「名訳」だそうです。松岡正剛の読解力では。 (この章は昨二〇一三年十二月七日に書き上げていたものです)
1 私は以前にこう書きました。
松岡正剛が原卓也訳を読んでいるかどうか知りません。彼が以前に読んだのは米川正夫訳です。私は米川訳を読んでいませんが、最先端=亀山郁夫訳を視野に入れるなら、右の私の文章は、「原卓也」を「米川正夫」に置き換えてもいっこうにかまいません。なぜこんなことがいえるかというと、最先端=亀山郁夫訳のような異常な翻訳(突出したひどさ・いいかげんさ・でたらめさ等々)を他に考えることができないからです。そうして、私はこういうことをあなたに告げようと思います。あなたは松岡正剛を見捨ててください。米川正夫訳をふつうに読んで感動したひとであるなら、亀山郁夫の「解題」に必ず仰天するはずです。
さて、「数カ月、うんうん唸りながら「大審問官って何なのか」と思いつつ大作を読んだ。脳天を割られるほど驚嘆した」というのは、高校生当時の松岡正剛ですよね。いったい、このひとはその後『カラマーゾフの兄弟』を読み返したことがあるんでしょうか? ないんじゃないでしょうか、ごく最近に最先端=亀山郁夫訳を手に取るまでは。そうして、その最近の読書でも、高校生当時の読書をそのまま反芻した ── 高校生当時の感想を思い出すためにだけに駆け足で読んだ ── に過ぎず、現在の自分の年齢相応な読書をせず、新たな何も読み取らなかったのじゃないですか。それに、私はいいますが、高校生が『カラマーゾフの兄弟』をどんなふうに読むのか、私にはわかります。そうして、それでは全然足りないんですよ。現役高校生ですでにこの作品を読んで感動しているひとには申し訳ないけれど、そのひとは、この先ずっと繰り返し読みつつ年を取っていってください。十年後か、二十年後か、三十年後には、ここで私のいっていることがわかるだろうと思います。そういうわけで、松岡正剛は『カラマーゾフの兄弟』を誰彼に薦めるに足る読書をしていません。「感銘したなんてものじゃない」なんていってますが、このひとには「大審問官」の意味がわかっていないと思いますよ。こういうひとはもう黙ったらいい。それに、「イワンが書いた恐るべき戯曲《大審問官》をアリョーシャに読み聞かせる場面」って、イワンは「大審問官」の原稿の紙束でも手にしながら、「読み聞かせ」たんですか?
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