最先端=亀山郁夫の「使命」とやら (この章のほとんどは昨二〇一三年六月までに書き上がっていて、放ったまま、
ほぼ一年が過ぎ、このひと月くらいでいくらかの加筆をして、切り上げました) 3
まず、「『カラマーゾフの兄弟』の翻訳をすることは、ロシア文学を志したものにとっての究極の夢といってよいでしょう。自分なりに全力を尽くしてその義務を果たしました」ですが、最先端=亀山郁夫はここで自分が「究極の夢」をかなえた当人であることの宣言でもしているのでしょう。ああ、日本のロシア文学界において、ついに王冠を戴いた私! ということでしょうか? それなのに、彼はなぜ自分が「その義務を果たしました」などというんでしょうか? 「究極の夢」をなぜ「義務」とつなげるのか? 興味深いところです。ともあれ、その翻訳の実質はお粗末極まりなく、いいかげんのでたらめだらけで、とても『カラマーゾフの兄弟』だとは認められないほどひどい代物なわけです。それなのにこの翻訳は出版され、大いに話題になりました。これほどひどいものが現代日本に堂々とまかり通ることが ── 最先端=亀山郁夫お得意のことばにすると ── 「黙過」ということなのでしょうか?
先の、最先端=亀山郁夫の翻訳に対して「厳しい批判」をした「一部」のひとたちというのは、最先端=亀山郁夫の罪を「黙過」しなかったひとたちなんじゃないですかね? そうして、世のなかの大部分(「一部」以外)のひとたちは最先端=亀山郁夫の罪を「黙過」しているということじゃないでしょうか? ここで、いまの「黙過」を頭に置きながら、最先端=亀山郁夫がドストエフスキー作品における「罪」についてどういうことをいっていたか、おさらいしておきましょう。
アリョーシャの「あなたじゃない」について、最先端=亀山郁夫ほどとんちんかんな読み取りをしたひともかつてないだろうと思いますが、べつのところで彼はこんなふうに「罪」について書いていたんでした。
ゾシマ長老がなぜ、こともあろうに「人間は大きな罪を経て、はじめてある世界に到達できる」なんて考えていたといい出せるのか、私は最先端=亀山郁夫の思考回路を疑いますが、実はこの点にこそ、彼の本質が隠されているのじゃないでしょうか? ああ、悪いことをしたい、露見すれば法的に裁かれるような犯罪を犯してみたい、それこそが「ある世界に到達」できる方法であるのだから。というより、「ある世界に到達」できるというのは結局自動的にそうなるわけだから、自分としてはまず何といっても犯罪を犯してみたい。犯してみたくてしようがない。楽しいぞ、楽しいぞ、楽しいぞ。でも、「とりわけ競争のはげしい現代社会では、人は、少しでも罪を犯したら終わりであり、命とりとなり、脱落を迫られる」からなあ。できないなあ。私が最先端=亀山郁夫を「小さい・せこい・貧しい・薄っぺらい」と評する所以です。 |