ── すべては許される ── はどうなったか(これは必ず決着をつけなくてはならない問題でした)、現実にフョードルが殺された後にもイワンが以前のままでいられるのか、ということを語るための準備です。私は先回りしていいますが、語り直しで二回、それからついに最後の三回めの描かれるイワンとスメルジャコフとの対面は、その後に来る悪魔とイワンとの会話のための地ならしです。── そんなふうに、私は語り手が非常に意識的にこれらのことを行なったと考えているんです。
「あなたじゃない」は、それほどまでに重要なのだ、ということを私は強調します。「あなたじゃない」をきちんと読み取れるかどうかというのは、非常に大事なことです。これがわからないでいるのは『カラマーゾフの兄弟』を読むうえで致命的だ ── 亀山郁夫は致命的に読めていない ── とも、私はいいましょう。