「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇 1 ── いやあ、ずいぶん怒っているみたいじゃないですか? もちろん怒っています。あ、私のことですよね、怒っているというのは? まあ、これを読んでいる亀山郁夫も「怒りにうち震え」ているでしょうね。「私の人格を貶めるような誹謗中傷」とかなんとかいいながら。 ── ああ、それは昨二〇〇八年に出た「週刊新潮」五月二十二日号の…… そうです。木下豊房らの批判に対しての彼の反応でした。自分では「批判されてもいい。批判を恐れたら、学問に進歩は生まれないでしょう」(亀山郁夫+佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』 文春新書)などといいながら、そんなことをいっているんですからね。彼お得意の「二枚舌」じゃないですか。批判されたなら、堂々と論争すればいいじゃないですか。まあ、彼には無理なんですけれど。それで「同じ土俵に立ってしまう」からとかいいながら、逃げている。あの批判はしごく公正なものですよ。ちゃんと反論を受け入れる用意があります。それをねえ……。しかもですよ、文部科学省の学術研究推進部会での「人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第九回 二〇〇八年二月十五日)」で ── その「配布資料」によれば ── 、彼は文部科学省の役人を前にして自分への批判をごまかそうとしているんですね。あの批判を「アカデミズムの反応→恐るべき閉鎖性」、「読者を持たないアカデミズムの悲惨」なんて呼びながら、「悪意をむきだしにした批判と倫理的視点からの人格攻撃」だの「結局、文学の精神からの批判を提示できない」だのといい、「文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる」とか泣きごとを並べているんです(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/siryo/08021902/001.htm)。まるで生徒が先生にいいつけているみたいですよ。それに、「読者を持たないアカデミズムの悲惨」って、彼はでたらめで読者を獲得できるなら、その方がきちんとしたアカデミズムよりましだといっているんですか? 売れさえすれば、どんなでたらめでもいいんですか? 私は本当にこの「売れさえすれば何でもいい」に我慢がならないんですよ。何が「文学が、人格形成に役立つという希望をくじかれる」だ? でも、どうですか、ここまで私のやってきていることは「文学の精神からの批判」じゃないですかね? ── まあまあ、そう興奮しないで。 いまのは「配布資料」ですが、実際の「議事録」がべつにあるんですよ。これがひどい(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/gijiroku/015/08100707.htm)。
どうですか?「結局、ドストエフスキーの研究は、私の研究は今最先端だと自分なりに自負しているんですね、少なくとも日本においては」って大笑いですよ。ある意味では日本随一ですけどね。私はいいますが、「ドストエフスキーのテクストになまで感動」できないのは亀山郁夫自身ですよ。彼はアリョーシャの「あなたじゃない」に感動したことがまるっきりありません。イリューシャの苦悩をわがことのように感じたこともない。イワンの苦悩の読み取りもでたらめだから、これにも感動できない。「テクストの細部から何か新しい真実を見出していく」って、亀山郁夫は「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」なんてことがそうだというんでしょう? あのね、ペレズヴォンがジューチカとはべつの犬で、イリューシャを納得させるためにジューチカそっくりに右目をつぶされ、左耳にはさみを入れられた犬だなんて読みを提出されたら、こっちは何といえばいいんですか? もうこれは馬鹿でしょう? こんなものが「最先端」だそうです。「最先端」って、「大馬鹿」って意味もあるんですか? いや、亀山先生にはぜひともその「最先端」を日本だけでなく世界じゅうに発信してほしいもんだ。世界じゅう大笑い。 ── ことばに気をつけて。駄目ですよ。……ええと、何でしたっけ、「人格攻撃」ですか? ふう、いったい彼はどんな形での「批判」ならいいんでしょうかね? 笑っちゃいますが、それは「すり替え」ですよ。亀山郁夫は批判が怖くてたまらないんですね。いざ批判されると、とたんに「人格攻撃」ですから。「人格攻撃」といえば、逃げられると思っている。 でも、当人の読みがあまりにも的外れである場合、しかも、その読みが表層的にたまたま的外れになったというのでなく、深層的に・構造的に的外れである場合に、それを批判するってことは、結局、当人の資質を批判することになるんですよ。 こっちはしかたなくて、どんなふうに読書をしたらいいか、どんな読書が駄目なものなのか、そんなところからいわなくちゃならない羽目になっているんですよ。 ── いいじゃないですか? だって、あなた自身がそれを「連絡船」の読者にとってよいことだといってますよ。 そうでした。それはそうなんですけどね。ちょっと、これはあまりに…… ── 落ち着いて。落ち着いて。 これはね、この亀山郁夫批判というのは、ある意味とてもやりやすいと同時に、非常に困難でもあるんですよ。やりやすいというのは、彼の読み取りがあまりにも稚拙だからですね。ところが、ちょうど同じ理由が批判を非常に困難にします。 ── どういうことです? これは議論にならないってことなんです。亀山郁夫と彼の批判者と、それぞれの主張があるばかりで、両者の間に議論の生まれようがないんです。なぜかというと、亀山郁夫には批判者が ── たとえば私が ── 何をいっているのか理解できないからです。 ── 何ですって? いや、こっちだって彼が何をいっているのか、どうしてあんな主張ができるのかとわが目・わが耳を疑いますよ。そういう意味では彼のいうことが理解できない。でもね、彼がどういう思考回路を経てああいうことをいいだすのかの見当はつきます。この意味で「亀山郁夫的読書」がどういうものか、私にはわかります。そういう読者はたくさんいますから。もしかすると、手に取るようにわかるといっていいかもしれません。でもね、まさか『カラマーゾフの兄弟』を翻訳する人間がそういう読者だったとは……。 ちょっと思い出したんで、引用してみましょうか? つまり、私はなぜ「亀山郁夫的読書」をするひとたちがそこから進歩しないでいられるのか・なぜ彼らが自分の読みに納得してしまうのか・なぜ絶えず自分の読書に疑問を持とうとしないのかは理解できませんが、それでも「亀山郁夫的読書」が確実に存在していることを承知しているし、それがどのような思考回路を経るものなのかがわかるということです。それは理屈 ── 形・型 ── としては、こんなふうにわかるんですね。
もっとも、「亀山郁夫的読書」というものは、何かが「摩滅され、失われ」たのではなくて、はじめから何もないんですけれど。……まあ、これは余談です。 そんなわけで、こちらが相手についてわかっていることが、向こうにはわからないわけです。「亀山郁夫的読書」をする亀山郁夫には、こちらの主張が ── こちらの思考回路をも含めて ── まるっきり理解できないんです。 あのね、たとえば私の場合、こうやってかなりの量の文章を書いたりしているわけですけれど、自分の考えを書きながら、それに対してどういう反論がありうるかということを常に考えているわけです。というか、それがそもそも考えるってことでもあるんですが。つまり、いつも自分の考えを検証しているわけです。自分の考えをいつも鍛えている。だから、あることを考えるときに、何を押さえておかなくてはならないか、特に強調しなければならない箇所はどこか、気を遣っています。これこれの反論が予想されるから、これは必ず書いておかなくてはならないな、なんていう判断をしているんです。何というか、自分のなかにいろんな視点があって、それぞれが対話しているんですね。 それで、いざ反論が出てきたときには、「ああ、やっぱりそこを突いてきたか」とか「あ、それは盲点だった」とか反応できるわけです。 それが亀山郁夫にはないんです。 ── え? 亀山郁夫が自説を展開するとき、彼はそもそも、それに対するどのような反論がありうるかをまったく考えていないんです。彼の主張はまったく無防備なんです。 ── え? 彼の内部にはそのたくさんの視点がありません。対話がない。単一の視点、その独白しかないんです。つまり、彼は何も考えていないんです。彼はただ思いつきをしゃべっているだけです。自説の検討すらできません。まったく無防備で、脆弱なままなんです。だから、彼の説を打ち崩すのは造作もないんです。面倒ですけどね。 彼にあるのは、その思いつきを自分で気に入るかどうかってことだけです。で、気に入ったら、もう後はそのまま突っ走るだけです。その思いつきにしたがって作品を読むだけ。作品を自分に合わせるんです。 つまり、亀山郁夫には考えるってことができないんです。彼には内省がない。 とっくに指摘しましたが、「大審問官」について、彼は最初、大審問官と向かい合っているのがキリストだということで論を進めました。キリスト対大審問官=イワンということでね。それで、キリストが大審問官に与えたキスが大審問官の事業の「承認」・「祝福」だといって、大審問官=イワンの勝利みたいな説を展開するんです。ところが、そのまま今度は、原作にはキリストがキリストという名まえで書かれているわけではないといって、それは「僭称者」ではないか、といいだすんです。これ、おかしいでしょう? だったら、さっきまで展開されていた大審問官=イワンの勝利という説はどうなるんですか? そのフォローもない。こんな笑っちゃう理屈を平気で提出できるのは、何も考えていないからですよ。しかも、「僭称者」説をそれ以上展開しようともしない。 さっきの犬の件にしてもそうです。ペレズヴォンがジューチカの「僭称者」だというわけです。「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」って、キリスト僭称者説とそっくり同じパターンでの思考です。 本当に単純・無防備なんです。 そんな「亀山郁夫的読書」をするひとに、いったい、こっちの反論が理解できますか? ── ははあ。 できるわけがない。亀山郁夫には反論できないんですよ。だから、彼には批判が自分に対してのいじめ・人格の否定としてしか受け取りようがないんです。彼に反論ができるくらいなら、最初からあんな説の展開ができません。 亀山郁夫との議論が成立しないと私のいうのはそういうことです。 もしこれを読んでいる亀山郁夫が反論してくるなら、私は受けますよ。やってみたらいい。 ── いいんですか、そんなことをいって? かまわないでしょう。そうでなきゃ、この半年間、私は何をしてきたんです? また引用しましょうか?
ガンダーネックの「ぼかあ、左ぎっちょだからですよ」は、彼として非常に切実な返答です。彼はあるレヴェルまでは野球のセオリーを心得ているわけです。笑ってしまいますが、あるレヴェルまでの返答にはなっています。ところが、ガンダーネックすら野球において理解しているレヴェルまでの理解が、亀山郁夫には文学において、ない。 だから、私には亀山郁夫自身を論破しようなんてつもりが端からありません。あんなひとはどうだっていいんです。私が危惧するのは、そんな彼をもてはやす新聞社やら出版社やらテレヴィ局などの無節操と、それらにコロリと騙される数多くの読者たちですよ。その読者のなかでも、「亀山郁夫的読書」をするひとたちなんかは、これもどうでもいい。そうでない読者 ── せっかく「背伸び」をしたのに、ひどい翻訳に当たってしまった読者 ── がいるはずなんです。そういう数少ないだろう貴重な読者の、今後すくすくと成長していくはずの芽が摘まれることを私は心配しているんです。そういうひとたちが「それが果たして同一の犬かどうか、作者は最後まであいまいにしたままです」をそのまま鵜呑みしてしまうのを懸念しています。亀山郁夫の「解題」やNHK講座が実に役立ったなどと思ってしまうことを。 ── ああ、なるほど、そういうことをあなたは考えているんですね。 つい先日も読売新聞が「魅了する格調・名調子 海外文学 旧訳本相次ぎ刊行」と題する記事(二〇〇九年一月十四日 山内則史)において、書き出しの「『カラマーゾフの兄弟』で火がついた海外文学の新訳ブーム」から亀山郁夫訳をヨイショしているんですね。記者の山内則史は自分の書いていることの意味がわかっているのか? 彼は亀山訳を読んだのか? また、あの「解題」を読んだのか? 読んだうえで共感しつつ記事を書いたのか? 疑いを抱きつつ、それを脇へ置いて書いたのか? いずれにせよ、ひどいです。 ついでにいえば、毎日新聞ですね。あの翻訳に対して「毎日出版文化賞特別賞」を授賞したというのは、どういうことなのか? 選考委員は本当に読んだのか? 「解題」も読んだのか? それと朝日新聞。亀山郁夫が「朝日賞」の選考委員ですか? 選考委員を選考したひとはあの翻訳を本当に読んだのか? 「解題」も読んだのか? やれやれ、また引用しますよ。
── しかし、あなたは以前にその三つの新聞から取材を受けていなかったでしょうか? しかも、記事は三つじゃすまないですよね。そうだ、NHKの取材はいったい何回受けたんですか? そのあなたがいま、三紙ともを、またNHKをも悪しざまにいうんですか? ああ。読売新聞の山内記者とも話したことがあります。だから、何ですか? ひどいものはひどいんですよ。これはやっぱり、はっきりいわなくてはなりません。やれやれです。もしかすると、亀山郁夫もあの当時(二〇〇一年)の記事 ── これは朝日新聞ですが ── で、私が『カラマーゾフの兄弟』を「世界最高の小説」といっているのを読んだかもしれませんね。どうですか、いま、ふと思ったんですが、もしかすると、その記事も彼が一連のドストエフスキー関係の仕事を始めるに当たっての一因・後押しのひとつになっていたかもしれない。「私がドストエフスキー研究に入り込んだのは、この過去五、六年です」……いやいや、まさか。それは悪夢ってもんです。 何がいいたいんです? 私が矛盾している? そりゃ、矛盾だらけですよ。私の勤める書店は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』をずっと平積みにしていますしね。原卓也訳も平積みにはしていますけれど。このへんの矛盾に関しては、この「連絡船」の「はじめに」でずいぶんしゃべりましたよ。またそれをここでやれ、と? あそこでもたくさん引用しましたが、いまはふたつだけ。しかも光文社文庫から。
いや、もうひとつ。
で、これも以前にいったことですけれどね。この「連絡船」で私が「読書案内」をしようとする。でも、これは本当はもっと適任のひとがいくらでもいるはずなんですよ。ところが、そういう有能なひとたちはこんな面倒くさい仕事はしないんですね。だから、私がやらざるをえない。亀山郁夫批判も同じです。何だってこの私がこうまでこのことに首を突っ込むのか、自分でも呆れますけれど、木下豊房ら数名を除くと、どうでしょう、もっと適任であるべきひとたちは何にもいいやしません。
いったい、「ロシア文学界」は何をしているんですか? 先の「そこでどういう発見があったかというと、例えば一〇代の後半、終わりから、大学時代から営々とドストエフスキー研究を積み重ねた人たちは、五〇代の後半になったら新鮮な想像力も何もすべて失っているんですね。ほとんどドストエフスキーのテクストになまで感動するということはない。テクストの細部から何か新しい真実を見出していくということがほとんどできなくなっていて、目新しい視点、発想はほとんどゼロなんです」なんていう亀山郁夫の発言にどうして怒らないんですか? こんなことをいわせておいていいんですか? その「目新しい視点、発想」とやらが…… ── ジューチカ僭称者説という具合だ、と? そうそう。わかってるじゃないですか。 もう一度亀山郁夫の文章を引きますよ。
で、ジューチカ=ペレズヴォンということはもういいました。そのとき、私は亀山郁夫がなぜ「ペレズヴォンの耳に刻み目を入れ、左目をつぶした」のが誰なのかをいわないのかと非難しました。彼の考えているのはコーリャなんでしょうが、こうしたものいいが彼の特徴的な詐術なんですね。彼の方から純真で理解の乏しい読者に向けてわけのわからない問いかけをするんです。「そこでにわかに気になってくるのが」って、気になりませんよ。この問いかけ自体があまりに馬鹿馬鹿しいものなんですが、純真で理解の乏しい読者にはそんなことは思いもよりません。そこにかぶせるようにして「いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます」── 働きませんて ── なんていうんですね。純真で理解の乏しい読者は怯えます。で、いつの間にか「ペレズヴォンの正体はほんとうにジューチカなのでしょうか」なんて問いがあたかも権威ある問いであるかのように読者の前に居座ることになってしまうんです。 同じことを、亀山郁夫はここでもやっています。
「そうならば、イエスのキスの意味するところは、おのずから明らかだろう。それこそが、まさにポリフォニー的な読みということになる」って、こう何やら意味ありげで思わせぶりなサインを送られると、純真で理解の乏しい読者はとたんに自分が試されていると思い、怯えます。ああ、亀山先生、それはどういう意味なんですか? で、たちまち亀山郁夫の与えてくれる答えをありがたがって受け取ってしまうんですよ。 詐欺的レトリックですね。まあ、騙される方も騙される方なんですけれど。 おそらく亀山郁夫はもうずいぶん長い年月そのやりかたで学生たちをへこませていたんじゃないですか? いやがおうにも不吉な連想が働いてしまいます。まともな読みのできる学生が亀山郁夫の授業を受けてですよ、「あのねえ、君、ドストエフスキーはペレズヴォンがジューチカかどうかをあいまいにしたままなんだよ。これは疑わなくちゃ駄目でしょう。こんな読み取りも君にはできないのかね? そんなことじゃ、ロシア文学研究の最先端には到底行き着けないよ。もっと勉強しなさい」なんていわれつづけたら、ノイローゼになってしまいますよ。その学生には、まさか自分より遥かに低レヴェルの読みしかできない人物が自分の指導教授だなんて思いもよらないでしょうからね。そうして、亀山郁夫の読みに「その通りですね。やっぱりペレズヴォンはジューチカじゃないんですよね」とか「アリョーシャのキスは犯罪ですよね」なんていうような学生たちが、彼の斡旋によってどんどん大学に職を得ていき、「ロシア文学界」を形成してしまっているのが実状なんじゃないですか? ここで、カート・ヴォネガットを引用します。
もうひとつ、同じ作品から。
── でも、「ロシア文学界」がどうあろうと、あなたは「ただ一人でも行く」んでしょう? それはその通りです。でも、次から次へと亀山称揚の発言が出てくる現状には暗澹としますよ。まったくきりがない。 出たばかりの『勝てる読書』(豊崎由美 河出書房新社)中の「新訳座」という章にも暗澹としましたね。
豊崎ってひとはもっとまともな読み手であり、伝え手だと思っていたんですがねえ。本当にがっかりしました。 とにかく、私は河出書房新社のサイトにあるこの本の感想投稿欄に書き込みましたよ。
── はあ、そんなことまでしたんですか? したんですねえ。中高生が『カラマーゾフの兄弟』を読もうとして、原卓也訳が強面すぎて跳ね返されるというなら、彼らにはまだ早いんですよ。それでいいじゃないですか? 亀山訳なら読みやすいからお薦めなんてのは言語道断です。だいたい亀山郁夫の訳文は読みやすくなんかないはずです。それに、彼らがジューチカ僭称者説を鵜呑みにしてしまったら、どうするんですか? だから、異議申し立てをしたんです。どう思います? 彼女から反応がありますかね? ── でも、亀山郁夫の訳文が読みやすいという声は本当に多いですよ。 そこなんですよ。私が不思議でしようがないのが。 木下豊房のサイトで、森井友人は読みにくいといっていますよね。
お断わりしているように、私自身は亀山訳を読んでいません。「あなたじゃない」のあたりは読みましたけれど。他にも部分的に、ね。しかし、それだけでも首をかしげましたがね。 たぶん、こういうことなんですよ。亀山郁夫の訳文を読みづらいというひとは、自身に文章を書く力、文章力があるんですよ。読みやすいなんていうひとには文章力がない。そういうことだろうと思っています。そうして、世のなかの大多数のひとたちには文章力がありません。 ── え、え、え? 世のなかの大多数のひとたちには文章を書く力がありません。これは断言します。文章を書く力のあるひとたちは、実は少数派です。でも、私がここで文章力といっているのは、べつに大したレヴェルを考えているわけでもありません。いわゆる美文・名文なんてものを書く力じゃありませんよ。何といえばいいのか、わかりませんが、ことばに使う筋力とでもいえばいいんですかね。その筋力のついているひとには、ある文章を読みながら、なぜこう書かないのか、こう書くべきだろうに、などという判断をすることができるんですね。こういうひとは、いろんな本を読んで誤字を次々に見つけたりもするでしょうね。それは、ふだんから文章を書く、それも「背伸び」して書く ── いまよりもっとよい文章を書こうとして書く ── 習慣があるからだと思います。 うまい説明じゃないですが、亀山訳を読みづらいと感じるかどうかというのは、いまいったことが必ず関係しています。 ── 亀山訳を読みやすいと感じるひとには文章力がない。 そうです。いってみれば「雰囲気読み」のひとたちですよ。で、このひとたちはいつも「何が書かれているか」しか読もうとしない。それが「どのように」書かれているかなんて思いもよりません。そうして、そのことによって実は「何が書かれているか」も読めない。だから、実はなんにも読めないんです。「どのように書く」を知らないひとには読書ができません。それで、往々にしてこの読書のできないひとが年間三百六十五冊の本を読破したりする……「本屋大賞」に参加したりする。 ── それはいいすぎでしょう? 全然。 ── そういうあなたには、じゃあ、文章力があるし、読む力もある? その通りです。何度いわせるんですか? そりゃ、私だって以前は「その通りです」なんていうことを自分で傲慢だとか、そんなことはいっちゃいけない、いうものじゃない、なんて考えていましたよ。でも、それはもうやめたんです。事実だからしかたがないんです。もし私がここで、自分には文章力もないし、読む力もないなんていいだしたら、この亀山批判も無効じゃないですか。 ── ああ、なるほど。 そういう覚悟で私はこれをつづけているんです。 ── このことであなたと言い争っても無駄ですね。 無駄です。 ── あなたのいうことは絶対正しい? 誰がそんなことをいいましたか? 私はいつも自分の正しさを疑っています。そのうえで、私が正しいと判断したことを口にしているんです。誤りがあれば、それを認めますよ。 ── 亀山郁夫だって同じことをいうんじゃないですか? あんな「最先端」なんかと一緒にしないでほしいな。レヴェルが全然違う。あのね、あなたのそのものいいがそもそもおかしいんですよ。あなたはこれを他人事のようにしか考えていないでしょう? 冷やかしでしかないでしょう? あなた自身の判断はどこにあるんですか? あなたは『カラマーゾフの兄弟』をちゃんと読んだんですか? 感動したんですか? 原卓也訳を読んだんですか? 読み返したことがありますか? あなたは亀山訳をどう判断しているんですか? ジューチカ僭称者説をどう思うんですか? いえないでしょう? 高みの見物だ。そんなひとに私がいくら話したって無駄なんですけどね。自分のない奴に聞かせることばなんかひとつもありゃしない。 |