連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「名訳」だそうです。松岡正剛の読解力では。

(この章は昨二〇一三年十二月七日に書き上げていたものです)

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 私は以前にこう書きました。

 あなたの周りに亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだというひとがいたとしますね。そのひとが読んだものは、実は『カラマーゾフの兄弟』ではないのだと私はいいます。
 そのひとが、原卓也訳では読むのを挫折した経験があって、それに比べて亀山訳が読みやすかったなどといっているとしたら、そのひとの日本語力を疑ってかまいません。
 そのひとが亀山訳しか読んでおらず、しかも彼の「解題」にも助けられたというのなら、あなたは、もうただそのひとの不幸を憐れんでください。
 そのひとが原卓也訳を読んでいて、しかも亀山郁夫による「解題」を読んで、理解が深まったなどといっているようなら、もうあなたはそのひとを見捨ててください。原卓也訳をふつうに読んで感動したひとであるなら、亀山郁夫の「解題」に必ず仰天するはずです。

 松岡正剛が原卓也訳を読んでいるかどうか知りません。彼が以前に読んだのは米川正夫訳です。私は米川訳を読んでいませんが、最先端=亀山郁夫訳を視野に入れるなら、右の私の文章は、「原卓也」を「米川正夫」に置き換えてもいっこうにかまいません。なぜこんなことがいえるかというと、最先端=亀山郁夫訳のような異常な翻訳(突出したひどさ・いいかげんさ・でたらめさ等々)を他に考えることができないからです。そうして、私はこういうことをあなたに告げようと思います。あなたは松岡正剛を見捨ててください。米川正夫訳をふつうに読んで感動したひとであるなら、亀山郁夫の「解題」に必ず仰天するはずです。

亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』は凄い
《脅されても読むべき神と人をめぐる大作》
 ふつう、誰かに脅されて本を読むことはないが、ぼくは高校の親友から脅されて読んだ本があった。「おまえ、大審問官も知らないのか。カラマーゾフだよ」「知らない」「だったら読むまでは、おまえとはつきあえないな」
 ドストエフスキーは『罪と罰』しか読んでいなかった。けれども大好きな親友だったので、脅迫まがいではあっても読まないわけにはいかない。かくて数カ月、うんうん唸りながら「大審問官って何なのか」と思いつつ大作を読んだ。脳天を割られるほど驚嘆した。
 この大作は、カラマーゾフ家の父と3人の息子たちの極限的な葛藤劇だ。父親フョードルは旧ロシアを代表する地主で、好色で老獪で強欲、そのくせヴォルテール流の啓蒙思想にかぶれ、横柄な無神論を信条にしている。この強靭な父のもと物語が分岐する。
 長男ドミートリーは軍隊帰りで、巨大なものなら何でも呑みこみたいという独特の無神論者。人使いも金遣いも荒いのだが、なぜか無垢な女性にはめっぽう弱い。
 次男イワンは神秘など認めない知性派で、その獰猛な理性は、ドストエフスキーが入念にヨーロッパ知性に対抗してつくりあげたスラブ的理性を代表する。『罪と罰』のラスコーリニコフや『悪霊』のスタヴローギンに通じる。
 三男アリョーシャは敬虔な修道僧で、未来を抱擁したいと願う純真派。少女リーザが憧れる。『白痴』のムイシュキンに通ずる「無力・無垢」の象徴的人格である。
 この異様なカラマーゾフ家に悲劇がおこる。父親フョードルが殺されるのだ。なぜ殺されたのか、だれが殺したのか、わからない。こうして物語は未曾有のサスペンスに満ちたまま劇的に進行するのだが、途中、イワンが書いた恐るべき戯曲《大審問官》をアリョーシャに読み聞かせる場面が挿入される。親友がぼくに「大審問官も知らないのか」と詰ったのはこれだ。神は正しいのか、人を赦す力などもっているのか、キリストは何をしたのかという究極の問いが込められていた。
 感銘したなんてものじゃない。やはり脅されても読むべき本だった。最近は亀山郁夫の名訳でどきどきしながら読めるし、ぼくはまだ見ていないのだが、舞台を日本に移したテレビドラマも始まった。
(「亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』は凄い」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/629568/

 さて、「数カ月、うんうん唸りながら「大審問官って何なのか」と思いつつ大作を読んだ。脳天を割られるほど驚嘆した」というのは、高校生当時の松岡正剛ですよね。いったい、このひとはその後『カラマーゾフの兄弟』を読み返したことがあるんでしょうか? ないんじゃないでしょうか、ごく最近に最先端=亀山郁夫訳を手に取るまでは。そうして、その最近の読書でも、高校生当時の読書をそのまま反芻した ── 高校生当時の感想を思い出すためにだけに駆け足で読んだ ── に過ぎず、現在の自分の年齢相応な読書をせず、新たな何も読み取らなかったのじゃないですか。それに、私はいいますが、高校生が『カラマーゾフの兄弟』をどんなふうに読むのか、私にはわかります。そうして、それでは全然足りないんですよ。現役高校生ですでにこの作品を読んで感動しているひとには申し訳ないけれど、そのひとは、この先ずっと繰り返し読みつつ年を取っていってください。十年後か、二十年後か、三十年後には、ここで私のいっていることがわかるだろうと思います。そういうわけで、松岡正剛は『カラマーゾフの兄弟』を誰彼に薦めるに足る読書をしていません。「感銘したなんてものじゃない」なんていってますが、このひとには「大審問官」の意味がわかっていないと思いますよ。こういうひとはもう黙ったらいい。それに、「イワンが書いた恐るべき戯曲《大審問官》をアリョーシャに読み聞かせる場面」って、イワンは「大審問官」の原稿の紙束でも手にしながら、「読み聞かせ」たんですか? 

「兄さんが叙事詩を書いたんですか?」
「いや、書いたわけじゃないよ」イワンは笑いだした。「それに俺は生れてこの方、一度だって二行の詩さえ作ったことはないからな。でも、この叙事詩は頭の中で考えついて、おぼえてしまったんだ。熱心に考えたもんさ。お前が最初の読者、つまり聞き手になるわけだ。実際、作者としてはたとえたった一人の聞き手でも、失う法はないものな」イワンは苦笑した。「話そうか、どうしようか?」
「大いに聞きたいですね」アリョーシャが言った。
「俺の叙事詩は『大審問官』という表題でね。下らぬ作品だけど、お前にはぜひきかせたいんだよ」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

(つづく)

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