連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!

(この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)

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 間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける、人間のその能力にも私は驚いています。
(スーザン・ソンタグから大江健三郎への書簡 木幡和枝訳
大江健三郎『暴力に逆らって書く』所収 朝日文庫)

 このことは、専門家はわかっているはずです。
 いわないだけなのです。
(小出裕章『騙されたあなたにも責任がある』 幻冬舎)

「傍観者」という性質は、学術一般の性質に見られるのです。「傍観者」が「客観性」のフリをしていると言ってもよいかもしれません。
(安富歩『原発危機と「東大話法」』 明石書店)

 章題の「さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!」というのは、沼野充義編著による『世界は文学でできている』 ── 「対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義」 ── の帯にある文句です。その「〈世界文学〉連続講義」で沼野充義が対話したのが、リービ英雄、平野啓一郎、ロバート・キャンベル、飯野友幸につづいて、最先端=亀山郁夫です。ちなみに、現在の日本ロシア文学会(http://yaar.jpn.org/)の会長がこの沼野充義です。

 そうして、私は「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける沼野充義のその能力」についてしゃべるわけです。

 あらかじめ断わっておきますが、最先端=亀山郁夫には「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける」能力などありません。自分が間違っていると知る能力すらないからです。しかし、沼野充義は違います。沼野充義は最先端=亀山郁夫の仕事がどれだけひどいかを知りながら、それを隠蔽するばかりでなく、称揚までしてまわっているんです。

 最先端=亀山郁夫の仕事について沼野充義の知っていることは次の通りです。

 最先端=亀山郁夫の仕事には膨大な誤訳がある。最先端=亀山郁夫の仕事になぜそれほどまでに誤訳があるのか? 最先端=亀山郁夫にロシア語がわからないからであり、日本語もわからないからであり、そもそも読書ということができない ── 私の言葉でいえば、亀山郁夫的読書しかできない ── からである。つまり、ロシア語原典であれ、日本語先行訳であれ、最先端=亀山郁夫にはドストエフスキーの作品を読み解く力がない=とんちんかんにしか読み取れないということだ。そうして、そのような最先端=亀山郁夫の仕事はドストエフスキー自身とその作品とに対する冒?であり、日本人読者に対する侮蔑である。「文学」に対する侮蔑であり、「人間」に対する侮蔑である。

 沼野充義は以上を知っています

 しかし、沼野充義はそれを知らないでいることにしたいと思っており、なんとか「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」で乗り切ろうとしているんです。こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。

 さて、沼野充義と最先端=亀山郁夫との対談につけられたタイトルは「現代日本に甦るドストエフスキー ── 神なき時代の文学者たちへ」です。

沼野 タイトルに「現代日本」を入れていますが、考えてみれば「現代日本」はいわずもがなの話であって、ドストエフスキーに限らず、どんな外国文学のことをわれわれが論ずるにしても、それは結局現代の日本に生きる日本人の立場からのものであるのは、当たり前のことでしょう。きょうの話も、そういったことを意識しようとしまいと、ドストエフスキーについていま日本で語る以上は、われわれはこの作家を現代日本の文脈の中で理解せざるをえない。そこから離れた抽象的な「文学研究的」アプローチなどというものは、いささか怪しげなものです。
(沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)

 沼野充義は何をいっているのか? 沼野充義は何を警戒しているのか? 何を排除しようとしているのか? 沼野充義が「いささか怪しげなもの」と呼ぶ「現代日本の文脈から離れた抽象的な「文学研究」アプローチなどというもの」とは何なのか? これを思い出しますね。

 結局、ドストエフスキーの研究は、私の研究は今最先端だと自分なりに自負しているんですね、少なくとも日本においては。問題は、なぜそう自負できるか、という点にあります。私は、ロシア・アヴァンギャルド研究の後に八年間ほどスターリン文化研究に励みましたが、そのスターリン文化研究の構造をそのままドストエフスキー研究に持ち込んでみたわけです。そこでどういう発見があったかというと、例えば一〇代の後半、終わりから、大学時代から営々とドストエフスキー研究を積み重ねた人たちは、五〇代の後半になったら新鮮な想像力も何もすべて失っているんですね。ほとんどドストエフスキーのテクストになまで感動するということはない。テクストの細部から何か新しい真実を見出していくということがほとんどできなくなっていて、目新しい視点、発想はほとんどゼロなんです。
(亀山郁夫の発言 学術研究推進部会「議事録」)

 沼野充義は何を思い浮かべながら、先の発言をしたか、具体的にいってみたらいいと思います。

沼野 ロシア文学にはトルストイやドストエフスキー以外にもさまざまな文豪がいます。しかし、現代的な重要性という点では、ドストエフスキーにとどめを刺す。いまの日本社会にもドストエフスキー的なものが、いたるところに潜んでいるという感じがします。それを私なりに整理して、三つの次元で考えてみたいと思います。
 一つ目は、なんと言っても、ドストエフスキーがいまだに広く読まれていることです。亀山さんが『カラマーゾフの兄弟』の新訳を出したのは二〇〇六年から二〇〇七年にかけてのことですが、皆さんもよくご存知のとおり、この翻訳は古典的な外国文学作品の翻訳としては異例の、五巻を合わせてですが百万部を超えるベストセラーになり、ドストエフスキーは一種の社会的ブームになりました。
 この新訳のおかげでドストエフスキーだけでなく、このところちょっと敬遠されがちだったロシア文学全般に対する関心が高まり、その後、他のロシア文学作品の新訳も次々に出た。ですから亀山さんの翻訳は、ドストエフスキーを筆頭とするロシア文学の魅力再発見の機運を作り出したわけで、その功績は測り知れないほど大きかった。それから、私は別に光文社の宣伝をするように頼まれているわけではありませんけれども、こういう新訳を世に送りだした光文社の「古典新訳文庫」という企画が、たいへん重要な役割を日本の読書界のために果たしていることは間違いありません。
(沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)

 ここで、沼野充義が「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を駆使する理由が明確に語られています。沼野充義には「五巻を合わせてですが百万部を超えるベストセラー」なんてものがうれしいんです。「一種の社会的ブーム」もうれしい。「この新訳のおかげで」「ロシア文学全般に対する関心が高まり」「他のロシア文学作品の新訳も次々に出た」ということがうれしい。そうして、「こういう新訳を世に送りだした光文社の「古典新訳文庫」という企画が、たいへん重要な役割を日本の読書界のために果たしている」というわけです。「日本の読書界」を「日本ロシア文学会」に読み換えてみるのも一興じゃないでしょうか。ところが、その新訳『カラマーゾフの兄弟』がとんでもないいいかげんのでたらめ訳なんですね。沼野充義はそのことをもちろんはっきり承知しています。しかし、もし沼野充義が自分のはっきり承知していることをそのまま口にしてしまうと、この新訳のおかげで作り出されたらしい「ドストエフスキーを筆頭とするロシア文学の魅力再発見の機運」そのものが、にわかに悪臭を放ち始めることになるんです。「古典新訳文庫」についても同断。そういうわけで、沼野充義は新訳『カラマーゾフの兄弟』について自分の知っていることを知らなかったことにせざるをえないんです。自分の「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を駆使せざるをえない。こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。

(つづく)

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