連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



翻訳の問題 ── 新訳『赤と黒』、『カラマーゾフの兄弟』

 六月八日の産経新聞によるネット配信記事を読みました。
「スタンダール『赤と黒』新訳めぐり対立「誤訳博覧会」「瑣末な論争」」(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080608/acd0806080918004-n1.htm)です。

 光文社の古典新訳文庫中の『赤と黒』(野崎歓=東京大学大学院准教授訳)について、立命館大学教授の下川茂が、日本スタンダール研究会の会報に「『赤と黒』新訳について」という文章を載せ、野崎訳を「前代未聞の欠陥翻訳」と評しました。この文章もネット上で(http://www.geocities.jp/info_sjes/newpage3.html)公開されています。

 光文社古典新訳文庫から野崎歓訳で『赤と黒』の新訳が出た(上巻二〇〇七年九月、下巻同年十二月刊)。結論を先に述べると、前代未聞の欠陥翻訳で、日本におけるスタンダール受容史・研究史に載せることも憚られる駄本である。仏文学関係の出版物でこれほど誤訳の多い翻訳を見たことがない。訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純ミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様であり、まるで誤訳博覧会である。それだけではない。訳文の日本語も、漢字の間違い、成句的表現の誤り、慣用から外れた不自然な語法等様々な誤りが無数にある。フランス語学習者には仏文和訳の、日本語学習者には日本語作文の間違い集として使えよう。しかし、不思議なことに野崎訳を批判する声がどこからも聞こえてこない。駄本の批判もスタンダール研究者の責務の一つと考えここで俎上に載せる次第である。
(下川茂「『赤と黒』新訳について」 「会報」第十八号)

 このつづきで、数百箇所の誤訳のうちの、それでも多数の例が列挙されています。私はフランス語が読めませんし、翻訳でも『赤と黒』を読んだことがありません。しかし、この文章を読んでいて、たしかに野崎訳の誤訳の質と量が大きい問題だということはわかります。新訳自体を読んでもいない者が何をいうのか、という問いを、ここで私は受けつけません。それは意味のない問いだと、私はここで断言しておきます。下川茂の主張は説得力のあるものだと私は認めますし、また、私には経験的にこのことがわかりもします。

 下川茂は最後にこう書いています。

 野崎は直ちに現在書店に出回っている本を回収して絶版にし、全面的な改訳に取り組むべきである。一日も早く野崎訳が書店から姿を消すことを私は願っている。便々と前代未聞の欠陥訳を売り続けるとしたら、野崎には翻訳者・学者としての能力がないだけでなく、読者に対する良心もないとみなすことにする。
(同)

 さらに「追補」として、二〇〇八年三月十五日付けでの『赤と黒』第三刷における(全数百箇所中の)十九箇所の訂正に触れ、こう書きます。

 野崎は人から指摘されるたびに一部ずつ手直ししていくつもりなのか(しかも改版とせず、初版第三刷として訂正したことを隠蔽している)。読者は新刷が出るたびにそれを買い続けなければならないのか。
(同)

 さて、産経新聞(桑原聡記者)によれば、こうです。

 産経新聞の取材に下川氏は「野崎氏に会報と絶版を勧告する文書を郵送しました。学者としての良心がおありなら、いったん絶版にしたうえで全面的に改訳すべきだと思います」と語った。
 一方、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントした。
(産経新聞 二〇〇八年六月八日)

 事実この通りだとすれば ── 私にはコメント文書の全体がどうなっているかを知ることもできないわけですが ── 、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は恥知らずの大馬鹿者です。これが大西巨人の文庫『神聖喜劇』、『三位一体の神話』、『迷宮』、『深淵』を出している出版社の編集長なんでしょうか。
 下川茂はなにも光文社に喧嘩を売っている・いいがかりをつけているわけではないでしょうに。駒井稔は、しかし、それをあたかも喧嘩を売られた・いいがかりをつけられたかのように回答することで問題をすり替えています。
「読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。」ということが、誤訳があってかまわないということにはならないし、むしろかえって、悪いこと、とんでもなく悪いことだというふうに考えなくてはなりません。駒井稔は青くなって新訳を点検すべきなんです。これが「些末な誤訳論争」のわけがありません。

 それとも、彼はこう考えているんでしょうか?
 読者なんてどうせ馬鹿だから、誤訳だらけの新訳であろうが、彼らが喜んでいるんなら、それでいいんだよ。そもそも、彼らが喜んでいるというのが、彼らの馬鹿さ加減を大いに明かしているじゃないか。だから、こんなときに大真面目に正しさを振りかざして抗議してくる輩こそ、野暮なんだよ。もともと商売にもならない「古典」なんかにいまこれだけ光が当たってきているのは、誤訳だらけとはいえ、うち(=光文社)の商売のおかげじゃないか。正しさなんかにこだわっていた日には、いつまでたっても「古典」なんかに陽は当たらないんだよ。これまでの正しい訳が望んでも得られなかったヒットがこうして実現しているじゃないか。肝心なのは、「新しさ」ということ、その売り込みのしかたなんだよ。これまでの翻訳は、正しさに拘泥していたからこそ、(誤解にすぎないにせよ)古くさくて読みにくいということで、読者に敬遠されていたんだよ。新訳は、実際には読みにくさが倍増しているかもしれないけれど、新しくて読みやすいという評判が立ちさえすれば、どうせきちんと本なんか読めない馬鹿な読者連中は、その評判だけで「なるほど読みやすい」と信じ込んでしまうんだよ。まったく、評判だけで十分なんだよ、あいつらに喜んでもらうためには。実質なんかどうでもいいんだよ。ああ、もちろん、正しい訳の方が実は読みやすいはずだし、翻訳の質も高いだろうけれど、商売にはならないんだね。商売になるっていうのは、馬鹿を喜ばす・馬鹿に自分が喜んでいるって思わせることなんだよ。つまり、これが読者に合わせた翻訳っていうことさ。
 これは、あまりにひどい想像でしょうか?

「あなたが世間の人のことをそれほどまで悪く、醜く考えておられるとは、驚きますね」スタヴローギンはいくらか憎々しげに言った。
「信じていただけるかな、私は世間の人というより、むしろ自分に照らして判断したのですが!」チホンが叫んだ。
(ドストエフスキー『悪霊』 江川卓訳 新潮文庫)

 私はまたしても「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない。」ということを全然理解しえない圧倒的多数のひとたちのことを考えています。そうして、その事情を自分では理解しつつ、それを悪用して、圧倒的多数を見下しながら、彼らをその位置に押し込めたままにしていいと考えているひと、彼らに合わせた商売をするひとのいることを考えてもいます。その心理が私には理解できます。理解できますが、それはやってはならないことなんだと考えているんです。

 また、べつの引用。

 お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずか何万人の偉大な力強い人間たちで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや、海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てば、それでいいと言うのか? いや、われわれにとっては、かよわい人間も大切なのだ。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 私は以前(「はじめに」())で、ある翻訳もののゲラを読んで、出版社に意見をメールで送ったことをいいました。

 原作がどうであろうと、こちらに日本語で提出された作品として、この『*****』は非常に拙劣なものだと思いました。この日本語訳で読む限りは、です。
 まず、私の考えかたを先に示しておきたいのですが、小説作品において重要なのは、「なにが描かれているか」ではなくて「どのように描かれているか」なのだと思っています。この「どのように」をクリアしていない作品は結局「なに」がいくらすばらしくても作品として失格なのです。「どのように」が「なに」を生かしも殺しもします。
 翻訳者は、原作者が「なに」を語っているかだけをみていればいいというのではありません。原作者が「どのように」語っているのか、なぜそのように語っているのか、まずはそれをきちんとみきわめていなくてはなりません。これは翻訳者が原作をどのように読みとったのかが問われるということです。しかも、翻訳者は原作の一読者ではありますが、彼の手になる翻訳作品の作者の役割をも担わなくてはならないはずなのです。この点で、『*****』は翻訳者が単に原作の一読者で終わってしまっていると思います。おそらくこの翻訳者は原作を読んで感動したのかもしれませんが、それを日本の読者に伝えるためには、自分が原作を再創造しなくてはならないということがまったくわかっていないのだと思います。彼は自分が原作の「なに」に感動したかということだけを夢中になって追っているので、それが「どのように」描かれていたからこそ感動に結んだのだということを忘れてしまっている、あるいは、最初からそういうことには思い及んでいなかったのです。翻訳者は原作という楽譜を置いて、聴衆の前で演奏しなくてはならないのです。どういう音符が楽譜に並んでいるかを説明するのではありません。
 この翻訳者は文章の書けないひと、ことばというものに無頓着なひとだと思います。読んでいる間ずっと「まあざっとこんな意味よ」という通訳を受けているような気がしました。彼の語彙は貧困で幼稚なものばかりだと思います。一般の読者にむけてかたい表現を避けようとしたのだという意図があるのかもしれませんが、もしそうならば、その場合にこそより豊かな語彙と表現力が必要とされるのです。全体がなにかのっぺりして立体感のない、幼稚な話しことば風の文で埋められています。しかもこれは、文章全体の構成も考えずに、生徒が宿題のために一文単位で辞書を引いたまま訳を出したようで、とても他人に読ませるための訳ではないと思われるのです。

 その後で、私はこうつづけました。

 ── 一部だけを書き写してみました。このつづきで、私は翻訳全体を最初からやりなおすだけではたぶん駄目で、翻訳者(私はゲラを読んだ時点で、翻訳者が誰なのかを知りませんでした)を替えなくては無理だと書き、さらにこんな翻訳を通してしまう編集者はいったいどうなっているのか、と噛みつきもしました。実際にそう書いて、出版社に送りました。で、それからどうなったかというと、この作品は結局そのまま出版され、けっこう売れもしましたし、おまけに「課題図書」にも選定されたんですよね(あの「課題図書」っていうのは、いったいどういうひとが選定しているんでしょうか?)。この作品に感動したなどと書いて、表彰されたひともいるはずなんです。

 また、私は、これも以前に、「翻訳の問題」── ()()── として、池澤夏樹訳の『母なる夜』(カート・ヴォネガット)について触れ、さらに木村榮一訳の『黄色い雨』(フリオ・リャマサーレス)について触れました。後者では、私の指摘を受けて翻訳者が原作者に当該部分を照会するということすら起こったのでした。
 翻訳には誤訳がつきものだとしても、とにかく、誤訳を見つけた者はそれを指摘すべきです。そうでなければ、次の読者が不幸だからです。そうして、原作者も不幸だからです。原作も不幸だからです。

 さて、出版社が誤りを認めて手直ししたものをどういう形で出すかというと、下川茂の要求するように「改版」という表示をしません。今回の『赤と黒』同様に「刷」の数を増やすだけです。前記『母なる夜』も『黄色い雨』もそうです。そうして、おそらく、作品中の表現の改められる以前の本の所有者が、自分の本の不備を理由に最新の「刷」との交換を求めたとして、それが受け入れられるものかどうか疑問です。それに、増刷ということができない限り、手直しのしようもないわけです。何らかの不備がありながら、それが一定以上売れることがないと、増刷(手直し)もできないわけです。
 もうひとついいますが、専門の「校正係」を抱えている出版社というのは、非常に少ないでしょう。たいていの出版社では、担当編集者が校正をすることになります。これは、出版社の財政上の問題でもあります。

 それはそれとして、新訳『赤と黒』に抗議した下川茂の心中を私はよく理解していると思います。新訳『赤と黒』は、原作を愛する彼にとって、あまりにも我慢のならない代物だったのでしょう。新訳『赤と黒』が好評になることによって、真の『赤と黒』が恐ろしく傷つけられるはずだと彼は思ったに違いありません。そして、彼は抗議せざるをえなくなったんですよ。自分がいわなくて、他の誰がいうのか、ということです。彼はけして鬼の首を取ったような気持ちで抗議したのじゃありません。自分を売り込むために抗議したのじゃありません。彼はただただ『赤と黒』という作品に奉仕したんです。そうせざるをえなかったんです。
 そうであるのに、これを「子どもの喧嘩」とか「どっちもどっち」などというふうにしか受け取らないひと、「そんなのどっちでもいいじゃないか」というひとのいることを私は認識しています。これは、「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない。」に対する多くのひとの反応、例の「ひとそれぞれ」という理屈、「趣味・嗜好」という理屈に結んでもいるでしょう。
 そうして、光文社編集長駒井稔は ── 先のコメントをそのまま受け取るとするなら ── こういうひとたちを味方につけることを狙っているんです。
 しかし、悪いのは一方的に光文社と訳者野崎歓です。

 さて、翻訳者野崎歓。彼は、たとえ光文社編集長が先に私の想像したような、読者を馬鹿にしながらの販売戦略を考えていたとしても、きちんとした正しい翻訳をすればよかったんです。しかし、彼はそうしなかった。安易な心づもりでしかこの仕事をしなかった。下川茂の「便々と前代未聞の欠陥訳を売り続けるとしたら、野崎には翻訳者・学者としての能力がないだけでなく、読者に対する良心もないとみなすことにする。」という発言に、いったい、彼はどう答えるんでしょうか。

 それにしても、私が危惧するのは、もしかすると、いまの出版業界を商売として支えているのが、おおかた光文社編集長駒井稔の考えかたなのではないか、ということです。この業界で仕事をするおおかたのひとが、駒井稔と同じことを考え、実行しているのではないか。この業界に駒井稔が無数にいるのではないか。少なくとも、それが主流なのではないか。駒井的発想でしか、この業界は現状維持もできないのではないか、ということです。とすれば、早晩この業界は、読者ともども衰退するより他ないのではないか、ということです。

 またも私自身の文章(「はじめに」())から引用しますが、

「みんながみんな一斉に同じ本を読む」──「ヨーイ、ドン」── ことなしにこの業界が現状を維持できないだろう・「みんながみんな一斉に同じ本を読む」ことでこの業界が現状に至っているだろう、とも思います。しかし、現状維持のままでは結局衰退に向かうだけじゃないでしょうか?

 私は暗澹とします。

 そうして、すでにもう何度も引用している文章ですが、

 ……わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかし、わたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。
(トーマス・マン『ファウストゥス博士』 円子修平訳 新潮社)

 さらに、同じ光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)に『赤と黒』同様の誤訳の指摘(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm)があることをも、私を深く滅入らせます。こちらもやはり、指摘は正しいだろうと思われます。亀山訳を私は読んでいません(私が繰り返し読んできたのは原卓也訳=新潮文庫です。他には小沼文彦訳=筑摩書房)・(亀山訳の数箇所を私は自分の勤める書店の店頭で読んでいますが、それらが私にはどうもしっくりこなかった。それで、全部を通して読むつもりもなくなっていたんです)。それでも、亀山訳の問題を指摘する文章が正しいだろうと、これも経験的に私は判断します。
 野崎歓訳『赤と黒』以上に売れている亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』にいっそうの罪深さを感じます。後者がこれほど売れていなければ、前者がこのように問題になることもなかったでしょう。そうして、ともに発行は光文社です。もう一度いいましょうか。これが大西巨人の文庫『神聖喜劇』、『三位一体の神話』、『迷宮』、『深淵』を出している出版社のすることですか?
(二〇〇八年六月十九日)


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