連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



最先端=亀山郁夫の「使命」とやら

(この章のほとんどは昨二〇一三年六月までに書き上がっていて、放ったまま、
ほぼ一年が過ぎ、このひと月くらいでいくらかの加筆をして、切り上げました)

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 そうして、さらに恥の上塗り、それを相手にする小説家・辻原登との傑作対談。

亀山 『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老は、一定程度の悪を経験した上で、ひとは初めて浄化されると語っている。『悪霊』には、スタヴローギンという、悪の根源を体現したような人物が出てくる。ドストエフスキー自身も、深く自らの罪を自覚しながら生きた作家だと思うんですね。罪の自覚というのは、ある意味で才能です。
辻原 ドストエフスキーに限らず、人間の悪の部分、特に男の悪の部分というのは暴力性と結びついていて、これが人物を造っていくと思う。男の自己表現のある部分は暴力と切り離せない。それは原始時代からずっとそうで、十九世紀のドストエフスキー、トルストイ、バルザックなどは男の暴力性を、正面から描いている。残念ながら日本の近代小説は、漱石から始まって、そこを除外しながら現代人を描いてきたように思います。そうした男の暴力性について書いたのは、武田泰淳くらいしか思い浮かばない。
亀山 他方、ドストエフスキーは、ライプニッツの予定調和論、ヴォルテールの『カンディード』に語らせると、「この世界においては、あらゆる物事がみな最善の状態である」というオプティミズムの世界観と闘い続けてきた。闘い続けてきたということは、彼の中に、それに対抗するニヒリズムがあったんです。もっとも、ドストエフスキーの場合は、このオプティミズムが、ニヒリズムと地下水脈で繋がっているわけです。たとえば、『悪霊』に登場するキリーロフがそうですし、スタヴローギンなどは、美と醜、善と悪の基準を失った完全な相対論者です。その点で、ドストエフスキーは分裂していたのだと思うわけです。すべての二元論を帳消しにしてしまうような、何か超越的に上から見下ろすような、世界が点景としか見えないような絶対的な高みに立つ一方で、ものすごく生々しいレベルで罪の感覚を持っている。
 人間は罪を犯さないことには、どんな喜びもどんな生命も経験できない ── それは、『死の家の記録』以降のドストエフスキーがつねに意識していたある究極の発見だったと思うんです。そういったものを経験し尽くした後でなければ、聖性は手に入らない。そういう世界観を持っていたという意味で、ドストエフスキーは徹底した快楽主義者でもあったわけですね。その中で生れてきた思想が、今言った親鸞的な、悪人なおもて往生す、によく似てくる。『冬の旅』にも、それが根本に据えられているので、ドストエフスキーのにおいがぷんぷんと漂ってくるわけです。
 ところが、現代の日本に生きる緒方は、ラスコーリニコフ、イワン・カラマーゾフなどと違い、宗教的な意味での救済や、聖性への道を全て断たれている。死刑制度のある・なしが、決定的な意味を帯びてきます。
辻原 はい。
(辻原登・亀山郁夫「対談「主人公」の運命と自由」「すばる」二〇一三年三月号 集英社)

 ああ馬鹿馬鹿しい。
 こんな最先端=亀山郁夫とこうやって平気でしゃべっていられる辻原登も最低ですね。中村文則や高村薫などと並んで、こんなひとが小説家なわけです。

 さて、辻原登というと、以前にこういう文章を書いていました。

 本はやはり本屋に行って買うが、最近少し合点がゆかないことがある。ひとつは「本屋大賞」なるもの。どういう基準かは存ぜぬが、本屋・書店員が本を選んで顕彰する。ふたつは、新聞などの出版広告に書店員が登場して「おすすめ!」と宣伝に一役買う。三つ、店内のあちこちで手製のポップスタンドがキノコのように立ててある。その文章はたいていひどい悪文。確信を持って言うが、書店員がスーパーの店員より本をたくさん読んでいるわけではない。いつ頃からこんな珍妙な光景が現出するようになったのか。
(辻原登「半歩遅れの読書術」 日本経済新聞 二〇〇六年五月七日)

「いつ頃からこんな珍妙な光景が現出するようになったのか」といえば、二〇〇一年の夏以降じゃないですかね。書店員としての私にはよくわかります。最低の辻原登ですが、右の文章にだけは、私は完全に同意します。とはいえ、「確信を持って言」いますが、最先端=亀山郁夫と対談するだけでなく、最先端=亀山郁夫の珍妙な発言にまったく異議をはさまずにいられるような「馬鹿」だか「卑怯者」だかの辻原登にそんなことをいう資格はないですね。辻原登が「スーパーの店員より本をたくさん読んでいるわけではない」ってことです。「スーパーの店員」に失礼でもあります。また、「たくさん読」めばいいってことでもないです。辻原登程度の読書なら、どんなに「たくさん読」んだって無駄なだけですね。もし辻原登がちゃんとした読書をしているのなら、最先端=亀山郁夫と対談などしないし、対談しても、きちんと最先端=亀山郁夫の妙ちきりんなところを指摘して、批判したはずです。それができない。ひどいものです。

 話がそれますが、これも引用しておきましょう。辻原登にはいう資格のなかったことを、資格のある保坂和志がしゃべっています。

―― 保坂さんは月にどれぐらい、本を読まれていますか?
保坂和志氏: 今はほとんど読んでいないですね。通して読むのなんて、月に2冊とかそんなものです。だいたい読みかけてやめちゃうので。
―― 本を買われるときは、普通に書店へ出向くのでしょうか?
保坂和志氏:今、ほとんどAmazonですよ。配送料もタダだしね。リアルな書店に行くと、くだらない本がいっぱい並んでいるでしょう。頭にきてね(笑)。何を買いに来たか忘れちゃうんですよ。なんでこんなものが置いてあるんだよって。今、書店員が「この本」ってお薦めするでしょう。書店員がそういうことをするようになったのは、ここ10年ちょっとのことです。それまではね、評論家、次に編集者、それで書店員が薦めた。だんだんハードルが低くなっているわけ。なぜ今、書店員のお薦めが中心になったかと言うと、少し前に「カリスマ書店員」がいたからなんですよ。
―― カリスマ書店員とはどういう方ですか?
保坂和志氏: ***にある***って書店の木下和郎さんという人ね。その人が薦めてポップを建
(原文ママ)てた『白い犬とワルツを』(新潮社)が、大ベストセラーになって、それで書店員という存在がクローズアップされた。その木下さんが2個目に薦めたのが、僕の『プレーンソング』だった。でも、ブレークしなかった(笑)。
―― その木下さんという人が、今は普通に見かける「書店員のお勧め」のポップの先駆けだったんですか?
保坂和志氏: あの人がいなかったら、今のようにはならなかった。本のよしあしがわかる人が、書店員にも編集者にも実際に何人かいたけど、今は、本を知らない書店員であっても薦めている。そんなのに全く価値はないんだよ。書店では、ばかみたいに売れる作家がいると、ほかの作家を追い出すんですよ。いい作品が出たとしてもね。それは新しい小説家が出るためには弊害になると思います。
(BOOKSCAN × 著者インタビュー  http://www.bookscan.co.jp/interview2/084/3/#body

 私は完全に同意します。このブログ「連絡船」は、そもそも最初にこの問題を扱っていたんでした。

 ── と、だいぶ話がそれました。

 本題に戻りますよ。

 聞き捨てならないのは、

 現在私は、北海道大学の望月哲男教授、東京大学の沼野充義教授らとともに、新たに日本ドストエフスキー学会を立ち上げるべく準備を行っているところです。
(「ロシアNOW」 二〇一三年二月十三日
http://roshianow.jp/arts/2013/02/13/41339.html

 ── ですね。「日本ドストエフスキー学会」とやらが、最先端=亀山郁夫によるいいかげんのでたらめだらけの翻訳による「人気」やら「ブーム」やらの上に発足することの意味を、沼野充義と望月哲男とは考えた方がいいと思いますが、このふたりのうち、沼野充義はもちろん何もかも承知の上です。確信犯=沼野充義はともあれ、望月哲男の方はまだここで引き返すことも可能なのじゃなかろうか、と私は思いますが、どうでしょう? やっぱりどうしようもないんでしょうか? 望月哲男もまた、私が「こんな大人にはなりたくない」という人間なんでしょうか?

 次 ── もういいかげん、うんざりしてきました。

これからロシア長編文学(ドストエフスキー、トルストイ)を読んでみようと思っている若い人へのアドバイスをいただけますか。
 ロシアの歴史をしっかり学び直してほしい。幸薄いロシア民衆の傍らで、若い知識人がいかに引き裂かれ、苦しんだかを知ってほしい。
(同)

 同じ質問に私が回答すると、こうなります。

これからロシア長編文学(ドストエフスキー、トルストイ)を読んでみようと思っている若い人へのアドバイスをいただけますか。
 絶対に最先端=亀山郁夫訳では読まないこと。また「ウンコはカレーではない」といいきる「勇気や信念」をもって読書をすること。

 いや、本当にうんざりしてきたので、後はテキトーに引用して切り上げることにします。

文学を中心に現在のロシアの状況をどう感じていますか。
 おそらく世界の文学の中で、今、日本で最も人気の高いのがロシア文学だと思います。10年前と比較して驚くべき事態です。ワシーリー・グロスマンの『人生と運命』の翻訳(斉藤鉱一訳)が出版され、日本翻訳文化賞を受賞しました。
 また、最近の日本で話題になった作家は、ボリス・アクーニン、リュドミラ・ウリツカヤ、ウラジーミル・ソローキンです。ウリツカヤの短編集『女が嘘をつくとき』とソローキンの『青脂』の翻訳は特に高い評価を受けました。
 他方、ロシアの美術、映画などは最近、あまり話題になりません。ロシア・アバンギャルド、ソッツアートに対する関心は、総じて低下しています。

日本におけるロシア文学者、ロシア語学習者の現状はどうなっていますか。
 日本におけるロシア文学研究のレベルは極めて高いと認識しています。しかし、若い研究者は、ほとんど大学での職を得ることができず、苦境を強いられています。
 大学で、ロシア語を学ぶ学生が少ないのが原因です。グローバル化の流れのなかで、受験生の関心がますます英語に向かっており、英語以外の言語は人気がありません。
 ところが、07年以降、徐々に人気回復が進んでいることも事実であり、転機の兆候がうかがわれます。ロシア文学ブームの到来と軌を一にしているといってよいと思います。
 いかにしてロシア語熱を盛り上げるかはほとんど政治、外交レベルに託されています。日露間の領土問題が、互いのぎりぎりの歩み寄りのなかで解決され、両国間で平和条約が締結されるならば、日本人のロシア語熱、投資熱は飛躍的に拡大することでしょう。
(同)

 最先端=亀山郁夫みたいなのが牽引しているような日本のロシア文学界のこの腐りようはどうしようもありません。

(二〇一三年六月三日・二〇一四年四月いくらか加筆)

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