連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



卑怯者=沼野充義の『これからどうする』

(この章は昨二〇一三年十一月十八日に書き上げていたものです)

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 そうして、沼野充義はこう結びます。ただの「作文」です。全部他人事です。

 しかし、考えてみると、「文学の危機」をめぐるこの種の言説はいまに始まったことではない。文学とは常に「〜のおかげで」盛んになるものではなく、「〜にもかかわらず」生き延びていくジャンルではないだろうか。優れた文学は歴史的に見れば、「反動」の陣営に与(くみ)するよりは権力に抵抗する側に立ち、人間の自由のために貢献してきたし、若者の「文学離れ」を嘆く識者の声が高まる一方で、実際に人々が読むフィクションの量は決して減っていない。文学の形は今後変わっていくに違いないが、人間はいまの形の生物として存在し続ける限り、自分の観察や、感覚や、欲望や、志向を言語によって表現し、伝達することは止めないだろう。その際、「詩」と「物語」という二つのジャンルは始原的であると同時に、最高度の世界認識と自己表現の形態なのである。
 大学の文学部という、いつ消滅するかも分からない組織に身を置く人間としては、小手先の制度改革で「集客」の努力をするよりは、狭い縄張り意識を捨てて、若者たちにもっと根本的に文学そのものの力を感受してもらえるような場を創出することが必要なのではないかと思う。いささか空想的な提案だとは思いつつ、あえて言うが、シェイクスピアやドストエフスキーやフォークナーや大江健三郎を読むことが、宇宙の起源を探ることと同じくらい面白く、原子炉の設計よりも遥かに大事であると思えるような充実した文学体験が可能な場を、社会の中にきちんと作っていかなければならない。それは国文学とか、英文学といった枠を越えた、未来の世界文学の場になるべきだろう。政治家の中に若いころそういった体験をした人が一人でも増えれば、世の中は少しだけでもよくなる。私にいまできるのは、未来の世界文学への道案内役の一人として、その「少しだけ」が実現することに ── これまた、ほんの少しだけ ── 貢献することでしかない。
(同)

 この文章での「〜にもかかわらず」というのは、トーマス・マンの「〜にもかかわらず」=「trozdem」からの引用でしょうか? 「優れた文学は歴史的に見れば、「反動」の陣営に与するよりは権力に抵抗する側に立ち」は、村上春樹の「壁と卵」からの引用でしょうか? まあ、そんなことはどうでもいいです。

 優れた文学は歴史的に見れば、「反動」の陣営に与するよりは権力に抵抗する側に立ち、人間の自由のために貢献してきたし、若者の「文学離れ」を嘆く識者の声が高まる一方で、実際に人々が読むフィクションの量は決して減っていない。
(同)

 ── と沼野充義は書きますが、「人間の自由のために貢献してきた」のは「優れた文学」ですよね。この「優れた文学」と現在「実際に人々が読むフィクション」とは等号で結ぶわけにはいきませんよね。それに、さっきは「残された可能性は、面白く消費される娯楽的な読み物だけである」と書いていたのじゃないですか? どういうことでしょう? こういうことですか? 「人間の自由のために貢献してきた」「優れた文学」としての『カラマーゾフの兄弟』を「若者たちにもっと根本的に文学そのものの力を感受してもらえるよう」読まれるようにするためには、「面白く消費される娯楽的な読み物」として、いいかげんのでたらめだらけの『カラマーゾフの兄弟』が翻訳される必要がある。そうなんですか?  そんな翻訳が「もっと根本的に文学そのものの力を感受してもらえるような場を創出」することになるんですか? 違いますよね? なぜって、沼野充義自身がこの後で「大江健三郎」の名前を挙げているからです。日本人がもし「大江健三郎」を読むなら、翻訳に頼らず、日本語で読みます。「大江健三郎」を「若者たちにもっと根本的に文学そのものの力を感受してもらえるよう」読まれるようにするということを、もし本当に沼野充義が考えているなら、『カラマーゾフの兄弟』だって、「面白く消費される娯楽的な読み物」として、いいかげんのでたらめだらけに翻訳されては駄目ですよね。「大江健三郎」を「面白く消費される娯楽的な読み物」として読むことができるとは思えませんから。

 それじゃ、なぜ沼野充義は最先端=亀山郁夫の仕事をいいかげんのでたらめだらけのものと知りつつ称揚しつづけているのか? 沼野充義=「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと(のひとり)」だからです。

 シェイクスピアやドストエフスキーやフォークナーや大江健三郎を読むことが、宇宙の起源を探ることと同じくらい面白く、原子炉の設計よりも遥かに大事であると思えるような充実した文学体験が可能な場を、社会の中にきちんと作っていかなければならない。
(同)

 ここでも沼野充義は「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」のことを読者に意識させます。そうする沼野充義がまるで「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと(のひとり)」ではないかのようです。まるで違う。きれいごとをいって、自分のアリバイをつくっているだけです。
 沼野充義が、いいかげんのでたらめだらけの最先端=亀山郁夫の仕事を称揚するのは、「原子力ムラ」のいわゆる「御用学者たち」がずっと「原発は安全です」と嘘をつきつづけてきた・いまもつきつづけているのとまるっきり同じです。「最先端=亀山郁夫のこの誤訳(と、そこに至る重大な誤読)は安全圏内です」ですか? 「直ちに人体に影響はありません」ですか? よくもまあ、これほど厚顔無恥でいられるものだ。

 沼野充義は自分がいま「「反動」の陣営に与」していることを、なぜ認められないんでしょう? というか、本当は認めているんですが、認めていることを知らなかったことにするわけです。「あえて言うが、シェイクスピアやドストエフスキーやフォークナーや大江健三郎を読むことが、宇宙の起源を探ることと同じくらい面白く、原子炉の設計よりも遥かに大事であると思えるような充実した文学体験が可能な場を、社会の中にきちんと作っていかなければならない」と書く人物が、いいかげんのでたらめだらけの最先端=亀山郁夫訳・ドストエフスキーを宣伝するという、この嘘つき・卑怯・卑劣・不誠実・腐敗。これこそが必ずいつか最悪の「「あれほど」のこと」を引き起こすんですよ。そうして、それを「「あれほど」のこと」と思い返せる人間が、そのときまだひとりでも生存しているかどうかも疑わしい、と私は思いますけれどね。

 というように、沼野充義というひとには、前章で私の書いた「信念や勇気」といったものがまったく欠如しているわけです。

 復興支援のお金はきちんと使われず、地球の環境と未来の幸福のことを考えて原発を廃止しようという決断ものらりくらりと回避されつつあるうえに、「あれほど」の大事故を起こしながらこれまで原発を推進してきた頭のいい人びとのうち、誰一人として頭を丸めることも、自分の全財産をなげうって被災者のために余生を捧げようと決心することもなかった。
(同)

 沼野充義こそ、最先端=亀山郁夫の仕事に対する批判を「のらりくらりと回避」して、「「あれほど」の」大誤訳を称揚しつつ、「頭を丸めることも、自分の全財産をなげうって被災者のために余生を捧げようと決心することも」しない、嘘つき・卑怯・卑劣・不誠実・腐敗の張本人なんですよ。
 沼野充義は「頭を丸め」、「自分の全財産をなげうって」、いいかげんのでたらめだらけの最先端=亀山郁夫の仕事による被害者(ドストエフスキーを含む)のために「余生を捧げようと決心」すべきです。つまり、それが、もし沼野充義が本当に「原発」に反対しているのなら、「原発」を無くすためにやるべきことです。最先端=亀山郁夫問題をうやむやにする「文学」研究者に「反原発」を口にする資格はありません。「反原発」というのは、そういうことです。「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」がそうやっていられた環境のありかた、そういう環境を可能にする社会の構造 ── これををおかしいということこそが「反原発」です。直接に原発に反対することだけを「反原発」というのではありません。沼野充義のように一見「反原発」であるかのようにふるまい、直接自分に責任のある「ロシア文学」周辺の事情を肯定するのは矛盾なんです。「ロシア文学」周辺の事情と「これまで原発を推進してきた頭のいい人びと」がそうやっていられた環境のありかた、そういう環境を可能にする社会の構造とは等号で結ぶことができますから。「文学」に携わる者がこういうことをやってはいけません。というか、こういうことをやっている者が「文学」なんかに携わることがおかしいんです。

(二〇一三年十一月二十八日)

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