連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?

── 再び「連絡船」の一読者へのメール
(この章は一昨年、二〇一二年八月十四日に書き上げていたものです)


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 これもだいぶ以前に引用しました。

「ウンコはカレーではない」ということを説明するのが、なぜこれほど困難なのか。
(純の◆姫林檎◆日記 http://www.yuubook.com/junnikki/junnikki_70.html

 もう一度、あなたの「正しいことは尊重されるべきだ。それはそうだ。ではなぜその正しいことは尊重されていないのか ── 相手が間違っていることに気づかない愚かな人間だからだ ── 本気でそう思うの?」と「相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ── 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ」ですが、あなたのそんな相対化にはあなた自身の勇気や信念が欠けているのです。誰かが「ウンコ」を「カレー」だと主張したら、まさかそのひとが「カレー」と「ウンコ」を間違うほど愚かなわけがないと考える公平な ── というか、公平が何かもわからず、ただ一見公平らしく振舞いたい ── あなたはもちろんその「ウンコ」を食べるのでしょう。そうして、他のたくさんのひとたちが同じ「ウンコ」をとてもおいしそうに食べる様子を見ながら、やっぱり「カレー」っておいしいよね、と思うのでしょう。今後「ウンコ」が「カレー」として流通することを肯定するのでしょう。私はあなたを含めてたくさんのひとたちが「ウンコ」を「カレー」だと思って食べている悲惨な状況を目の当たりにしているのです。それは「ウンコ」なんだ、食べるんじゃない、と訴えているのです。しかし、あなたのいいかたを借りれば、私の「職場の人たち」も「奥さん」も「義理のお母さん」も「近所の人たち」も「ウンコ」を頬張りながら、「このカレー、ほんとにおいしいね!」とうなずきあうわけです。私だけが「ウンコ」を食べません。私だけが変人ということです。どうして私にだけは「ウンコ」と「カレー」の区別がつくのか、とあなたがたは問うのです。私には、どうしてあなたがたにその区別がつかないのかがわかりません。私のだらだらとやたらに長い批判文などを読まなくても、最先端=亀山郁夫自身による「解題」に目を通しさえすれば、それでもう十分なはずだからです。「「ウンコはカレーではない」ということを説明するのが、なぜこれほど困難なのか」というのは、そういうことです。これはそういう問題なんです。「大切なものの優先順位が違うだけ」などという問題ではないのです。あなたがたは最先端=亀山郁夫のしたことを見くびっているのです。いや、私はどうしてあなたがたにその区別がつかないのか、よくわかっています。あなたがたに勇気や信念が欠けているからなのです。

 もうひとつ引用。ジム・キャリー主演の映画の終盤から。

I never been a man of great conviction. I never saw the percentage in it. And quite frankly ... I suppose ... I lacked courage.
(『マジェスティック』 フランク・ダラボン監督)

 ── と、ここまで書いて、なおしばらく時間を置いて、ようやく私は、私のこの文章の主題が勇気や信念についてだったことを自覚しました。「勇気や信念」の「や」ですが、ここで私が「や」を用いるのは、「勇気や信念やその他なにがしか」としか、今のところ考えられないからです。もしかしたら、「勇気や信念」だけで十分なのかもしれません。繰り返しますが、「勇気や信念」なしに読書することはできません。「勇気や信念」なしに自分の読んだものの「よい・悪い」を判断することはできず、そもそも当の書物が「作品」たりえているのかを判断することはできません。

 あなたの「もう少し突き詰めると、気がついていないのではなく「これは、あれとは、違う」という考え方があることがわかった」とか、「相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ── 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ」という態度がどれだけ卑怯・無責任であるかを私は主題にしていたのです。そのようなあなたがそのままの態度でいくらどのような作品を読もうとも、あなたにはまるで何も理解できません。あなたのような読書 ── 読書とはいえませんが ── は作者と作品とを馬鹿にしているのです。ということは、つまり、あなたが「人間」を馬鹿にしているということに他なりません。そんな読書はまったくの無駄であり、害悪ですらあります。あなたは自分の「私」 ── 「読書する私」 ── が大事なだけです。しかし、読書はその「私」のためにするものではないのです。あなたの「私」は「作品」に奉仕しなければならないのです。あなたは読書があなたを救済したり癒したりするものだと思っている。しかし、あなたが間違っているのは、その「救済」やら「癒し」があなたがいま考えているものとはまったくべつのものだということです。あなたは砕かれねばなりません。誰にでも「読書」はできる。それはそうです。しかし、「読書」とは、いまあなたが考えているものとはまるでべつのものなのです。ということは、あなたの生きかた、また、生きるうえでの認識がまるで間違っているということをも意味します。もっとも、あなたのように生きているひとがこの世のほとんど全部のひとたちなのです。そうして、『カラマーゾフの兄弟』はその事実に抗した作品なのです。そうして、『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、イワンの追い求めるもののみに注目し、アリョーシャの仕事を軽視しかできないような読者が最低の読者ですが、アリョーシャに「感情移入」しつつ、もの足りなさを感じてしまうような読者も同断です。私がいまいおうとしているのは、アリョーシャには「勇気や信念」がある、ということです。その「勇気や信念」に気がつくためには、読者にもまた「勇気や信念」が必要だということです。アリョーシャは明瞭です。曖昧なところなどありません。さらに私はいいますが、ドストエフスキー自身が読者に「勇気や信念」を要請しているのです。「勇気や信念」なしに、単に「頭がよい」とか「読書家」などと周りから評価されているに過ぎないような、そんな低レヴェルの読者は『カラマーゾフの兄弟』の読者として失格です。もちろん最先端=亀山郁夫も失格ですし、最先端=亀山郁夫を評価するあらゆるひとたちも失格なのです。

 とはいえ、私自身、自分の「勇気や信念」ということばに驚いているんです。まさか自分が「勇気や信念」などということばを口にしうる人間であるなどと、これまで考えてみたこともありませんでしたし、現にそれが自分にそぐわないことばだということをよく知っています。それなのに、こんなことになってしまいました。しかし、私はあなたがたに欠けているものを探し当てようとして、どうしても「勇気や信念」に突き当たってしまうのです。

 私はべつにあなた自身を咎めているのではありません。あなたのような無数の読者の読みかたを批判しているだけです。そうして、そのようなひとたち ── おそらくは現在における「ベストセラー」をつくりあげるひとたち ── が大量に存在するのもしかたがないと思っているのです。あなたのようなひとたちがそのままであってもしかたがありません。しかし、だからといって、あなたがたにこの最先端=亀山郁夫批判を非難する資格などまるでないのです。あなたがたが、あなたがたのつまらない「私」に気づかなければ、この最先端=亀山郁夫批判はずっと醜いままでありつづけるでしょう。

(二〇一二年八月十四日)

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