連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一

 木下豊房による「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する ─ 新訳はスタンダードたりうるか ─ 」(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dos117.htm)を読むことは非常に有益です。ここでは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』ロシア語原文と当該箇所の亀山郁夫訳を並べ、この訳についての検証コメントを入れ、さらに既訳(米川正夫、原卓也、江川卓の三者による)を引いています。この周到なやりかたは、おそらく批判者の弱点をも公開することにもなるはず ── 手の内を全部明かしているわけです。ということは、反論を受け入れ、議論する場を用意しているということでもあります ── で、それゆえ公正であるということができると思います。そのサイトで主に検証コメントを書いているのが木下豊房自身ではなく、NNという人物です。つまり、このサイトは木下豊房の責任によって、主としてNNの見解が示されるという形になっています。もうひとり、こちらは先のふたりとは違って、ロシア語を解さない一読者である森井友人という人物が日本語の訳文だけを読んで多数の疑問を提出していて(つまり、亀山訳は日本語としてもおかしいという視点の採用です)、これにもNNがコメントをつけています。

 さて、NNの数多いコメント中にこういうものがあります。亀山訳の「さらに付けくわえておくと、フョードルはたんに彼の正直さを信じきっていたばかりか、なぜか彼を愛してもいたのだった。そのくせ相手は、まだひよっ子ながら、他人同様に彼を横目でにらみ、ずっと黙りこくっていた。」についてのものです。

 新訳ではスメルジャコフはフョードルを含めた他人を「横目でにらんでいた」ことになっているが、原義は「うさんくさそうに見ていた」であり、読者に与える印象はかなり違うはずだ。些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。
(「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」)

「横目でにらんでいた」であろうが、「うさんくさそうに見ていた」であろうが、どちらも変わらないのじゃないか、と思われたりしないですよね。ロシア語の「原義」はともあれ(これは私にはわかりません)、日本語として、両者は全然違います。
 このコメントにつづいて引用されている当該箇所の他の訳者による既訳は、「断っておかねばならぬのは、フョードルは単に彼の正直なことを信じていたのみならず、なぜかこの青年が好きなのであった。そのくせ、若い料理人は彼にたいしても他の者と同様に、不気味な横目づかいばかりして、しじゅうむっつりしていた。」(米川正夫訳)、「〈…〉フョードルは彼の正直さを信じていただけではなく、なぜか目をかけてさえいたのだけれど、そのくせ青年のほうでは、ほかの者に対するのと同じように冷やかに相手を眺め、いつも黙りこくっていた。」(原卓也訳)、「〈…〉つけ加えておかなければならないが、フョードルは彼の正直さを信じていただけでなく、この青年が自分のことも、他の人たちに対するのと同様、白い目で見ていて、いつも黙りこくっていたにもかかわらず〈…〉」(江川卓訳)です。
 スメルジャコフと「フョードルを含めた他人」との位置関係 ── 彼が「フョードルを含めた他人」をどんなふうに評価していたか ── が「横目でにらんでいた」と「うさんくさそうに見ていた」とでは、明らかに違います。ここは本来、彼が「フョードルを含めた他人」をどんなふうに軽んじていたかということを伝える訳文が求められるはずの箇所なんです。「求められるはず」と私がいうのは、この箇所だけでなく、この作品全体におけるスメルジャコフの位置づけを知っていていうんです。私がちょうど二十歳になるぎりぎりのところでこの作品を読んだこと、以来何度も読み返していること、新潮文庫の帯(「世界最高の小説」という文言を含んで、上・中・下、三巻それぞれ)も書いたことのあることは、すでに「航行記 第一期」(二六)]で書きました。

 前置きが長くなってしまいましたが、さて、本題に入ります。私は、NNによるコメントの最後にある「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」ということばから自分が考えたことを少ししゃべってみたいんです。…………
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 ── と、ここまで書き、さらにある程度先までを書いていたんですが、その最中に、私は自分の勤める書店で、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』のいくつかの箇所をあらためて読んでみてしまったんですね。思わず、「ええっ」と声をあげてしまうことまであって、私はここで急遽、舵を思いきり切ることにします。しかたなく、亀山訳の第四巻、第五巻を購入しましたよ。



 私は、自分が「航行記 第一期」(二六)において、「その『カラマーゾフの兄弟』で、私がいちばん好きな箇所、そうして、最初の読書からのこの四半世紀ずっと私が考えざるをえなくなってしまった箇所のひとつ」といった箇所、「第十一編 兄イワン」の「五 違う、あなたじゃない!」の亀山訳を読んでみたわけです。(第四巻 二〇〇八年五月十五日 第十四刷発行)

「じゃあ、おまえはいったいだれが殺したっていうんだね?」明らかに、どこか冷やかな口ぶりで彼はたずねた。その問いの調子には、何となく傲慢なひびきが聞きとれるようだった。
「兄さんは、ご自分でだれか知ってるでしょう」低いしみじみとした声でアリョーシャは言った。
「だれなんだ? 例のくだらん作り話のことを言ってるのか、気がへんになったあの癲癇やみのばかの仕業だとかいう? スメルジャコフ犯人説のことだが?」
 アリョーシャはふと、全身にふるえが来ているのを感じた。
「兄さんは、ご自分でだれか、知ってるでしょう」力なく、言葉が口をついて出た。息が切れていた。
「いったい、だれなんだ、だれなんだ?」ほとんど凶暴な調子で、イワンは叫んでいた。それまでの沈着さが、一瞬にして消し飛んでいた。
「ぼくが知っているのはひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」
「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。
「父を殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃない!」アリョーシャはきっぱりした口調で繰り返した。三十秒ほど沈黙がつづいた。
「おれじゃないことぐらい、自分でもわかってるさ、何を寝ぼけたこと言ってる?」青ざめた顔にゆがんだ笑みを浮かべて、イワンは言った。彼は食い入るようにアリョーシャの顔を見つめた。二人は、ふたたび街灯の下に立っていた。
「いいえ、イワン、あなたはなんどか、自分が犯人だと言い聞かせてきたはずです」
「いつ、おれがそんなことを言った? …… おれはモスクワにいたんだぞ …… いつ、言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。
「恐ろしかったこの二ヶ月間、あなたは一人になると、自分になんどもそう言い聞かせてきました」あいかわらず低い声で、一語一語区切りながら、アリョーシャはつづけた。とはいえその口ぶりには、もうわれを忘れ、自分の意思というより、何か逆らうに逆らえない命令にしたがっているかのような趣きが感じられた。
「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも殺したのはあなたじゃない。あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです! ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 亀山郁夫訳 光文社文庫)

 同じ箇所の原卓也訳はこうです。

「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった。
「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。
「だれだ? 例の気のふれた白痴の癲癇病みとやらいう、たわごとか? スメルジャコフ説かい?」
 アリョーシャはふいに、全身がふるえているのを感じた。
「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」力なくこの言葉が口をついて出た。彼は息を切らしていた。
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
 三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘づけになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分自身を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 さあ、どちらが読みやすいでしょうか?

 繰り返しますが、私はこの場面を ── 原卓也訳によって ── これまでどれだけ読み返してきたかわかりません。そこで、ちょうどそのことが、私がこれから亀山訳を批判するときに、こういう反論を呼び込むかもしれません。おまえは、原卓也訳に浸かりすぎたために、もはや、他の訳を受け入れることができなくなっているんだよ。他のどんな訳にも違和感を感じることになるはずさ。そうかもしれません。この理屈を私は自分でよく知っています。たとえば、かつて中学生私が初めて聴いたマーラーの交響曲第二番はバーンスタインの指揮によるニューヨーク・フィルの録音でしたが、あまりにこれに浸かりすぎたために、同じ曲の他の演奏 ── 同じバーンスタインのものであっても、むろん他の指揮者のものであっても ── がへんてこに思えた期間がずいぶん長くあったりしましたからね。それはもちろんよくわかっています。そういうことはずいぶんたくさん経験してきました。その経験に立って、わかったうえで、なお私は亀山訳を批判するんです。

 原卓也訳と亀山郁夫訳とがどう違うのか。まず私が感じたのは、亀山訳のこの場面における切迫感のなさでした。つまり、原訳には切迫感があるということです。たとえば、

「じゃあ、おまえはいったいだれが殺したっていうんだね?」明らかに、どこか冷やかな口ぶりで彼はたずねた。その問いの調子には、何となく傲慢なひびきが聞きとれるようだった
(亀山郁夫訳)

「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった
(原卓也訳)
(傍線は私・木下による。以下同様)

 亀山訳はどうしてこんなにのんびりしているんだろう、と感じたんです。原典を知らない私が単純に疑問に思うのは、傍線部の「聞きとれるようだった」というなにか悠長な表現です。この悠長さが「じゃあ、おまえはいったいだれが殺したっていうんだね?」にもあらわれています。「……っていうんだね?」とわざわざ訳すのはどうしてなのか?(くどいようですが、私はロシア語原典を知らずにこういっています。)

 さらに、同様のことが次の箇所でも感じられました。

 とはいえその口ぶりには、もうわれを忘れ、自分の意思というより、何か逆らうに逆らえない命令にしたがっているかのような趣きが感じられた
(亀山郁夫訳)

 だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。
(原卓也訳)

 この「趣きが感じられた」というのは、なんでしょうか? つまり、「……かのように」という表現を、原卓也が「さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように」のなかに収めてしまい、「話していた」とすっきり締めくくっているのに対して、亀山郁夫は「その口ぶりには」とはじめに訳してしまったために、「……かのように」を、この文の最後まで引きずらなければならなくなってしまっているんですね。ロシア語原典がどうなのかわかりませんが、「彼は話していた、……かのように」ということなのじゃないでしょうか。もしそうであるなら、亀山訳では、この場面の切迫さがどんどん失われていくと思いました。もっというなら、亀山訳の「スメルジャコフ犯人説のことだが?」という、なんだか不恰好な、注釈めいた、まわりくどい表現もよくないでしょう。原訳の「スメルジャコフ説かい?」で十分でしょう。

「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。
(亀山郁夫訳)

「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした
(原卓也訳)

「呆然とした」も同様です。それで、私は亀山郁夫の日本語感覚がおかしいのじゃないかと思ったんですね。亀山郁夫は「呆然」の意味を知らないのではないか、と真面目に思いましたよ。これでは、まるで、アリョーシャの口にした「あなたじゃない」がイワンにまったく図星じゃないみたいじゃないか、と思ったんです。

「いつ、おれがそんなことを言った? …… おれはモスクワにいたんだぞ …… いつ、言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。
(亀山郁夫訳)

「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
(原卓也訳)

 同じです。私は亀山郁夫が「途方にくれる」という日本語をわかっていないのではないか、このひとの「途方にくれる」はどうなっているのか、と思いました。これでは、まるで、アリョーシャの口にした「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」が、イワンにはまったく身に覚えのないことだったみたいじゃないですか。そう思ったんです。

 どういうことなんだろう、これは?

 しかし、──

 アリョーシャはふと、全身にふるえが来ているのを感じた。
(亀山郁夫訳)

  ──「全身にふるえがきている」のを感じるのに「ふと」というのはどういうことなんでしょうか。百歩譲って、そういうことがありうるとしても、この場面でこれはないでしょう。こういう日本語感覚のひとだから、「呆然」も「途方にくれる」もしかたがないのか。原訳では「ふいに」です。これなら、わかります。

 そうして、これです。

「ぼくが知っているのはひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「を殺したのは、あなたじゃないってことだけです
(亀山郁夫訳)

「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
(原卓也訳)

 もう一度訊きますが、どちらが読みやすいですか?

 亀山訳の「父」ってなんですか? この訳でも、同じ会話のなかで、アリョーシャは直前まで「父さん」といっていたんですよ。それを、いきなり「父」にしてしまった。なぜかはわかります。亀山郁夫が、この箇所に秘められた高次のテーマである「父殺し」についてのアピールをしたかったからです。原語であれば、「父さん」も「父」も同じ単語であるんでしょうが、日本語ではそうでない。「父さん」にすると、高次のテーマ「父殺し」の「父」の意味が失われてしまう、そう思ったからですよ。彼は、この「父さん」から「父」への切り替えを自分の英断だと考えているに違いありません。兄弟の会話として、読者に不自然な印象を与えること・作品の流れを犠牲にすることを承知で、訳者がしゃしゃり出てきたということです。これは、すんなりわかりましたよ。それは、私がこれまで『カラマーゾフの兄弟』を何度も読んでいるからこそわかったんです。わかりましたけれど、でも、駄目でしょう。 ── ということで、なるほど亀山郁夫のやりかたがだんだんに透けてきました。
 それにしても、なぜ「僕が知っているのはひとつ」で切ってしまったんでしょうか。どうして「あなたじゃないってことだけです」にしたのか? これでは、アリョーシャのいう「あなたじゃない」という主張の強さが半減してしまう結果になります。原訳の方が、すっきりと、強い主張に感じられます。

 ── と、そんなふうに考えているうちに、私は亀山訳の第五巻 ── この巻のほとんどが亀山郁夫による解説で埋められていることは承知していました ── をぱらぱらめくっていたんですね。そうしたら、わかりました。

 また、文体上の複雑なしかけが、人間の精神の奥深くまで照らしだす例もある。次に引用するのは、『カラマーゾフの兄弟』全体の中心に位置し、物語の流れに決定的な転換をみちびき出す言葉である。
「父殺し」の犯人を挙げろ、と問いつめるイワンに対して、アリョーシャは次のように応える。
「ぼくが知っているのはひとつ(…)父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」(第11編258ページ)
‘I only know one thing …Whoever murdered father, it was not you’
 ……(中略 ここでロシア語原文の引用も示されています)……
 この語順のもつ異様さはさまざまな研究者の関心をひいているが、意味だけをくんで単純に言い換えるならば、「あなたは父を殺しませんでした」となるだろう。ロシア語は、語順は基本的に自由なので、あとはニュアンスの違いによってどう変わるかということになる。
 語順の異様さとは、父親を殺したという厳然たる事実が最初に提示されているにもかかわらず、その主語(つまり犯人の名前)が、最後まで留保されている感じに現れている。
 兄弟同士の信頼関係のなかで、あたりまえの「事実」をめぐってのどこか思わせぶりな言い方は、かなり違和感を与え、端的にいって、居心地がわるい。ここには、父を殺したのは「あなたかもしれない」「あなたである」と言っているのと同じぐらいの意味が、その曖昧さのなかに隠されているということだ。
 ……(中略)……
 アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった。しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。要するに、アリョーシャは、結果として悪魔とイワンは一体ではないと語る(予言する)ことで、悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告したことになる。
 だが、アリョーシャのこの暗示に満ちた言葉を聞いたイワンは、逆に悪魔と自分が一体かもしれないという自覚にはまり込むことになった。その意味で、きわめてドラマティックな転換点といえる。すでに悪魔と一体でありたくないという願望が、彼のなかに兆していることを暗示しているともいえる。
 アリョーシャのこのひとことは絶大な意味を持つにいたった。こののち、イワンにとっては、悪魔との戦いが最大の課題としてのしかかり、彼の存在を根源から揺るがすような発見へと、彼自身を導いていくからである。
 また、イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つとともに、じつは「幻覚症」の入り口に立ったといっても過言ではないのである。彼が思わず、自分を犯人とみなしているアリョーシャを「絶交」という言葉で突き放したのは、きわめて当然のふるまいだった。
 いずれにせよ、この奇妙なセリフは、アリョーシャがゾシマの死後はやくも「予言者」としてのある透徹した能力を確実にさずかったことを裏づける。このわずかなやりとりから、それまでのアリョーシャとは根本的にちがう何かが、彼のなかで作動しはじめていることを暗示している。
(亀山郁夫「解題」『カラマーゾフの兄弟』 光文社文庫)

 亀山郁夫の解釈では、アリョーシャの「あなたじゃない」を受けて、はじめて「イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つ」わけですね。そうして、それとともに「じつは「幻覚症」の入り口に立ったといっても過言ではないのである」わけですね。なるほど。だから、そういわれるまで、イワンは余裕をもっていたんですよ。

「じゃあ、おまえはいったいだれが殺したっていうんだね?」明らかに、どこか冷やかな口ぶりで彼はたずねた。その問いの調子には、何となく傲慢なひびきが聞きとれるようだった

「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。

「いつ、おれがそんなことを言った? …… おれはモスクワにいたんだぞ …… いつ、言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。
(亀山郁夫訳)

 つまり、イワンには、アリョーシャのいっていることがなんのことだかわからなかったんですよ。
 全然違います。いいですか、全然違います。亀山郁夫は間違っています。

 さて、『カラマーゾフの兄弟』をまだ読まれていない方のために、ここでいくらか整理しておきます。
 フョードル・カラマーゾフの息子たちは、長男ドミートリイ(ミーチャ)、次男イワン、三男アレクセイ(アリョーシャ)です。そしてフョードルが何者かに殺害されるんですが、犯人として逮捕されたのが長男ミーチャだったんですね。しかし、彼が殺したのじゃありません。犯人はべつにいます。そうして、次男イワンは自分が直接に手を下したのではないものの、自分が殺したも同じだと考え、苦しみます。というのも、彼は以前からある思想を抱いており、その思想からは、理論上、この殺人の肯定も可能 ── 「すべては許される」 ── いや、実は彼にもそこまでは不明だっただろうと思いますが ── なんです(アリョーシャはこのことを知っています)。しかも、イワンは実際、この思想を犯人に植えつけもしているんですね。犯人はこの思想を中途半端にしか理解できませんでしたし、イワンもそれを承知していますが、まさにそのことが殺人の決行に直結します。だから、イワンは「自分自身を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきた」んです。それで、彼は逮捕されているミーチャの脱走計画を進めてもいます。やましいからですよ。しかも、彼は病気でもありました。

 もっとも彼は、すでに述べたようにカテリーナがとっぴな考えに従ってモスクワから招いた医者に、一度診てもらっていた。医者は容態をきいて診察した結果、脳の変調とも言うべきものであると診断し、彼がそれでも嫌悪をおぼえながら行なったある種の告白に、少しもおどろきの色を見せなかった。「このご容態では、幻覚も大いにありうることです」医者は結論を下した。「もっとも、確かめてみなければなりませんが……概して、一刻もむだにせず、真剣に治療をはじめる必要がありますな、でないととんだことになりますよ」
(原卓也訳)

「彼がそれでも嫌悪をおぼえながら行なったある種の告白」というのは、悪魔の幻覚を見るということだったんですね。彼は何度か ── 何度だか私は知りません。イワンは後にその回数に言及していますが、「あなたじゃない」の会話でのいいかたと、後の彼の申告した回数とは矛盾するようにも思えます。また、後に作中で描かれる悪魔が、最初の頃には、まだそのような姿になっていなかった、とか、会話の質もそのようなものにまではなっていなかった、とか、そういうことはあるかもしれませんが ── 自分の部屋を訪れる悪魔と会話しているんです。悪魔はイワンに、犯人は君だよ、と嘲笑的に指摘していたことでしょう。
 先の「僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」という引用のつづきはこうです。

 どちらも沈黙した。この沈黙はまる一分もの長い間つづいた。二人とも立ちどまり、終始相手の目を見つめていた。どちらも蒼白だった。突然イワンが全身をふるわせ、アリョーシャの肩をぎゅっとつかんだ。
「お前は俺のところに来ていたんだな!」歯がみするようなささやき声で、彼は口走った。「夜中に、あいつが来ていたとき、お前もいたんだな……白状しろ……あいつを見たんだろ、見たな?」
「だれのことを言ってるんです ……ミーチャのことですか?」けげんな表情でアリョーシャがたずねた。
「そうじゃない、あんな無頼漢なんぞくそくらえだ!」イワンは狂ったようにわめきたてた。「あいつが俺のところへよく来るのを、お前知っているんだな? どうして感づいた、言ってみろ!」
「あいつって、だれですか? だれのことを言ってるのか、わかりませんよ」アリョーシャはもはや怯えてつぶやいた。
「いや、お前は知ってるんだ……でなけりゃどうして……お前が知らないなんて、そんなはずはない……」
 だが、ふいに彼は自分を抑えたかのようだった。たたずんだまま、何か思案しているみたいだった。異様な嘲笑がその唇をゆがめた。
「兄さん」アリョーシャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことをいったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです。たとえ今の瞬間から、兄さんが永久に僕を憎むようになったとしても ……」
 しかし、どうやらイワンはもうすっかり自制する余裕を得たようだった。
「アレクセイ・フョードロウィチ」冷笑をうかべて彼は言った。「俺は予言者だの、癲癇病みだのは堪えられんのだ。特に神のお使いなんてやつはな。君だってそれくらいわかりすぎるくらい、よくわかっているはずだ。今この瞬間から俺は君と絶交する。それも、おそらく永遠にな」
(同)

 そういうことです。

 さて、私はこの『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの「あなたじゃない」が、同じ作者の『罪と罰』におけるポルフィーリイの「あなたですよ」の発展形だ(そうなってしまった)ということを以前に書きました(「航行記 第一期」(二六)])。

 ラスコーリニコフは、まるで何かに刺しつらぬかれたように、全身をふるわせはじめた。
「じゃ……だれが……殺したんです? ……」彼はいたたまれなくなって、あえぐような声でたずねた。ポルフィーリイは、思いもかけない質問に驚いたように、椅子の背に思わず体をのけぞらせた。
「だれが殺したですって? ……」自分の耳が信じられぬとでもいうように、彼は相手の言葉をおうむ返しにした。「そりゃ、あなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! 殺したのはあなたなんですよ……」彼はほとんどささやくような声で、だがその声に確信をこめて言いたした。
 ラスコーリニコフはソファからとびあがり、数秒間じっと立っていたが、また腰をおろした。その間、一言も彼は口にしなかった。こまかい痙攣がふいに彼の顔全体を走った。
「唇がまた、あのときみたいにふるえてますよ」ポルフィーリイは同情の色さえ浮かべてつぶやいた。「あなたは私の言葉を誤解なさったらしい、ロジオン・ロマーヌイチ」しばらく黙ってから、彼はつけ加えた。「それでそんなに驚かれたんですよ。私がうかがったのは、もう何もかも言ってしまって、問題を大っぴらにしようと思ってだったんです」
「あれは、ぼくが殺したんじゃない」ラスコーリニコフは、犯行の現場を押えられてふるえあがった幼児のように、こうささやいた。
「いや、あれはあなたですよ、ロジオン・ロマーヌイチ。あなたなんですね。ほかのだれにもできやしません」ポルフィーリイはきびしい、確信にあふれた声でささやいた。
(ドストエフスキー『罪と罰』 江川卓訳 岩波文庫)

 このふたつ、「あなたじゃない」と「あなたですよ」ということばが相手に対して有効であるのは、まさに相手が殺人者の自覚を持っている場合です。『罪と罰』のラスコーリニコフについては、実際に自分で殺人を行なっていますから、「あなたですよ」に逆らうことができないわけです。ところが、イワンの場合は事情が複雑です。彼は実際に自分で手を下したわけじゃありません。殺人の起こる可能性を排除しなかっただけで、殺人を犯人に命じたわけでもありません。しかし、結局、罪の意識から逃れられなくなってしまっているんです。

「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 イワンは自分で自分が犯人でないということができなくなってしまっている。苦しい深刻な自意識の堂々巡り ── 自分自身への際限のない問いかけと否定 ── を彼はどうすることもできません(これが、症状としては、幻覚の悪魔との対話という形にまでなるわけですね)。この堂々巡りのからくりは、むろん、彼自身がよくわかっています。わかっていても、自力では脱出できません。これを、アリョーシャは ── 幻覚症状までは知りませんが ── 理解していました。

 ここで、もう一度、「あなたじゃない」における、イワンとアリョーシャの会話を追ってみます。私の読み取りは次の通りです。

 父フョードルを殺した犯人が誰か、イワンは「この恐ろしい二カ月の間」ずっと考えてきました。考えつくしていたでしょう。これについて自分ほど考えている者はいないとも思っていたでしょう。だから、──

「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった。
(原卓也訳)

 ── ということになります。そのイワンにアリョーシャが「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」と ──「心にしみるような低い声で」(亀山訳では「低いしみじみとした声で」)── いう(それ以前にアリョーシャが具体的に誰を犯人だと考えていて、それをイワンに告げていたかは、しばらく後の文章で明らかにされますが、ここでアリョーシャはそんなことを問題にしているのではありません)。まさかそんなことをいわれるとは思ってもいなかったイワンが動揺し、──

「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
(同)

 それに追い討ちをかけるようにアリョーシャが「あなたじゃない」という。イワンは即座に理解したはずです。つまり、アリョーシャがイワンの苦悩の核心を見通していることを、です。もちろん、アリョーシャになら、それができることをイワンは以前から了解しているし、これは、この作品をここまで読んできた読者にもわかることです。アリョーシャはべつに「予言」なんかしているわけじゃありません。

「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
 三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘づけになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
(同)

 イワンが「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」といったのは、ただの虚勢です。もちろん、彼はたしかに「俺じゃないことくらい、自分でも知っている」んですが、それは彼の意識の表層でのみいえることで、深層はそうではありません。深層で動揺しつつ、それでも表層で答えたというのが、彼のことばです。

「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
(同)

「いつ俺が言った? ……俺はモスクワに行ってたんだぞ ……いつ俺がそんなことを言った?」という彼のことばは、彼が実際にそういっていたからこそです。いっていなければ、「いつ俺が言った?」といういいかたにはなりません。また、表層・深層ということばを使いますが、表層的にイワンが必死に突き止めようとしているのは、「俺がそう言ったのを、アリョーシャはいつ聞いたんだ? 誰かがアリョーシャに告げ口したのだとしたら、誰だ?」というほどのことです。核心を突かれた彼はとにかく言い逃れをしようとしています。彼は完全に、大きく動揺しています。深層的には、「いつ俺が言った?」ということばは、「なぜおまえは知っているんだ?」にでもなるでしょうか。さらにいえば、イワンには、アリョーシャが「それを知っている」── アリョーシャは誰に教えられたのでもありません。彼には「わかる」んです ── ことがわかってもいます。読者にもわかっています。
 だから、イワンにはアリョーシャの次のことばを完全に理解することができます。

「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分自身を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」
(同)

 しかし、この後、イワンの思考は突然、べつの方向へ飛んでしまいます。ここではもう、自分が「何度か自分自身に、犯人は俺だと言った」ことは肯定されています。それよりも、イワンは束の間、ある錯覚に陥ってしまうんです。

 どちらも沈黙した。この沈黙はまる一分もの長い間つづいた。二人とも立ちどまり、終始相手の目を見つめていた。どちらも蒼白だった。突然イワンが全身をふるわせ、アリョーシャの肩をぎゅっとつかんだ。
「お前は俺のところに来ていたんだな!」歯がみするようなささやき声で、彼は口走った。「夜中に、あいつが来ていたとき、お前もいたんだな……白状しろ……あいつを見たんだろ、見たな?」
(同)

 つまり、これまで何度か自分の前に現れ、自分と会話していた悪魔が、やはり幻覚ではなく、実在しているという錯覚です。

「だれのことを言ってるんです ……ミーチャのことですか?」けげんな表情でアリョーシャがたずねた。
「そうじゃない、あんな無頼漢なんぞくそくらえだ!」イワンは狂ったようにわめきたてた。「あいつが俺のところへよく来るのを、お前知っているんだな? どうして感づいた、言ってみろ!」
「あいつって、だれですか? だれのことを言ってるのか、わかりませんよ」アリョーシャはもはや怯えてつぶやいた。
「いや、お前は知ってるんだ……でなけりゃどうして……お前が知らないなんて、そんなはずはない……」
 だが、ふいに彼は自分を抑えたかのようだった。たたずんだまま、何か思案しているみたいだった。異様な嘲笑がその唇をゆがめた。
(同)

 一瞬、イワンはアリョーシャの「神がかり」的な性質に期待をかけました。アリョーシャになら、悪魔も見えるかもしれない、というわけです。そうして、もし、アリョーシャに見えるのだとしたら=悪魔が実在するのだとしたら、イワンは狂ってなどいなくて、正気だということになります。この短い時間、彼の意識の焦点が、「犯人は誰か」=「犯人は自分である」ということから、「自分が狂っているか、いないか」にずれました。しかし、彼はここでようやくわれに返りました。

 そうして、こうなります。

「兄さん」アリョーシャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことをいったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです。たとえ今の瞬間から、兄さんが永久に僕を憎むようになったとしても ……」
 しかし、どうやらイワンはもうすっかり自制する余裕を得たようだった。
「アレクセイ・フョードロウィチ」冷笑をうかべて彼は言った。「俺は予言者だの、癲癇病みだのは堪えられんのだ。特に神のお使いなんてやつはな。君だってそれくらいわかりすぎるくらい、よくわかっているはずだ。今この瞬間から俺は君と絶交する。それも、おそらく永遠にな」
(同)

 こうして、イワンは再び強引に自らの「カラマーゾフ的な力」に頼むわけです。しかし、彼にはわかっています。アリョーシャにはなにもかもわかっている、ということが。だから、もし自分をいまの状況から救い出してくれる存在があるとすれば、それはアリョーシャだけだ、ということがわかっています。これをさらにいえば、ある意味では、こうなります。もし、自分がここで素直にアリョーシャに助けを求めることができたら、どんなにいいだろう。自分をさらけ出して、身を投げ出すことができたらどんなにいいだろう。しかし、彼は傲然とその望みを断ち切ります。誰にも頭を下げず、自分の力だけでなんとかやってやる、ということです。だから、彼はアリョーシャに「絶交」をいい渡しました。しかし、いいですか、それは、彼イワンが、アリョーシャを完全に信頼しているからこその「絶交」なんですよ。アリョーシャにすがってしまえば、自分が救われてしまうことを知っているからこそ、彼は「絶交」を選択するんです。

 そうして、イワンが「絶交」とまでいいだした事情まで、アリョーシャにはすっかりわかっているんです。そうやって、イワンの窮状をすっかり理解して、なお、彼に「赦し」の希望をもたらすことのできる唯一の存在がアリョーシャです。他の誰にも、それはできません。イワンには、それがわかっています。
 さらにいえば、このアリョーシャの背後には、以前にイワン自身が口にしたことのある、「ただ一人の罪なき人」がいるんですね。

 以前に私はこういいました。次に引用する文章に描かれたような人物が『カラマーゾフの兄弟』に見出せるでしょう、と。

 悩んでいる者には、自分はこういうふうに救ってもらいたいといういろいろの仕方というものがある。もしも彼がそういう仕方で救われるのであれば、無論彼は喜んで救ってもらいたいのである。けれども救済の必要が更に深い意味において真剣に問題になる場合、特により高いものないしは最高のものによる救済が必要とせられるという場合、どのような仕方の救済も絶対に受け入れなければならないとしたら、これは屈辱である。あらゆることを可能ならしめる「救済者」の手のなかでは自己はほとんど無に等しきものとならなければならない、或いはまた単に他の人間の前に自分の身を屈しなければならないというだけのことにしても、とにかく彼は救助を求める限り彼自身であることを放棄しなければならない。このような屈辱に比すれば、よし彼がいま抱いている苦悩が疑いもなくどのように数多く、そして深刻であり、またいつ果てるとも知れないほどのものであるにしても、それはまだしも彼にとっては耐ええられるのであり、したがって自己はもしこのまま彼自身として存在することさえ許されるならばむしろこの苦悩の方を選ぶのである。
 さて絶望して彼自身であろうと欲するところのかかる苦悩者のうちに、意識がより多く存在すればする程、それだけまた絶望の度も強くなってそれはついに悪魔的なるものにまで至る。悪魔的なるものの根源は普通次のようなものである。絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向って彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な凶暴となるのである。そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない、いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、── いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って凶暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、── それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。このことが最後には非常に深く彼の脳裏に刻み込まれるので、彼は全く独自の理由からして永遠の前に不安を抱くことになる、── 永遠は彼が他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。
(キェルケゴール『死に至る病』 斎藤信治訳 岩波文庫)

 くどいようですけれど、もう一度いいます。イワンは自分で自分が犯人でないということができなくなってしまっている。苦しい深刻な自意識の堂々巡り ── 自分自身への際限のない問いかけと否定 ── を彼はどうすることもできません。この堂々巡りのからくりは、むろん、彼自身がよくわかっています。わかっていても、自力では脱出できません。そこで、彼が脱出するためには、そういう彼の事情をすっかり承知したうえで、彼の堂々巡りを断ち切り、彼のすべてを引き受けてくれる、そういう貴重な他者が必要なんです。それがアリョーシャなんですよ。「あなたじゃない」とは、そういうことです。しかし、アリョーシャはこの自分の申し出の意味を、イワンが完全に理解しつつ、拒絶することをも予感しています。だから、彼は「たとえ今の瞬間から、兄さんが永久に僕を憎むようになったとしても ……」といわなくてはならなかったんです。アリョーシャが「あなたじゃない」というのには、相当の勇気と覚悟が必要でした。そうして、イワンがこれを拒絶せずにそのまま受け入れるのにも、相当の勇気と覚悟が必要なんです。イワンにはこの勇気と覚悟が持てなかった。

 ── と、こうして私の読み取りを(ということは、手の内を、です)明かしたところで、先の亀山郁夫の文章に戻ります。

 亀山郁夫の「アリョーシャのこの暗示に満ちた言葉を聞いたイワンは、逆に悪魔と自分が一体かもしれないという自覚にはまり込むことになった。その意味で、きわめてドラマティックな転換点といえる。すでに悪魔と一体でありたくないという願望が、彼のなかに兆していることを暗示しているともいえる。」は、でたらめです。さらに「イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つとともに、じつは「幻覚症」の入り口に立ったといっても過言ではないのである。」もでたらめです。アリョーシャのことばを聞かなくとも、とっくに幻覚症に苦しんでいたイワンは、悪魔が幻覚であり、自分自身の投影でしかないと知っていました。先にもいいましたが、アリョーシャとの会話のなかでは、一瞬、悪魔が実在していて、実際に自分を訪れてきていたのかもしれないと錯覚してしまったんです。その錯覚に気づいたために、自分を嫌悪するから、「異様な嘲笑」が彼の「唇をゆがめた」わけです。また、イワンはもうとっくに「自分が犯人かもしれないとの根源的な認識」の奥深くにいたんです。イワンにはもちろん、とっくにその自覚がありました。
 アリョーシャの「あなたじゃない」ということばは、とっくに自分を犯人だと認めていた、その自覚のあったイワンに突き刺さるというのでなくてはなりません。この点にこそ、当の亀山郁夫が「語順の異様さ」といったことのものすごさがあるんです。もう一度、先に私が引いた『罪と罰』でのポルフィーリイの台詞を思い出してください。アリョーシャは、「そりゃ、あなたが殺したんですよ、殺したのはあなたなんですよ……」、「いや、あれはあなたですよ。あなたなんですね。ほかのだれにもできやしません」と、ほとんどささやくような声でいったのではなくて、ほとんどささやくように「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」といったんです。もしもここでアリョーシャが「あなたです」といったのだとしたら、この場面も、この作品の全体も相当の奥行きが失われますね。逆にいえば、「あなたじゃない」は一挙に、この作品の実にたくさんの要素を ── いや、それどころかこの作品の全体を隅々まで ── 、閃光のように照らし出すことばです。これはまた、殺人事件からしばらくの間、読者の前から遠ざかっていたイワンの消息を一挙に伝えることばでもあります。
 それなのに、亀山郁夫が、「兄弟同士の信頼関係のなかで、あたりまえの「事実」をめぐってのどこか思わせぶりな言い方は、かなり違和感を与え、端的にいって、居心地がわるい。ここには、父を殺したのは「あなたかもしれない」「あなたである」と言っているのと同じぐらいの意味が、その曖昧さのなかに隠されているということだ。」などというのは、私にいわせれば、鈍感です。

 さて、亀山郁夫のこの文章のつくりには、そもそも問題があると私は思っています。

 アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった。しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。要するに、アリョーシャは、結果として悪魔とイワンは一体ではないと語る(予言する)ことで、悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告したことになる。
(亀山郁夫「解題」『カラマーゾフの兄弟』 光文社文庫)

 この文章で、なぜ「悪魔」を持ち込むんでしょうか? 私はここに意図的なものを感じます。同じことじゃないか、などと考えてはいけません。

「アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった」というのは大間違いだと私はいいましょう。「アリョーシャの言わんとした」のは、「あなたは自分が殺したと思っているけれども、そうではない」ということですよ。読者は、絶対にこれを混同しちゃいけません。この違いを必ず明確に区別できなくちゃいけません。これは、私でなくとも、当のアリョーシャがそういうでしょう。
「しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。」というのは、本来は、「あなたは、あなたの思想から導き出せる可能性のなかから、すべては許される、したがって、父を殺すことがあってもいい、それは許される、と考えていたけれども、しかし、それを本当に信じていたのではなかったし、事実、それを実行してもいない」というべき内容なんですが、亀山郁夫はどうやら、悪魔を実在のものとさせたくてたまらない・読者にとっての既成事実にしたい、という気配があるんですね。
 いや、私がここでまずいおうとしたのは、単純に、アリョーシャはイワンの悪魔のことなんか知らないということです。イワンにとってだけ、悪魔は存在していたんです。その悪魔はイワンの罪悪感の幻覚化したものです。彼に深刻な打撃を与えはするけれども、幻覚なんです。悪魔はいません。亀山郁夫は「結果として」などといいはしていますけれど、これはきちんと押えておかなくてはならない部分ですよ。ここをなんとなく譲ってしまうと、この後で、あなたは亀山郁夫のいいように連れ去られることになるんじゃないでしょうか?「(予言する)」にも警戒しておかなきゃいけませんよ。これは、あなたの意識へのさりげない刷り込みです。騙されちゃいけません。
 どうですか?「いずれにせよ、この奇妙なセリフは、アリョーシャがゾシマの死後はやくも「予言者」としてのある透徹した能力を確実にさずかったことを裏づける。」なんて書かれると、これでは、アリョーシャがなんだかある種の超能力者みたいじゃないですか。
 私はいいますが、こういう超能力的見地(ある種の単純化・矮小化)を持ち込んできてはいけません。『カラマーゾフの兄弟』の作品の登場人物たちはただの人間です。そうして、ただの人間だという視点から彼らを見たときにこそ、彼らのものすごいスケールの大きさが理解されるんです。アリョーシャは「「予言者」としてのある透徹した能力を確実にさずかった」のではなく、人間的に成長したんですよ。

 ここまで私のいってきたことの全体を通して、私は、亀山郁夫がイワンやアリョーシャ ── ひいては『カラマーゾフの兄弟』という作品の全体 ── を実は過小評価している、見くびっているのじゃないかと思っているんです。そうして、私は、彼がこれまで一度も「あなたじゃない」に感動したことがないのじゃないか、と疑っています。彼は単に「端的にいって、居心地がわるい」という受け取りしかできないままでいるひとなんじゃないか? そんな読みかたしかできないひとなんじゃないか? そうすると、ですよ、これはそんなひとの訳した『カラマーゾフの兄弟』だということになります。

 もうひとつだけいいますが、原訳での「あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです。」の「一生をかけて」を、亀山郁夫は「あなたが死ぬまで」と訳していて、これについて木下豊房が痛烈に批判している ──「原訳の「一生をかけて」は……(中略)……「永久に」という意味で、自分の発言への確信と責任を表明したものです。「自分が死ぬまで信じています」ならともかく、「あなたが死ぬまで信じています」とは、ありえない訳です」(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost123.htm)── のは、まったくその通りだろうと、私は思っています。

 というわけで、アリョーシャの「あなたじゃない」に、この二十五年間ずっと引っかかり、こだわりつづけ、なにかしらの光明を見出そうとしてきた私には、亀山郁夫の解釈と訳とを承服することができないんです。これについては、このへんで終わりにします。

 まったく、やれやれ、なんですが、私はまだ、この亀山郁夫の文章「解題」を読んで、自分が「ええっ」と声をあげてしまった箇所のことに触れていないんですよ。笑ってしまうとともに、非常な疲れを感じるんですが、まだつづけます。

(二〇〇八年七月十三日)
(二〇〇八年七月十五日 一部加筆修正)

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