さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう! (この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)
6 (追記)
── というわけで、もうやけのやんぱちのようにして最先端=亀山郁夫の仕事の実質をごまかし、正反対の評価を公言する卑怯者=沼野充義の新たな文章をここに掲げておきます。沼野充義がどのように「ウソをついている」のかは、どうぞみなさんでお考えください(そのウソの見分けかたについて私はもう十分しゃべったと思います。引用した安富歩の文章は、いっそう説得力があります。そうして、沼野充義に新しいウソの手法はありません)。というわけで、読んでいただければわかりますが、もちろん「ウソ」だらけです。沼野充義にとっては、ドストエフスキーよりも、その作品の読者よりも、最先端=亀山郁夫を守ることの方が大事なんです。「文学」(=)「人間」よりも、自身の「立場」を守ることの方が大事なんです。よくもまあ、こんなことができるものだ! 人間としての当人不在という文章を書くひとのすべてを卑怯者と呼ぶべきです。そういうひとたちが、普通の意味でどんなに「いいひと」であるかは関係ありません。おそらく、沼野充義というひとも普通の意味ではきっと「いいひと」なんでしょう。 「専門家」が他の「専門家」を批判するとしたら、それはそれは膨大な労力を必要とするのかもしれません。自身の研究をそっちのけにしなくてはならないほどのことなのかもしれません。そうして、たとえば「ロシア文学」に関係する「専門家」たちには、それぞれ多様に細分化された「専門」の範囲というものがあって、自分の専門範囲はトルストイに限られる、だとか、ドストエフスキーだけれど、「ドストエフスキーの○○について」に限られる、とか、あるんでしょう。しかし、そうだからといって、ここまで愚劣な現象となってしまった最先端=亀山郁夫の仕事を批判しなくていい・批判する資格がないなどといってしまっていいわけがありません。「専門家」としてロシア文学に携わる誰もに、最先端=亀山郁夫の暴走を止める義務があるだろうと私は思います(このひとたちでなくて、他の誰がするのか?)。なのに、ほんの数名を除けば、彼らは「たとえ本当のことでも、そのなかで生きている人たちにとって、自分ともちつもたれつで生きている方たちの「立場」を危うくするような発言をしたら、自分の「立場」も危うく」なることを恐れて、口をつぐんでいるわけです。そんなひとたちが「文学」(=)「人間」の仕事をしているんだなどとよくもいえたものです。そういうわけで、沼野充義を会長とするような日本ロシア文学会というのは卑怯者の集まりだということです。いや、こんなひとたちでは、そもそもドストエフスキーの作品が読めないわけです。せめて、自分は卑怯者だという自覚には苦しんでいてほしいですね。しかし、その自覚に陶酔せずに。 沼野充義を筆頭とする「専門家」たちの大きな誤算は、まさかここまで最先端=亀山郁夫がその最先端ぶりを発揮するなどと思いもしなかったことなんでしょう。しかし、たしかに最先端=亀山郁夫はその最先端を突っ走りました。その姿を見送りながら、沼野充義たちは唖然としつつ、「賽は投げられた」とか「毒食わば皿まで」などという心地で、その最先端を応援しつづけなければならないわけです。こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。私だっていろんなウソをつきつづける卑怯者に違いありませんが、このことだけには絶対妥協できません。 お待たせしました。それでは、「ウソつき」の卑怯者 ── 沼野充義の恥知らずの文章をいよいよ読んでいただきましょう。
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