翻訳の問題 ── 新訳『赤と黒』、『カラマーゾフの兄弟』 六月八日の産経新聞によるネット配信記事を読みました。 「スタンダール『赤と黒』新訳めぐり対立「誤訳博覧会」「瑣末な論争」」(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080608/acd0806080918004-n1.htm)です。 光文社の古典新訳文庫中の『赤と黒』(野崎歓=東京大学大学院准教授訳)について、立命館大学教授の下川茂が、日本スタンダール研究会の会報に「『赤と黒』新訳について」という文章を載せ、野崎訳を「前代未聞の欠陥翻訳」と評しました。この文章もネット上で(http://www.geocities.jp/info_sjes/newpage3.html)公開されています。
このつづきで、数百箇所の誤訳のうちの、それでも多数の例が列挙されています。私はフランス語が読めませんし、翻訳でも『赤と黒』を読んだことがありません。しかし、この文章を読んでいて、たしかに野崎訳の誤訳の質と量が大きい問題だということはわかります。新訳自体を読んでもいない者が何をいうのか、という問いを、ここで私は受けつけません。それは意味のない問いだと、私はここで断言しておきます。下川茂の主張は説得力のあるものだと私は認めますし、また、私には経験的にこのことがわかりもします。 下川茂は最後にこう書いています。
さらに「追補」として、二〇〇八年三月十五日付けでの『赤と黒』第三刷における(全数百箇所中の)十九箇所の訂正に触れ、こう書きます。
さて、産経新聞(桑原聡記者)によれば、こうです。
事実この通りだとすれば ── 私にはコメント文書の全体がどうなっているかを知ることもできないわけですが ── 、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は恥知らずの大馬鹿者です。これが大西巨人の文庫『神聖喜劇』、『三位一体の神話』、『迷宮』、『深淵』を出している出版社の編集長なんでしょうか。 下川茂はなにも光文社に喧嘩を売っている・いいがかりをつけているわけではないでしょうに。駒井稔は、しかし、それをあたかも喧嘩を売られた・いいがかりをつけられたかのように回答することで問題をすり替えています。 「読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。」ということが、誤訳があってかまわないということにはならないし、むしろかえって、悪いこと、とんでもなく悪いことだというふうに考えなくてはなりません。駒井稔は青くなって新訳を点検すべきなんです。これが「些末な誤訳論争」のわけがありません。 それとも、彼はこう考えているんでしょうか? 読者なんてどうせ馬鹿だから、誤訳だらけの新訳であろうが、彼らが喜んでいるんなら、それでいいんだよ。そもそも、彼らが喜んでいるというのが、彼らの馬鹿さ加減を大いに明かしているじゃないか。だから、こんなときに大真面目に正しさを振りかざして抗議してくる輩こそ、野暮なんだよ。もともと商売にもならない「古典」なんかにいまこれだけ光が当たってきているのは、誤訳だらけとはいえ、うち(=光文社)の商売のおかげじゃないか。正しさなんかにこだわっていた日には、いつまでたっても「古典」なんかに陽は当たらないんだよ。これまでの正しい訳が望んでも得られなかったヒットがこうして実現しているじゃないか。肝心なのは、「新しさ」ということ、その売り込みのしかたなんだよ。これまでの翻訳は、正しさに拘泥していたからこそ、(誤解にすぎないにせよ)古くさくて読みにくいということで、読者に敬遠されていたんだよ。新訳は、実際には読みにくさが倍増しているかもしれないけれど、新しくて読みやすいという評判が立ちさえすれば、どうせきちんと本なんか読めない馬鹿な読者連中は、その評判だけで「なるほど読みやすい」と信じ込んでしまうんだよ。まったく、評判だけで十分なんだよ、あいつらに喜んでもらうためには。実質なんかどうでもいいんだよ。ああ、もちろん、正しい訳の方が実は読みやすいはずだし、翻訳の質も高いだろうけれど、商売にはならないんだね。商売になるっていうのは、馬鹿を喜ばす・馬鹿に自分が喜んでいるって思わせることなんだよ。つまり、これが読者に合わせた翻訳っていうことさ。 これは、あまりにひどい想像でしょうか?
私はまたしても「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない。」ということを全然理解しえない圧倒的多数のひとたちのことを考えています。そうして、その事情を自分では理解しつつ、それを悪用して、圧倒的多数を見下しながら、彼らをその位置に押し込めたままにしていいと考えているひと、彼らに合わせた商売をするひとのいることを考えてもいます。その心理が私には理解できます。理解できますが、それはやってはならないことなんだと考えているんです。 また、べつの引用。
私は以前(「はじめに」(四))で、ある翻訳もののゲラを読んで、出版社に意見をメールで送ったことをいいました。
その後で、私はこうつづけました。
また、私は、これも以前に、「翻訳の問題」── (一)(二)── として、池澤夏樹訳の『母なる夜』(カート・ヴォネガット)について触れ、さらに木村榮一訳の『黄色い雨』(フリオ・リャマサーレス)について触れました。後者では、私の指摘を受けて翻訳者が原作者に当該部分を照会するということすら起こったのでした。 翻訳には誤訳がつきものだとしても、とにかく、誤訳を見つけた者はそれを指摘すべきです。そうでなければ、次の読者が不幸だからです。そうして、原作者も不幸だからです。原作も不幸だからです。 さて、出版社が誤りを認めて手直ししたものをどういう形で出すかというと、下川茂の要求するように「改版」という表示をしません。今回の『赤と黒』同様に「刷」の数を増やすだけです。前記『母なる夜』も『黄色い雨』もそうです。そうして、おそらく、作品中の表現の改められる以前の本の所有者が、自分の本の不備を理由に最新の「刷」との交換を求めたとして、それが受け入れられるものかどうか疑問です。それに、増刷ということができない限り、手直しのしようもないわけです。何らかの不備がありながら、それが一定以上売れることがないと、増刷(手直し)もできないわけです。 もうひとついいますが、専門の「校正係」を抱えている出版社というのは、非常に少ないでしょう。たいていの出版社では、担当編集者が校正をすることになります。これは、出版社の財政上の問題でもあります。 それはそれとして、新訳『赤と黒』に抗議した下川茂の心中を私はよく理解していると思います。新訳『赤と黒』は、原作を愛する彼にとって、あまりにも我慢のならない代物だったのでしょう。新訳『赤と黒』が好評になることによって、真の『赤と黒』が恐ろしく傷つけられるはずだと彼は思ったに違いありません。そして、彼は抗議せざるをえなくなったんですよ。自分がいわなくて、他の誰がいうのか、ということです。彼はけして鬼の首を取ったような気持ちで抗議したのじゃありません。自分を売り込むために抗議したのじゃありません。彼はただただ『赤と黒』という作品に奉仕したんです。そうせざるをえなかったんです。 そうであるのに、これを「子どもの喧嘩」とか「どっちもどっち」などというふうにしか受け取らないひと、「そんなのどっちでもいいじゃないか」というひとのいることを私は認識しています。これは、「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない。」に対する多くのひとの反応、例の「ひとそれぞれ」という理屈、「趣味・嗜好」という理屈に結んでもいるでしょう。 そうして、光文社編集長駒井稔は ── 先のコメントをそのまま受け取るとするなら ── こういうひとたちを味方につけることを狙っているんです。 しかし、悪いのは一方的に光文社と訳者野崎歓です。 さて、翻訳者野崎歓。彼は、たとえ光文社編集長が先に私の想像したような、読者を馬鹿にしながらの販売戦略を考えていたとしても、きちんとした正しい翻訳をすればよかったんです。しかし、彼はそうしなかった。安易な心づもりでしかこの仕事をしなかった。下川茂の「便々と前代未聞の欠陥訳を売り続けるとしたら、野崎には翻訳者・学者としての能力がないだけでなく、読者に対する良心もないとみなすことにする。」という発言に、いったい、彼はどう答えるんでしょうか。 それにしても、私が危惧するのは、もしかすると、いまの出版業界を商売として支えているのが、おおかた光文社編集長駒井稔の考えかたなのではないか、ということです。この業界で仕事をするおおかたのひとが、駒井稔と同じことを考え、実行しているのではないか。この業界に駒井稔が無数にいるのではないか。少なくとも、それが主流なのではないか。駒井的発想でしか、この業界は現状維持もできないのではないか、ということです。とすれば、早晩この業界は、読者ともども衰退するより他ないのではないか、ということです。 またも私自身の文章(「はじめに」(六))から引用しますが、
私は暗澹とします。 そうして、すでにもう何度も引用している文章ですが、
さらに、同じ光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)に『赤と黒』同様の誤訳の指摘(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm)があることをも、私を深く滅入らせます。こちらもやはり、指摘は正しいだろうと思われます。亀山訳を私は読んでいません(私が繰り返し読んできたのは原卓也訳=新潮文庫です。他には小沼文彦訳=筑摩書房)・(亀山訳の数箇所を私は自分の勤める書店の店頭で読んでいますが、それらが私にはどうもしっくりこなかった。それで、全部を通して読むつもりもなくなっていたんです)。それでも、亀山訳の問題を指摘する文章が正しいだろうと、これも経験的に私は判断します。 野崎歓訳『赤と黒』以上に売れている亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』にいっそうの罪深さを感じます。後者がこれほど売れていなければ、前者がこのように問題になることもなかったでしょう。そうして、ともに発行は光文社です。もう一度いいましょうか。これが大西巨人の文庫『神聖喜劇』、『三位一体の神話』、『迷宮』、『深淵』を出している出版社のすることですか? |