「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三
フョードル殺害の前夜、モスクワ行きの前夜 ── カテリーナに別れを告げ、アリョーシャに「大審問官」を語った日の夜 ── のイワンについての語り手のことばです。
その「彼の心を語る順番」が来たとき ──「第十一編 兄イワン」── の語り手の語りかたについて、私は以前にだいぶ長々としゃべりました。私はこういいました。アリョーシャの「あなたじゃない」を響かせた後の語りかたです。
語り手はけっしてイワンの心理を総括しません。イワンの心理の部分部分をばらばらに提出し、部分部分ばらばらなまま読者に伝えようとします。もちろん、それらは、アリョーシャのあまりにも強烈な「あなたじゃない」の残響のもとに語られるわけです。それでも、語り手はイワンの心理をこれこれだと確定しようとしません。むしろ、そういう確定を拒みます。イワンの心理を部分部分ばらばらなまま、その全体を読者に受け入れてほしいんです。というのも、この「部分部分ばらばら」の全体がイワン・カラマーゾフだからです。イワン・カラマーゾフは、この「部分部分ばらばら」によってしか、そのありようの表現できない人物なのだ、と私はいいましょう。もしあなたがイワン・カラマーゾフをしっかり読み取ろうと思うなら、アリョーシャの確定的な「あなたじゃない」という視点と、いま私のいった不確定的な「部分部分ばらばら」という視点との差異を踏まえたうえで、そのふたつの視点の並存する状態を想像できなくてはなりません。後でもいいますが、おそらくこのふたつの視点 ── 確定的な視点と不確定的な視点 ──の接触、応答の全体が、どちらか一方だけの視点をはるかに超える大きさと広がりを作品にもたらしているんですね。いいですか、まず確定的な「あなたじゃない」と、それに対するイワンの反応があって、その後に不確定的な ── この二か月間の ── 「部分部分ばらばら」が語られるんです。この語りの全体は非常に「動的」なものです。この作品は常に動き、脈打ち、姿をどんどん変えていくんです。その「運動」に参加することが、この作品の読書です。読者は作品に巻き込まれ、いつか私のいったように、アリョーシャのことばの通りに「かまいません、僕も苦しみたいんですから」といいつづける読書をすることになります。 ── と、私はいま先走って、「あなたじゃない」以降の確定的な視点と不確定的な視点の接触、応答についてをしゃべりましたが、むろん、それ以前でも語り手はイワンの「部分部分ばらばら」を提示していたんでした。ということは、以前に提示していたイワンの「部分部分ばらばら」に対して、語り手はアリョーシャの「あなたじゃない」をぶつけたことにもなるわけです。 イワンの「心を語る順番」の来る以前 ── フョードル殺害以前 ── 今回の冒頭に私の掲げた場面で ── のイワンはこんなふうに語られていました。
そうして、右の赤色部分と実線部との対照(とその並存)が、次のように表現されます。
どうですか?「彼自身も、このときこの瞬間、自分がどうなっているか、絶対に説明できなかったであろう」です。ところが、そういう心理的な「部分部分ばらばら」が彼の身体にどのように表われていたかといえば、「彼の動作も歩き方も、まるで痙攣を起しているかのようだった」なんです。 これが殺人事件以前のイワンでした。再び殺人事件以後に話を戻すと、
どうですか?「何より、彼は本当に気持ちが落ちついたのを、それも本来なら反対の結果になるのが当然という気がしそうなものなのに、犯人がスメルジャコフでなく、兄のミーチャであるという事態によって安心した」です。 しかし、語り手はこうも指摘していました。
右の文章について、私は以前にこういいました。
「すべては許される」という思想の現実的帰結からも、そういう思想を抱いている者が自らの男性性を愛する女性に誇るためにも、イワンは「父を殺したのが、自分であればよかったのに」と考えるんです。
さて、いま表面的事実に頼って、父を殺したのがミーチャだと思っているイワンが、本家たる自分の思想的帰結をミーチャ ── イワンは、ミーチャなんかに自分・イワンの思想などが理解できるわけもなく、ただミーチャ自身の都合のいいような低レヴェルの曲解をするのが関の山だと思っています ── に横取りされたことに憎しみをおぼえているわけです。いっそのこと自分が父を殺したのであればよかったのに! また、その方が彼には楽なんですよ。自分が実際に父を殺したのであれば、その事実に依拠しながら、はっきりした ── 確定的な ── 判断を自分に下すことができるんです。ところが、現実にはイワンは殺人を犯していません。だから、彼は宙ぶらりんの状態で苦しむことになります。
というわけで、ここでちょっと横道に逸れますが、最先端=亀山郁夫のいう、これは大間違いです。
いいですか、「この小説での「傲慢」の罪の最も恐ろしい体現者」は「謎の訪問客」(原卓也訳では「神秘な客」)ではなくて、イワン・カラマーゾフですよ。なぜなら、彼は「謎の訪問客」と違って、実際に殺していないからです。殺していれば、その現実に依拠することができるんです。殺していれば、ただその自分の犯した殺人という現実の ── 自分にはっきり手応えのある ── 一点にすべてを帰すことができるわけです。それで、その一点の是非だけをはっきり問題にすることができる・しさえすればいいわけです。イワンにはそれができません。彼は殺していません。殺していないから「安心」できそうなものを、彼は「殺していればよかったのに」・「その役(殺人者)は本来自分であるべきだった」と考えてしまうんです。だから、イワンの苦しみは自分が殺した以上に、いっそう高度なものになるんです。しかも、「謎の訪問客」には殺人に自ら納得できる動機がありました。イワンには、そのようなレヴェルでの動機がありません。その点でも、彼の苦しみはいっそう高度なんですよ。 これを引用しておきます。
べつのいいかたをしますが、「謎の訪問客」の向き合っている現実がひとつだとしたら、イワンの向き合っている現実はふたつ以上あるんです。いや、どうもいいかたがよくありません。どういえばいいのか、いくらか試してみますが、「謎の訪問客」が殺人を犯すとき、彼にとって相手はただひとり、彼が思いを寄せていた女性に限定されていました。彼が彼女以外の人間を殺すことなどありえません。ところが、イワンはそうじゃないんですよ。たしかに、ここで実際に彼が苦しんでいるのはフョードル殺害についてではありますが、彼は本来殺害の対象がフョードルであろうがなかろうがどうでもよかったはずなんです。彼の「すべては許される」という思想が対象にしているのは、具体的な誰彼ではなかったはずなんです。ただ、手近なところにフョードルという恰好の対象(とともに殺人者候補としてのミーチャとスメルジャコフ)があったにすぎず、イワンはおそらくとりあえず試験的に仮想対象としてフョードルを念頭に置いていたにすぎないんです。そうして、その先には対象として誰彼かまわぬ殺人が「すべては許される」という標語のもとに行なわれてしかるべきだったはずなんです。彼の思想の帰結としてはそうなんです。 ここで思い出してほしいのが、以前に私のしゃべった、『カラマーゾフの兄弟』における「人類全体に対する愛」と「「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれとに対する愛」との区別です。この「愛」を「殺意」あるいは「憎しみ」に置き換えてみてほしいんですね。「謎の訪問客」の「殺意」は「人間の顔」を持った生身のただひとりの女性にだけ向けられていました。彼は「人間の顔」に向き合っていたんです。けれども、イワン・カラマーゾフの「殺意」は、ここでも「人間の顔」=フョードルの顔を回避するんです。イワンは「人間の顔」=フョードルの顔に向き合うこと、その顔を正視することができません。 ミーチャはそうではありません。
もちろん、イワンにもフョードルの顔への「個人的な嫌悪」がありはしただろうと思います。しかし、そのレヴェルはミーチャと同じではありません。
イワン・カラマーゾフの「すべては許される」という思想は「人間の顔」を正視しない・できないことによって成り立つ思想なんです。 イワンが最初に獄中のミーチャに面会したときはこうでした。ミーチャのいったことは完全に正しいです。
そのミーチャは後でアリョーシャにこういうんでした。
むろん、イワンにはミーチャの「讃歌」が恐ろしいほど理解できます。
さらに、
そのうえ、
イワン・カラマーゾフは「讃歌」を理解しています。しかし、「信じていない」んです。 また、これらも引用しておきましょう。
これがイワン・カラマーゾフです。イワンに「人間の顔」を正視しない・できないことを直感的に見抜き、拒否するひとたちが確実にいるんです。
それ以前に、アリョーシャはイワンに向って適切な問いを投げかけていました。
ゾシマ長老とイワンとのやりとりはこうでした。
イワン・カラマーゾフは分裂しています。もちろん、それはあらゆる人間が、また『カラマーゾフの兄弟』の作中人物のみなが分裂しているのだといえば、それはそうなんですが、イワンの分裂は他の誰ともレヴェルが異なり、高度に先鋭化されています。だから、語り手はイワンを「部分部分ばらばら」としてしか表現できないんです。イワンは分裂した「部分部分ばらばら」のどれにも真剣なんです。しかし、どれをも信じることができない。 アリョーシャのいう通り、人間は「心と頭にそんな地獄を抱いて」生きていくことはできないし、愛することもできないんです。しかしイワンには生身のひとりひとりの人間それぞれの「人間の顔」に向き合うこと ── つまりは愛すること、ひいては憎むこと ── ができません。だから、彼に接する多くの他人は、その事情を正確に理解するのではないけれども、彼が自分たちの顔を見ていないこと・自分たちの顔を軽蔑していることにたちまち気づき、「毛ぎらい」するんです。 イワンはフョードルの顔を見ようとしません。 先の「それに彼自身も、このときこの瞬間、自分がどうなっているか、絶対に説明できなかったであろう。彼の動作も歩き方も、まるで痙攣を起しているかのようだった」につづくのはこうでした。
この日の夜と翌朝については、後でこう語られていました。
右の翌朝 ── 出発 ── の場面でのイワンの上機嫌が何によっているかというと、彼はフョードルの前に立ちながら、彼の顔を見ないでいることに成功したんですよ。彼はしょっちゅうこれに成功しています。逆に、相手が誰であろうが、彼が相手の「人間の顔」に向き合うことはほとんどないだろうと思います。 それで、私はこうもいいましょう。 イワンがフョードルの遺体(死に顔)を見ていないことも実は重要なのじゃないでしょうか?
そう私がわざわざいうのは、イワンがフョードルの顔を見ることをまたもや回避しただろうと疑っているからですね。「モスクワに列車が入る頃になって、「俺は卑劣な人間だ!」と自分自身に言った」イワンが、それから四日間、フョードルの顔を何とか忘れようとしていた・思い出さないようにしていただろう、と思っているんです。それはうまくいったろう、この四日間の彼はおそらく上機嫌でもあったろう、しかも、彼は必ず知らせのあることを承知していただろう、というんです。そうして、わざとその知らせの届くようなところを避けて歩いたろう、というんです。 私がいおうとしているのは、もしイワンが父親の遺体(死に顔)を目にしていたら、彼のその後の二か月はだいぶ違ったものになっていたのじゃないか、ということです。最後の最後までフョードルの顔を見なかったことが、その後の二か月間を相当恐ろしいものに変えてしまったのではないか、ということですね。 ここで ── 対照的に、という意味を込めて ── 、ミーチャについての言及をいくらか引用してみます。
そのミーチャは彼女に後でこういっていました。
そうして、また、
ミーチャにはいつも必ず彼にとっての味方 ── それがある瞬間だけにせよ ── が現れます。そうして、彼は必ずそのことに気づき、彼らに感謝するんですね。彼は生身のひとりひとりの人間それぞれの「人間の顔」に向き合うことができるんです。それがフョードルを相手にすると、憎悪になってしまうとしても。そこで、語り手はミーチャの内心と言動とを一致しているものとして語ることができるんです。 そうしてミーチャは「讃歌」にまでまっしぐらに突き進みます。
監獄でアリョーシャと話したときは、こうもいっていました。
彼の見た夢ではこうでした。夢ではあるけれど、彼がこの夢の通りの人間であることが読者にはわかります。
これらはそのまま読者に伝わります。ドミートリイ・カラマーゾフはこういうふうに表現しうる人物なんです。彼は開かれた人物であって、イワンのように閉鎖的で分裂した人物ではないんです。語り手がドミートリイを表現するためには、彼の周りのたくさんの人物たちをどんどん出してきて、彼と対話させることができるんです。ドミートリイは彼の周りのすべてのひとたちと「つながって」いるんです。しかも ── 強引ないいかたをしますが ── 、その「つながり」のなかへと、彼は自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりしてかまわないと思っているんです。それも、「カラマーゾフ流」にです。それに対して、イワンをドミートリイと同じように ── 同じレヴェルで ── 語ることはできません。イワンのために他の登場人物たちをどんどん出してくることなんかできません。 イワンには、彼にとっての味方が現れることがありません。彼の前には誰もいません。彼は誰とも「つながって」いません。彼には誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすることなんかまっぴらごめんです(とはいえ、彼は自分自身を誰かとの「つながり」のなかへと投げ出すことの意味が恐ろしいほどわかってもいます)。彼は、他人がどんなことになろうが、自分があくまで自分であること・自分がすべてを見届けることに固執します。それも、「カラマーゾフ流」にです。束の間、アリョーシャやゾシマ長老が浮かび上がってはきますが、その他に彼の前に「人間の顔」を持った生身の人間の現れることがありません。「孤独」と「離反」のなかに彼はいます。そこで、彼の前に現れるのが、人間ではなくて「悪魔」(他人ではなくて、自分自身)なんですね。そういうわけで、「悪魔」(他人でなくて、自分自身)でないと、イワンを表現できないんです。イワンは誰にも感謝しません。彼は最初から味方を拒絶し、感謝を嘲笑しているんです。そんな人物を表現することがどれだけ難しいかを想像してください。 分裂しているイワン・カラマーゾフは、その分裂した自分自身の「部分部分」どうしで対話せざるをえません。彼には自分以外の誰彼へ向けて ── くだらないいいかたをしますが ── 本心を語ることすらできません。それができるためには、彼が自分自身であるレヴェル ──「部分部分ばらばら」以上のレヴェル、せめてもうすこし他者へ向けて提出しうる程度にはまとまったレヴェル ── の結論を持っていなくてはならないんです。私がいまいいたいのは、イワンの分裂した部分部分どうしの対話からは絶対に結論なんかが出るわけがなく(彼は絶対に結論なんかが出てこないからくりのなかに閉じこめられています)、外に向けて自分自身を語ることなどできないということなんです。イワンには絶対に「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないと思いつめていた」なんてふうに自分を「まとめる」ことができません。「悪魔」が出てくるのは、イワン自身の必然であり、また彼を語る語り手の語りかたの ── 作品のつくり・構造上の ── 必然でもありました。 とはいえ、ミーチャを表現することが語り手にとって実に簡単なことだった、などということをいうつもりではないんです。私がここで問題にしているのは、イワンを表現することとの比較としてなのだ、とお断わりしておきます。 ちょっと思い出したので、トーマス・マンを引用してみましょう。
どうですか? 傍線部を私はイワン・カラマーゾフに当てはめてみたいんです。「これほど複雑な思考の産物、心的にこれほどこみ入ったもの」=イワン・カラマーゾフが小説に現れたことは ── ドストエフスキー自身の作品を除けば(しかし、私の頭にエミリ・ブロンテの『嵐が丘』がよぎりもしますが)──「かつて一度も」なかったのじゃないでしょうか? イワン・カラマーゾフを表現すること ── そのためにはかつてない表現方法が必要でした。ドストエフスキーは「人間」というものへの認識を、その認識のありかたを恐ろしいやりかたで切り開いてしまった作家だと私は思います。その切り開きかたを私は問題にしているわけです。 |