連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「名訳」だそうです。松岡正剛の読解力では。

(この章は昨二〇一三年十二月七日に書き上げていたものです)

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 最先端=亀山郁夫訳を「どきどきしながら読める」「名訳」だといい切ってしまった松岡正剛、さらに、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』全五巻を一冊ずつ紹介していきます。恥の上塗り。

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 【KEY BOOK】「カラマーゾフの兄弟(1)」(ドストエフスキー著/光文社古典新訳文庫、760円)
 作品は4部とエピローグで構成されているのだが、冒頭から物語の前兆的な重圧がのしかかる。事件もおこる。それが主要にはたった3日間の出来事なのだ。第1巻では、父親と3兄弟が抱えるカラマーゾフ家の宿命的な難題が何なのかが饒舌と暗示の中で次々に提示されていくところが読みどころ。下男スメルジャコフをはじめとする脇役も怪しい。
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 【KEY BOOK】「カラマーゾフの兄弟(2)」(ドストエフスキー著/光文社古典新訳文庫、820円)
 家族にひそむ葛藤から脱出するべく、一家揃って長老ゾシマを訪ねるのだが、国家と信仰の矛盾と乖離の謎にぶつかり、神の存在をめぐる不安が迫ってきてこの壁をまともに受けたアリョーシャの煩悶を中心に物語が進む。そこへイワンから「大審問官」の話がもたらされ、物語そのものが名状しがたい複雑な煩悶に突入していく。
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 【KEY BOOK】「カラマーゾフの兄弟(3)」(ドストエフスキー著/光文社古典新訳文庫、880円)
 ついに父親が殺され、長老ゾシマも死ぬ。裁判も始まる。しかし、事件の背後の意味が明かされない。作者も読み手もこのあたりから必死だ。イワンの精神は錯乱の直前に達する。これはドストエフスキーの最後の作品なのだ。実は作者の父親も殺されていた。ここにはドストエフスキーの生涯のすべてが投入されていたわけだ。
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 【KEY BOOK】「カラマーゾフの兄弟(4)」(ドストエフスキー著/光文社古典新訳文庫、1080円)
 スメルジャコフが自殺した。ドミートリーが父殺しの犯人にされ、流刑の判定が下るのだが、真相はわからない。ドストエフスキーの流刑体験がここにほとばしる。物語は大団円に向かっているようでいて、複合的な奈落を巻き込んで、いっそう深みに降りていくようにも読める。脇役を含めたすべての登場人物がことごとく自分の分身にも見えてくる。
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 【KEY BOOK】「カラマーゾフの兄弟(5)」(ドストエフスキー著/光文社古典新訳文庫、660円)
 第5巻ではエピローグと亀山郁夫の懇切な解説が読める。『カラマーゾフ』についてはこれまでさんざん議論が出尽くしたようだし、ミハエル・バフチンのポリフォニックな読み方など絶品に思われていたのだが、亀山の解読を読むとさらに多読の可能性があることを知らされる。すでに読んだことのある読者は、この第5巻だけでも目を通すといい。
(「亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』は凄い」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/629568/

 ひどいね、こりゃ。まずいっておくと、松岡正剛の「『カラマーゾフ』についてはこれまでさんざん議論が出尽くしたようだし、ミハエル・バフチンのポリフォニックな読み方など絶品に思われていた」というのは彼自身にとってそうだということなんですよね? これがわからない。一般的にはこうだ、なのか、松岡正剛自身にはこうだ、なのか、ということです。この区別をきちんとつけてもらわないと困ります。まあ、いいでしょう。私はこれを後者と受け取ります。というわけで、松岡正剛には「ミハエル・バフチンのポリフォニックな読み方など絶品に思われていた」らしいですが、ろくに『カラマーゾフの兄弟』も理解せずに、どうしてバフチンの「ポリフォニックな読み方」がこのひとには「絶品」でありえたのか? そのうえ、「亀山の解読を読むとさらに多読の可能性があることを知らされる」って、何だ、こりゃ? 最先端=亀山郁夫がバフチンをまったく理解していないことは明白なんですが、松岡正剛にはこんなことすらわかりません。つまり、松岡正剛にはバフチンの「ポリフォニックな読み方」が理解できていないということでもあります。それを「絶品」だなんて、どの口がいうのか? 松岡正剛、でたらめばかりです。ここまで私は「馬鹿なのか、卑怯者なのか」という基準でいろいろしゃべってきましたが、松岡正剛ははっきり「馬鹿」です。松岡正剛にはアリョーシャの「あなたじゃない」がまるっきり理解できていません。「すでに読んだことのある読者は、この第5巻だけでも目を通すといい」って、もう笑うしかありません。私のこの最先端=亀山郁夫批判の根拠がほぼこの「第5巻」の「懇切な解説」なんですから。松岡正剛は、私のここまでの批判全文を熟読したらいいと思います。

 そんな松岡正剛ですが、「松岡正剛の千夜千冊」(http://1000ya.isis.ne.jp/)のひとですよね。私はちらっとしか読んだことがありませんが。そうして、Wikipedia によれば、

 二〇〇〇年(平成十二年)二月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は二冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、話題を呼んだ。第一夜は中谷宇吉郎『雪』。二〇〇四年(平成十六年)七月に良寛『良寛全集』で“一〇〇〇夜”を達成した。

 さらに、私の印象に残っているのは「松丸本舗」で、

 二〇〇九年(平成二十一年)十月には、丸善丸の内本店に、松岡正剛プロデュースによる松丸本舗をオープン。ショップ・イン・ショップという形態、松岡をはじめとする著名人の書斎を再現した本棚など、その斬新な店舗づくりが話題を呼んだ(実験店舗としての三年間の役割を終え、松丸本舗は二〇一二年の九月末をもって閉店。その詳細は、『松岡正剛の書棚:松丸本舗の挑戦』(中央公論新社)、『松丸本舗主義:奇蹟の本屋、三年間の挑戦。』(青幻舎)で明かされている)。二〇一一年(平成二十三年)には、イシス編集学校の有志とともに体系化した知のカテゴリーである「目次録」を公開し、それをもとに新たなコンセプトによる書籍探索エンジン「システム目次録」を開発。書物という情報単位から意味をとり出し、システムに応用した、連想検索の仕組みを研究し続けている。
(同)

 やれやれ。「松丸本舗」って、こんな「馬鹿」がやっていたものだったのか。「丸善丸の内本店」のおめでたさが悲しいですね。

 いいですか。私はこのブログ「連絡船」で、とっくに警告していました。

 現在、ネット上で非常に多くの書評・感想の類が書かれているはずですが、しかし、私が検索してみると、私の考える「多数のひとには知られていない・知られていても読まれてはいない、というもののうちに(ある)、しかし「よい」という作品」も「多くの読書家にとってあまりにも基本的であるはずの作品」も意外にヒットしないんです。検索のしかたが下手なのかもしれませんが、私程度のやりかたで簡単に見つけられないのは、やはり問題じゃないでしょうか?
 それらがかろうじて扱われていたとしても、教科書的な、なにかの引き写しのようなものでしかなかったり、書き手本人だけ・小さい仲間うちだけに通じるような書きかたでしかなかったり、あるいは、あまりにも読者としての自分を卑下しているせいなのか、頼りない・自信のない表現だけでしかなかったり、逆に書き手のあまりにも頭のよすぎるためか、単に自明の情報・知識のひとつとしてしか問題にしない ── 書き手の情報の処理のしかたが「うまく」て、彼の頭のよさをひけらかす結果にしかならない(これが非常に問題で、こういうタイプのひとは何も伝えないんです。敢えて愚鈍を選択しなくてはならない、愚鈍を恐れちゃいけないんですよ。それにもかかわらず、そのこのタイプのひとの頭のよさそうなものいいに感心してわかったつもりになる読み手もかなりの数になるでしょう)── 書きかたであったりするために、まともにこれからその作品に触れようとするひとには非常に不親切な記述ばかりだと感じるんですね。

 右の文章のうち、

 逆に書き手のあまりにも頭のよすぎるためか、単に自明の情報・知識のひとつとしてしか問題にしない ── 書き手の情報の処理のしかたが「うまく」て、彼の頭のよさをひけらかす結果にしかならない(これが非常に問題で、こういうタイプのひとは何も伝えないんです。敢えて愚鈍を選択しなくてはならない、愚鈍を恐れちゃいけないんですよ。それにもかかわらず、そのこのタイプのひとの頭のよさそうなものいいに感心してわかったつもりになる読み手もかなりの数になるでしょう)── 書きかたであったりするために、まともにこれからその作品に触れようとするひとには非常に不親切な記述ばかりだと感じるんですね。

 ── の「あまりにも頭のよすぎる」「書き手」のひとりが松岡正剛です。まさか疑問に思ったりしないと思いますが、私は右の文章で「あまりにも頭のよすぎる」を皮肉ってそう書いたわけで、これは、一見頭のよさそうに見えつつ、実は単にある種の「情報処理」にだけ長けているというに過ぎない、そういうひとのことをいっていて、つまり、それは「馬鹿」に等しいです。そうして、現在の私はその「あまりにも頭のよすぎる」「書き手」が、なぜそうなのか ── 右の文章を書いたときには、はっきりわかってはいませんでした ── をここではっきりということができます。「あまりにも頭のよすぎる」「書き手」には「勇気や信念」が決定的に欠けているんです。
 松岡正剛ってひとは単に上っ面の知識を豊富に収集し、上っ面で「情報処理」しているだけです。個々の知識を自分自身の「人間」に照らして評価せず、それらを単に一見頭のよい上っ面の小細工で振り回して見せ、ものを考えないひとびとを「すごいね、すごいね」と感心させる類の、くだらないことの名人であるだけです。このひとには「人間」としての「勇気や信念」など馬鹿馬鹿しいでしょう。もし彼に「人間」としての「勇気や信念」があるなら、一五〇〇冊以上(いや、もっとですか?)の書評などできませんから。
 こんなひとのくだらない「読書量」なんかに騙されちゃいけません。多読やら速読なんかには何の意味もない。無駄、無駄、無駄です。この世のなかからこんな松岡正剛的読書が消え失せますように。私は心から祈ります。

(二〇一三年十二月七日)

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