連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



最先端=亀山郁夫の「使命」とやら

(この章のほとんどは昨二〇一三年六月までに書き上がっていて、放ったまま、
ほぼ一年が過ぎ、このひと月くらいでいくらかの加筆をして、切り上げました)

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 今年(二〇一三年)四月の産経新聞から、文章の全体を引用。

亀山郁夫(名古屋外国語大学長) 苦行の先の歓びのために

 私には使命がある、と、いつからか思いこむようになった。70歳までにドストエフスキーの5大長編をすべて翻訳する。残された時間は、6年。残された作品は、『白痴』と『未成年』。400字詰め原稿用紙に換算して、約5千枚。単純計算で、1日3枚。体調さえ崩さなければ、けっして不可能な分量ではないと思う。
 翻訳という作業は、九割九分が苦行で、歓(よろこび)び
(原文ママ)は、一分にも満たない。老い先長くもないのに、なぜ、こんな割にあわない苦行を引き受けるのか。そんな不条理感につきまとわれることもある。しかし一分にも満たない歓びが、どうやら何にも代えがたい意味を持っていたらしい。月並みな比喩だが、アルピニストが山頂を目指すように、マラソン選手がゴールを目指すように、私もまたひたすら達成感を求めて翻訳を続けてきた。
 広々とした白い余白のある会話の頁(ぺーじ)がうれしかった。頭の中がにわかにクリアになり、マラソン選手が経験するランニングハイの訪れを受けることもしばしばあった。
 逆に苦手なのは、登場人物の外見描写、そして何より、果てしなくつづく地の文。途中、長い地の文を放りだし、次の会話の部分を先に訳すといったこともまれではなかった。
 それにしても、人生というのは不思議である。50代半ばまで、翻訳など自分にはまるで無縁の仕事だと思っていた。「君子、危うきに近寄らず」という表題のエッセーまで書いたこともあった。「危うき」とは、むろん、翻訳のことを言っている。
 翻訳とは、ある意味で他人の話をどこまでも冷静に聴きとる作業を意味するので、翻訳者には心理カウンセラーにも似た我慢強さが要求される。また、ある一定量の原文を瞬時に頭にたたきこめる記憶力も欠かせない。ところが、私は、人並みの忍耐力どころか、ロシア人から「鶏の記憶」と悪口をたたかれるほど記憶力も劣っているので、翻訳者としてだれよりも不向きだと認識していた。それが、あるとき一変した。それまで約束していた何冊かの本をすべてペンディングとしたうえで、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳に全力で取りかかったのだ。文字通り、「君子、豹変(ひょうへん)す」のたとえを実行したわけである。
 翻訳がはじまると同時に、生活習慣も大きく変化した。午後7時過ぎに帰宅し、軽い夕食をとってから9時過ぎに横になる(基本的に、睡魔とはいっさい戦わない)。そして12時か、遅くとも1時には起きだし、朝の5時半まで翻訳に集中する。明け方また2時間ほど眠り、8時過ぎに起きて、そのまま出勤する。こんな不規則な日課をほぼ2年半くり返した。印象深いのは、深夜、目が覚めてからの約30分。この気分がさらに1時間も続いたら生きてはいけない、と思えるほど重い闇が襲ってくる。しかし、やがてそれも、霧が晴れるように溶けだし、そのたびごとに、何かしら生命そのものの甦(よみがえ)りに立ち会うような不思議な瞬間を味わうことができた。ことによると、この歓びを経験するために、毎夜、翻訳という苦行に耐えていたのかもしれない、と今にして思う。
(産経ニュース 二〇一三年四月七日 http://sankei.jp.msn.com/life/news/130407/bks13040708390011-n1.htm

 ここでいわれている「ドストエフスキーの5大長編」とは、「『白痴』と『未成年』」とを除くと、すでに最先端=亀山郁夫の訳した順に記せば『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』、『悪霊』ですね。

 さてと、

 それにしても、人生というのは不思議である。50代半ばまで、翻訳など自分にはまるで無縁の仕事だと思っていた。「君子、危うきに近寄らず」という表題のエッセーまで書いたこともあった。「危うき」とは、むろん、翻訳のことを言っている。
 翻訳とは、ある意味で他人の話をどこまでも冷静に聴きとる作業を意味するので、翻訳者には心理カウンセラーにも似た我慢強さが要求される。また、ある一定量の原文を瞬時に頭にたたきこめる記憶力も欠かせない。ところが、私は、人並みの忍耐力どころか、ロシア人から「鶏の記憶」と悪口をたたかれるほど記憶力も劣っているので、翻訳者としてだれよりも不向きだと認識していた。それが、あるとき一変した。それまで約束していた何冊かの本をすべてペンディングとしたうえで、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳に全力で取りかかったのだ。文字通り、「君子、豹変(ひょうへん)す」のたとえを実行したわけである。
(同)

 右の「それが、あるとき一変した」というのは、「あるとき」突然彼の忍耐力と記憶力が向上したというのではないんですよね。「人並みの忍耐力どころか、ロシア人から「鶏の記憶」と悪口をたたかれるほど記憶力も劣っている」にもかかわらず、「自分が翻訳者としてだれよりも不向きだと認識する」のをやめちゃった。で、「『カラマーゾフの兄弟』の翻訳に全力で取りかかっ」ちゃった。でも、忍耐力も記憶力も劣っているままだから、『カラマーゾフの兄弟』全体の文脈、登場人物の作品全体における関係、時系列なんかもめちゃくちゃな読み取りのままで仕事しちゃった。結局、作品全体を見渡すことのできないまま、目の前にあるロシア語原文のひとつひとつをやっつけのいいかげんで ── 直近の文脈すらもわからないまま ── 日本語に置き換えただけで、つまり、それらひとつひとつに込められた作品全体との関係のわかりもしないまま「新訳でござい」とやっちゃった。まあ、本人はそれでもおそらくへとへとになったんでしょう。その間に勝手に自慰的「ランニングハイの訪れ」なんかも経験してたんですね。

 いや、それよりも「翻訳とは、ある意味で他人の話をどこまでも冷静に聴きとる作業を意味するので、翻訳者には心理カウンセラーにも似た我慢強さが要求される」と、この最先端が口にできるということに私は驚きます。誰の話も早とちりし、自分自身の妄想に置き換えてしまい、勝手にその他人が自分に憑依したなんて思い込んでしまう、この最先端=亀山郁夫がこんなことをいうんですね。

 私には使命がある、と、いつからか思いこむようになった。70歳までにドストエフスキーの5大長編をすべて翻訳する。残された時間は、6年。残された作品は、『白痴』と『未成年』。400字詰め原稿用紙に換算して、約5千枚。単純計算で、1日3枚。体調さえ崩さなければ、けっして不可能な分量ではないと思う。
(同)

 さて、私は最先端=亀山郁夫にいいますが、あなたの「使命」は全然べつのところにあります。あなたの「使命」は、あなたの無能をあなたが自覚すること、そうしてそれにもとづいての謝罪、さらには、これまでのドストエフスキー作品翻訳、また、それについての全著作の絶版、回収です。他に何があるでしょうか?

(つづく)

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