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「自尊心の病に憑かれた」辻原登にアリョーシャは見えない 二〇一七年二月、『辻原登の「カラマーゾフ」新論 ドストエフスキー連続講義』が出た。発行は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の光文社。本の帯には「小説家だからこそ見抜ける“不朽の名作”の真実! 文学講義の名手が贈る4つのレクチャー」とある。「Lecture 1」と「Lecture 2」が二〇一三年秋の朝日カルチャーセンターでの講義、「Lecture 3」が二〇一五年二月の亀山郁夫との対談、「Lecture 4」はおそらく書き下ろしだろう。 フョードル・カラマーゾフ殺害の容疑でミーチャが拘束される場面について、辻原はこんなふうに言う。
実際の『カラマーゾフの兄弟』はそんなふうに書かれていない。
これが辻原の「突然、建物の外で馬の蹄の音が聞こえます」だ。実際には、聞こえていた鈴の音が鳴りやんだだけだ。そしてこの後にも「警官隊が銃を構えて待っている」などという描写はないし、そもそも銃を構えた警官隊など出てはこない。 辻原登によれば、アリョーシャが「あなたじゃない」と言った相手はミーチャだということだ。亀山郁夫との対談でそう言っている。辻原は間違っている。
もちろん、右の辻原の発言は「ドミートリー」と「イワン」とが逆になっている。そもそも辻原が間違えているのかもしれないが、そのまま出版してしまう出版社も出版社だ。 「Lecture 1」で、辻原はこう言う。「僕は自分の作品を読むときも他の作品を読むときも一回黙読した上で、声に出して読むことにしています」。そうして亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』から引用する ── ということは、この講義でも音読をしている ── のだが、自分でおかしいと思わなかったのだろうか。
辻原はどう音読したのか。音読はしたが、意味を汲まずにしたのか。辻原の音読はそれでいいのか。「小説家」辻原登はこういう文章を平気で読めるのか。 同じ箇所を原卓也訳で引いてみる。
亀山訳のこの箇所はすでに二〇〇九年五月に木下豊房によって誤訳を指摘されている。
また、辻原によれば、アリョーシャが「家庭争議をなんとか解決しようというので、僧院のゾシマ長老に仲裁をしてもらおうとみんなを修道院に集めて、親族会議を行う」らしい。辻原は間違っている。実際は、この会合はフョードルが言い出し、ミウーソフが乗り気になって決まったものだ。アリョーシャはこの会合の開かれることに困惑している。 さらに、辻原によれば、「ドミートリーは二十八歳、イワンは二十四歳、僧院に入っているアリョーシャは二十歳」なのだが、スメルジャコフはさらに年下らしい。フョードルとスメルジャーシチャヤとのエピソードを彼はこう語る。「ここに、フョードル・カラマーゾフが登場します。彼は先妻が逃げていったでしょう。後妻が入ったけれど、彼女もすぐに死んでしまう。それで、悪い仲間たちと遊び呆けているわけです」。そんなときにスメルジャーシチャヤが妊娠したと辻原は言う。先に辻原が自ら引用した箇所によれば、アリョーシャは母親が死んだときに「数え四つ」だったのだから、スメルジャコフは十六、七歳ということか。辻原は間違っている。実際はこうだ。原卓也訳から引くが、先妻が死んで、「フョードルは四歳になるドミートリイを追い払うと、そのあとすぐ二度目の結婚をした」のだが、スメルジャーシチャヤとのエピソードは「まさに、彼が最初の妻アデライーダの訃報をペテルブルグから受け、帽子に喪章のまま飲んだくれたり、乱行の限りをつくしたりしていた、ちょうどそのころ」のことだ。スメルジャコフは「せいぜい二十四かそこらの、まだ若い男」とあるが、おそらく生まれはイワンよりも早いだろう。辻原がまさかスメルジャコフを十六、七歳と読んでいたとは思わないが、しかし、どうやらイワンよりも年下だと思い込んだまま『カラマーゾフの兄弟』を読み、現在も間違えたままでいるらしい。右の引用箇所ばかりでなく、「Lecture 2」でもこう言っているからだ。
「Lecture 2」のタイトルは「『カラマーゾフの兄弟』を深める」だ。 そこで辻原は「探偵小説という枠組み」から『カラマーゾフの兄弟』を読む、と言う。フョードルが殺され、「ドミートリー、イワン、スメルジャコフという残った三人のうち、犯人がいったい誰なのかということが、この小説を引っ張っていく探偵小説的な大枠の一つになっている。その大枠の中で、ドストエフスキー独特の世界観が語られたり、ドストエフスキー的ないろんな人物が登場して、おかしな対話を繰り広げたり、どんちゃん騒ぎをしたりしながら、物語が進んで行きます」。こうした読みかたをすると、「大審問官」は次のようになる。
辻原はまたこうも言う。
ゾシマが「若い時に人を殺そうとしていた」というのは何のことなのか。決闘のことを指しているのか。 ともあれ、辻原の読みにかかると、あくまでも「メインストリーム」は殺人事件の犯人探しになる。それ以外のことになると、こういう扱いになる。
さらに、
犬のジューチカのエピソードについてはこう言う。
コーリャは犬を連れてきた時点でまだ十三歳だ。辻原は間違っている。そして辻原は、「イリューシャの大きな苦しみはこのジューチカだとわかって」いたにもかかわらず、「捜し当て、誰にも言わずに自分の家で黙って保護して、芸を仕込」み、その間ずっとイリューシャを苦しむまま放置していたコーリャを評して「非常に優しい崇高な面も持ってい」ると言う。そのことを咎めるアリョーシャのことなど辻原にはまるで理解できないのだろう。イリューシャの苦しみも辻原には「メインストリーム」からはずれた、ただの「いい話」でしかなく、それは「どうでもいい話」ということだ。そうでなければ、「イリューシャは狂喜して、「ジューチカだあ!」と、そう言って死んでいきます」などと言わない。 さて、辻原による「メインストリーム」の読みだが、彼はこんなことを言う。
単純な疑問だが、なぜイワンとカテリーナがわざわざミーチャを真犯人に仕立てあげようとするのか。すでにミーチャは犯人として捕まっていて、裁判も迫っている。そのままにしておけば有罪になるのではないか。しかも「逃亡計画」はミーチャが有罪になってから実行される予定のものだ。わざわざミーチャを真犯人に仕立てあげるというからには、ミーチャが真犯人ではないと二人が認識しているということか。しかし、二人はミーチャが真犯人でないことはもちろん、別に真犯人がいるということすら知らないでいるのだ。イワンの方については、私はもうすでにかなり詳細に書いているので、ここでは繰り返さない。カテリーナに関して書いておくと、真犯人云々について彼女は何も知らないも同然だ。 さらに、辻原はイワンの二回目のスメルジャコフ訪問の後についてもこう言う。
辻原はそう言うが、実際は次のようなものだ。
辻原の言ったことをもう一度引用する。
辻原の頭の中には、ありもしない場面が存在している。 カテリーナがイワンにこの文書を見せるのは、イワンが「まるで狂人のようだった」からだ。「どんなに彼女が説得しても」、イワンの「気を鎮めることができ」なかったからだ。彼女が裁判でこの文書を持ち出すのも、証言するイワンの症状が悪化したからだ。彼女は何も知らないのだ。彼女はミーチャが犯人であるとは信じられない。彼女はイワンがミーチャを庇おうとしているのだと思っている。真犯人がスメルジャコフなのかもしれないが、イワンからスメルジャコフとの話を伝えられても、彼女には理解できていない。イワンすらこの時点ではスメルジャコフが真犯人であることを知らないのだ。 彼女が「裁判の時に、一番重要なことを証言しません」と断言する辻原は、いったい何を「一番重要なこと」だと考えるのか。彼女がミーチャを真犯人に仕立てあげようとたくらむことなど一切ない。 また原作から引用するが、イワンは「公判の十日ほど前にミーチャを訪ね、脱走の計画を、それも明らかにだいぶ前から考えぬいた計画を提案したのだった」。さらに、裁判の前夜のことをカテリーナがアリョーシャにこう話している。
カテリーナがこの話をしているのは裁判から五日目で、彼女が「逃亡計画」の要点をイワンから知らされたのは裁判の四日前だ。彼女の言う「もうだいぶ前」がどの時点のことなのかはわからないが、計画はすべてイワンひとりが立てたものだ。 辻原はこうも言う。
「一カ月以上もイワンは黙ったままだった」というのが、「探偵小説としておかしい」のかどうか私にはわからない。「黙ったまま」でなかった場合、イワンはどうするべきなのか。手紙を届け出るのか。そもそも手紙を持っていたカテリーナはどうなのか。彼女は裁判でのぎりぎりのときまでそれをしなかった。 ── と書いて、わかった。辻原は、《ミーチャを真犯人に仕立てあげようとしている二人》がなぜその有力な証拠としての手紙を届け出ないでいるのか、わからなかったのではないのか。しかも、作者ドストエフスキーが、裁判前日のこの場面になって初めて唐突に手紙の存在を明らかにしたわけで、これに納得がいかないのではないか。実際には、イワンもカテリーナもミーチャを真犯人に仕立てあげようなどとは思ってもいないのだから、「黙ったまま」なのもおかしくない。おかしいのは、二人がミーチャを真犯人に仕立てあげようとしているという辻原の思い込みの方だ。 しかし、それとは別に問い直すが、辻原はこれが「探偵小説として」でなければおかしくないと考えているのか。もしそうならば、『カラマーゾフの兄弟』を「探偵小説として」読むことが間違いなのではないのか。イワンがそのように黙っていたことにまったく不思議はない。彼がそのような人間だからだ。ここまで彼はそのようなことをする人間だと描かれてきたはずだ。 辻原がイワンをまったく理解できていないことは、次の引用を読んでもわかる。
翻訳の傍点について、辻原はスメルジャコフの台詞だけを問題にしているが、アリョーシャの方にもつけてあるはずだ。おそらく池田訳にもつけてあるだろうし、他の訳でもそうだろう。つけていないのは光文社の亀山訳だけではないのか。編集部注には、自社の翻訳のみ傍点をつけていないことを記すべきだったのではないか。その方が早いし、わかりやすいだろう。 辻原がアリョーシャの「あなたじゃない」を「「あなたじゃない」とか「あなたかもしれない」とか「でも、あなたじゃないといいな」とか、反発をはじめとするいろんな異なった思いが、複雑微妙にこもっている」と読むのなら、それは間違っている。もし山城むつみが辻原の読み取ったように書いているのなら、それも間違いだ。「あなたかもしれない」とか「でも、あなたじゃないといいな」などの意味がアリョーシャの「あなたじゃない」には一切ない。辻原の「イワンのことを思って、しかも殺していないことを祈って」は間違いだ。 ここで、もう一度引用しよう。「Lecture 3」にある、アリョーシャの「あなたじゃない」についての辻原・亀山対談だ。
アリョーシャの「あなたじゃない」をこれほどまでの見当違いにしか読み取れない読者は、アリョーシャを、そうしてまたイワンをも読み取れていないことを自ら明らかにする。このこともすでに私はかなり詳細に書いてきたから、この場で繰り返しはしない。 イワン・カラマーゾフのためにひとつだけ書いておく。フョードルが殺されてから、「真犯人」に関して、イワンはひたすらそれが誰なのかを問いつづけた。彼にとっては、それが誰なのかだけが問題なのであって、誰が法的・世間的に有罪になるかではない。辻原は、イワンがスメルジャコフを真犯人だと知っていて、それを隠すためにミーチャを「真犯人に仕立てあげよう」とするのだと読んだのだろうが、イワンはそんな人間ではない。 辻原は『カラマーゾフの兄弟』の語り手「わたし」を問題にしながら、次のように言う。
「多くの登場人物がこれだけ議論をしている小説で、陪審員が議論するところは一切記録されていないなんてことがあるでしょうか」と問う辻原は、自分のその読みかたが間違っているとは思わない。思わないどころか「たぶん、書くのが大変だからです」とドストエフスキーの都合にして平気でいる。ここまで引用してきたように、辻原は「考えを導くための仕掛けの一つ」、「布石の一つ」、「語られなかった物語の伏線」、「本筋とは異なる」、「メインではありません」、「これは探偵小説としておかしい」、「かなり無理なことをやります」などと言って、『カラマーゾフの兄弟』のいくつもの部分を切り捨てている。なぜ辻原はそれらすべて拾い上げることのできる読みかたを探そうとしないのか。読書というのは、ありのままの作品を読むことだ。読者は作品に自分を合わせていかなくてはならない。自分に作品を合わせるのではない。 『カラマーゾフの兄弟』のすべては主人公アリョーシャ・カラマーゾフを描くためにあるだろう。すべての登場人物の経験がアリョーシャに結ぶ。イワンの「悪魔」を見ていなくても、アリョーシャはイワンの経験を知る。ミーチャの「童の夢」を見ていなくても、アリョーシャはミーチャの経験を知る。語り手「わたし」が何を語って、何を語らないかの基準は、それがアリョーシャと結ぶかどうかだ。陪審員の議論がないのは、それがアリョーシャに結ばないからだ。『カラマーゾフの兄弟』の全体がアリョーシャの経験だ。しかし、もちろん語り手はやみくもにアリョーシャを語るのではない。
アリョーシャはまた、コーリャの「全人類のために死ねれば」という言葉を言い換えて「僕はすべての人々のために苦しみたい」と言う。そのように、すべての人々のために苦しむ人間としてのアリョーシャが『カラマーゾフの兄弟』という作品だ。そのアリョーシャが ── ということはすべての登場人物が、彼らのすべての苦しみが ── 次の言葉に結ぶ。
「Lecture 3」での辻原との対談で、亀山郁夫はこんなふうに言っている。
亀山も辻原も自分にわからないところはすぐに、書かれなかった小説の第二部のせいにする。これが間違っている。 『カラマーゾフの兄弟』で語られていることのすべては「一粒の麦」が死ぬかどうかだ。その「死」は生物学上の死ではない。その「死」は人間が自分の「自尊心の病」(萩原俊治氏)に気づくことだ。イワンにはついに訪れることのない「死」だ。 こういうことが辻原にはまったく理解できない。なぜなら、辻原が自尊心に憑かれた人間、自己に淫した人間だからだ。だから、辻原にはアリョーシャが見えない。『カラマーゾフの兄弟』が欠陥だらけの作品にしか読めない。辻原に『カラマーゾフの兄弟』は無理だったのだ。 アリョーシャが見えない読者のことを私はすでに詳細に書いている。これ以上は繰り返さない。 『辻原登の「カラマーゾフ」新論』は読むに値しない。それ以前に出版の価値もない。辻原には、アリョーシャが見えない以前に、そもそも読書するということがわかっていない。ましてそれを人前で話すということもわかっていない。こういう「小説家」が書評などを書いたり、文学賞の選考委員を務めていたりする。辻原に褒められた作家たちはひたすら困惑すべきだろう。 そして、この本の編集者だ。彼は自分が何をしたのかわかっているだろうか。 |