連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



最先端=亀山郁夫の「使命」とやら

(この章のほとんどは昨二〇一三年六月までに書き上がっていて、放ったまま、
ほぼ一年が過ぎ、このひと月くらいでいくらかの加筆をして、切り上げました)

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 次は今年(二〇一三年)二月のある記事から。これには適宜突っ込みを入れながらの引用をします。

 亀山郁夫氏訳の「カラマーゾフの兄弟」が古典としては珍しくベストセラーになり、年初からは同名のテレビドラマが放映中。日本におけるカラマーゾフおよびドストエフスキー・ブームはロシアからみても興味深いものだ。「ロシア」と同意語とさえ比せられる「ドストエフスキー」の影響は文学だけにとどまらない。さまざまな国民が、ドストエフスキー文学の登場人物の中に自分の心理、情感、魂を見いだす。ドストエフスキーの小説群は人間性の研究なのだ。
「カラマーゾフの兄弟」を翻訳し、最新のドストエフスキー・ブームの立役者となった亀山郁夫・東京外国語大学学長に聞いた。

日本でのカラマーゾフ(ドストエフスキー)ブームをどう感じていますか。
 驚くべきことですし、素晴らしいことです。現代の日本を代表する作家の多くが、確実にドストエフスキーを意識して小説を書いています。村上春樹、辻原登、高村薫、平野啓一郎、鹿島田真紀、中村文則といった作家たちです。
 ドストエフスキーの文学が提出する問題、罪とは何か、罰とは何か、あるいは、マゾヒズムの本質、自己犠牲、黙過といった問題が現代の日本人にとって痛切な響きを帯びつつあるように思えます。3・11以降、日本人の心のなかに広がる一種の終末観もドストエフスキー文学への関心の広がりに拍車をかけているのかもしれません。
(「ロシアNOW」 二〇一三年二月十三日
http://roshianow.jp/arts/2013/02/13/41339.html

「現代の日本を代表する作家」としての「村上春樹、辻原登、高村薫、平野啓一郎、鹿島田真紀、中村文則」のうち、すでに私は村上春樹への失望を書きましたし、最先端=亀山郁夫と対談まで行なって、この愚かな相手の実質をまったく見抜くことのできなかった高村薫と中村文則のふたりについて批判もしました。

 次。

「カラマーゾフの兄弟」を翻訳してどういう反応がありましたか。
 翻訳に対して、一部から厳しい批判を受けたのは事実です。修正すべき箇所をすべて修正しました。
(同)

 ほほう。では、これまでのすべての修正箇所を公開してくださいよ。その際、なぜ自ら「修正すべき」だと判断したのかも明らかにし、さらに、そもそもなぜ自分が間違ったのか、その理由をも詳述するのを忘れないように。
 それに「一部から」って何ですか? それもはっきりと答えてください。「一部」の偏執的な輩たち、ってことですか? 「一部」という表現をすることで、あなたは「大多数」に目配せしていますよね?

 それに、この記事の記者にもいいたいんですが、あなたはこんなに簡単にこの部分を終わらせていいとでも思っているの? 一応「一部」の「厳しい批判」については触れておきましたよ、ということですか? いま私があなたに訊いているのは、この記事では、馬鹿が馬鹿にインタビューしているのか、卑怯者が馬鹿にインタビューしているのか、ということです。

日本ではなぜロシア文学が根強い人気を保ち続けていますか。
 日本の文化にないものが、ロシアの文化にあり、ロシアの文化にないものが日本文化にある。限りない繊細さを志向する日本文化と、激情的な精神のダイナミズムを体現するロシア文化です。
 ドストエフスキー文学の読者は、それらの二つの要素が融合した世界を経験できるのです。ロシア文学の魅力は「ケノーシス」、自己犠牲のテーマです。これこそが、ロシア精神の根源に息づいている最高の価値だと信じています。全体的な力の憧れは、個人の生のはかなさの感覚を裏返したものといえるでしょう。
 チュッチェフの詩が思い浮かびます。「ロシアは知恵ではわからない」。言い換えれば、ロシア文学は、精神的ボルテージとインスピレーションの高揚の中でのみ理解できるということだと思います。辻原、村上以外に三島由紀夫、大江健三郎も『カラマーゾフの兄弟』を高いインスピレーションで経験してきた作家といえるでしょう。正に日本文学のエッセンスを体現する作家たちです。

翻訳で難しかったこと、苦労したことは何ですか。
 いかに現代人向けの読み物とするかということです。これだけ長い小説に目を向けさせるためには、スピード感あふれる翻訳が大切だと考えました。
 私の翻訳者としてのモットーは、映画を見るような感覚でドストエフスキーを読むことができる翻訳をするということです。最後まで読み通してもらうための工夫をすべて試みました。

(同)

 最先端=亀山郁夫さん、いったい、あなたの翻訳のどこに「スピード感」があるんですか? いったい次の翻訳文のどちらに「スピード感」がありますか? この箇所では文章上の「スピード感」のみならず、その内容上の「スピード感」でもあなたのは見当違いに劣っていますが?

「ぼくが知っているのはひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」
「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 亀山郁夫訳 光文社文庫)


「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 さらに、「私の翻訳者としてのモットーは、映画を見るような感覚でドストエフスキーを読むことができる翻訳をするということです」ですが、そんなことをしてはいけないんですよ。それでいいのは、ドストエフスキーがそういう書きかたをしている場合だけです。翻訳者は読者に合わせて翻訳するのでなく、あくまで原作に合わせて翻訳しなければなりません。ついでに私は読者にもいっておきますが、読者も自分向けの翻訳などを求めてはなりません。読者が翻訳に合わせなければなりません。

(つづく)

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