連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?

── 再び「連絡船」の一読者へのメール
(この章は一昨年、二〇一二年八月十四日に書き上げていたものです)


   1

 あなたが「民主主義者であることと知識人であること」の複雑さと責任の大きさとを過小評価しているはずはありません。では文化の問題、具体的に文学の問題に関しても民主主義者であろうと思われますか。思っていらっしゃらないのではと推察します。私たちの敵 ── 真剣な文学の敵 ── のなかには、搾取的な消費文化を忌み嫌う私たちのような人間を「エリート主義者」と決めつけ、「民主主義者」の呼称は自分たちのものだと主張している人びとがいます。そこで私たちのなかで、政治的システムとしての民主主義への賛意と、文化のシステムへの疑念とは、どうしたら和解させられるのでしょう。手ごわい問題がまだまだあります ……
(スーザン・ソンタグから大江健三郎への書簡 木幡和枝訳
大江健三郎『暴力に逆らって書く』所収 朝日文庫)

 だいぶ以前に「「連絡船」の一読者へのメール」という文章を書きました。再び同じ読者へのメール ── 実際には送付しない ── を公開します。ここで書くことは、この「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか」でも、おそらく繰り返し ── 徒労だろうと思いますが ── 書かなくてはならなくなるはずのことであり、また、すでに書きあがっていたにもかかわらず書き直さなくてはならなくなった次の原稿(新訳『トーニオ・クレーガー』についての)への橋渡しになるはずでもあり、こういう形で公開します。

 ***さま

 実のところ、私がここで書くことは、前回の「「連絡船」の一読者へのメール」の繰り返しでしかありません。つまり、前回の文章 ── のみならず、この亀山郁夫批判の全体も ── をどうやらあなたがまったく理解なさらなかったようなので、もう少しわかりやすく書き直してみようというのです。私はべつにあなたに怒りを覚えたり、憎んだりしているわけではありません。あなたの書かれた文章を読んで、ちょっと驚きはしましたが、それだけです。なるほど、あなたがあのように書かれたのも無理はありません。どうか、私がこういうふうに書くことを怒らないでください。しかし、この文章はあなたに手厳しいものになるでしょう。もしかすると、あなたはただ憤激するだけになるかもしれません。でも、しかたがないのです。

 私は、私の亀山郁夫批判が、あるひとたち ── 結局のところ、あなたもそのひとりなのです ── の目にどんなふうに見えるかということをずっと承知しています。私の批判が亀山郁夫に対して「暴力的」であり、彼の「人格を踏みにじる行為」であり、実は批判などではなく「誹謗中傷」に過ぎない ── そのように非常に醜悪に見えるのだろうと思います。そんなふうにしか見えないひとたちの大勢いることを私は理解しています。その大勢のなかに当の亀山郁夫も混じっていることでしょう。たしかに私は亀山郁夫の名前を「最先端」という冠づきで書きますし、「馬鹿」だの「低能」(これまで私はずっと「低脳」と書いてきましたが、すべて訂正します)だのと呼んでいます。そうして、亀山郁夫の、『カラマーゾフの兄弟』と直接に関係がない(としかそのひとたちには思えない)発言などにまで罵詈雑言を吐くわけです。さらに、「馬鹿=低能」ゆえに亀山郁夫が私の書くことを理解することは絶対にない、というようなことを書きもしています。

 私のやっていることについて、私個人が亀山郁夫個人に対決を挑んでいるかのように考えるひとたちがいるのを、私は承知しています。私が私個人の正しさを主張し、亀山郁夫を打ち倒そうとしており、それがなかなかかなわないので、いよいよ誹謗中傷めいたことを執拗につづけている、云々。

 私の批判が亀山郁夫に対して「暴力的」であり、「人格を踏みにじる行為」であり、実は批判などではなく「誹謗中傷」に過ぎない、と考えるひとたちは、私の問題にするこの「亀山郁夫現象」の意味、またその大きさや危険性などがまったくわかっていないひとたちなのです。また、原作の『カラマーゾフの兄弟』の素晴らしさがわかっていない ── きちんと読めていない ── ひとたち、「文学」がこの世界でどんなに重要な意味を持っているかがわかっていないひとたち、読書する力のないひとたち、単に読書するというだけでも大きな志や信念が必要とされることがわかっていないひとたち、何かを表現するということがどういうことなのかもわからず、わかる力をも持っていないひとたち、自分で考えるということのできないひとたちに他なりません。このひとたちは、自分で考えることができないから、他人の考えに頼るけれども、その他人の考えすら理解することができないために右往左往します。このひとたちが安心できるのは、自分たちのレヴェルに合わせてくれる他人だけです。自分たちを針の山に連れ出すような他人に向き合うことができません。このひとたちの読書はこうです。「私はこの作品をよいと思った。でも、この作品をよいと思わないひともいるだろう。そういうひとたちの感想もアリなのだ。なぜなら、作品をよいと思うのは、あくまで私の主観だからだ。ひとの数だけ主観はある。だから、私は他のひとたちの読書を否定しようとは思わないし、そんなひとたちを説得しようとも思わない」。そうして、誰かに自分の大事に思うその作品をめちゃめちゃにけなされ、お前のような読書をしていては駄目だ、と批判されたときに、そのひとたちがどうするかというと、「私は私、あなたはあなた。私がよいと思っていることに、なぜあなたが踏み込んで来るのか? そんなことはよしてほしい」と答えます。なぜそのひとたちは批判 ── もっとも、それは正しい批判に限ります、的外れな批判には答えようもありません ── そのものを拒否するだけで終わりにして、自分が大事に思ったその作品を批判に答えることで守ってやらないんでしょう? なぜかというと、そのひとたちがその作品をよいと思ったとしても、そのよいと思ったことに自信がないからです。あるいは、そのひとたちがその作品をよいと思ったとしても、実は単に「好き」だというに過ぎないからです。そのひとたちは、作品それ自体に「よい・悪い」があるのだとは思っていません。「よい・悪い」はあくまで自分の価値観・主観であるとしか思いません。そのひとたちは、作品に「よい・悪い」があるのではなく、あくまで、そのひとたちとそのひとたちに対立するひとがいるという、そんな人間関係 ── あなたはご自身の個人的体験から、一方的にご自身が執拗に非難されつづけることの悲惨を私にいい、亀山郁夫の心情を理解せよという ── しかないんです。すべてはそういうレヴェルの人間関係でしかなく、みんなが互いに干渉せずにうまくやればいい、ということです。自分の読書のことで誰彼を批判するなんてとんでもない、ということです。自分には自分の読書があり、他人には他人の読書があり、そのままバラバラでいればいい、ということです。ということは、「亀山郁夫の翻訳や作品解釈に問題のあることはわかった。しかし、それならば、亀山郁夫がそれらの問題を改めればいいことじゃないか? 亀山郁夫だって一所懸命に仕事をしたのだ。何も全否定することはないじゃないか? 亀山郁夫にも守られるべき人格はあるはずじゃないか? 亀山郁夫にもよいところはあるのじゃないか?」云々ということです。そのひとたちには、亀山郁夫の仕事を全否定してまで『カラマーゾフの兄弟』を守らなくてはならないなどという発想が全然ありません。もちろん、亀山郁夫の人格は守られなくてはなりません。 ── と私がいうのは、私に亀山郁夫の人格を否定しているという自覚がないからです。何をいっているのか? とあなたには思われるでしょうが、そうなんです。「馬鹿=低能」呼ばわりしても、私は亀山郁夫の人格を否定してはいない、といいます。

(つづく)

前ページ  次ページ