「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) しかし、手綱を緩めずに先へ進みましょう。 イワンはスメルジャコフとの三度めの対面で、フョードルを殺したのがミーチャではなく、スメルジャコフであることを知ります。
もちろん、イワンの想起しているのは例の「悪魔」です。イワンは「悪魔」が自分の幻覚だと承知しています。だから、いま目の前にいるスメルジャコフも自分の幻覚ではないのか、と疑うわけです。ところが、偶然にも、スメルジャコフが ── いいですか、イワンとスメルジャコフとはそれぞれにべつのことを考えているんですよ。スメルジャコフはイワンの「悪魔」なんか知りません。彼には彼のこの二か月があり、その間に生じた変化があるんです。それで ──「第三の存在」などといいだすんですね。とたんに、やっぱり「悪魔」は実在するんだ、あれは自分の幻覚なんかじゃなかったんだとイワンは思い、怯えるんです。アリョーシャとの会話と同じことです。
イワンは「悪魔」が自分の幻覚であるという認識と、実在するものだという認識との間を「行ったり来たり」します。これはちょうど、フョードルを殺したのが自分ではないという認識と、自分だという認識とのひっきりなしの往復に重なりもします。
いいですか、スメルジャコフでさえ、このイワンをいぶかしく思ったんですよ。それほどにイワンは怯えきっていたんです。
イワンはそれでもまだ殺人犯がドミートリイであることに希望をつなごうとしています。
しかし、もはやスメルジャコフもいいたいことをいいます。
イワンはある意味、「真実」に恐ろしいほど接近していました。しかし、それでもまだ彼は「真実」を直視できません。このときでもイワンはやはり彼とスメルジャコフとの関係 ── これまで通りの上下関係 ── においてしゃべっているにすぎません。彼はスメルジャコフを「人間と見なさず、どうせ蠅くらいにしか見ていない」んですよ。
「「神さまが見ていらっしゃる」イワンは片手を上にあげた」ですね。しかし、彼のいう「神さま」はついさっきスメルジャコフの口にした「神さま」であって、イワンの考えている「神」ではありません。スメルジャコフが相手だからこそできた言明です。 ところで、この同じ夜に片手を上にあげた人物がもうひとりいました。
アリョーシャのあげた「右手」とイワンのあげた「片手」との違いを考えてみてくれませんか? また、ミーチャとイワンとの違いについても考えてほしいんです。どうでしょう、このときにもミーチャは「イワンを愛してやってくれ!」といっていたじゃないですか? ミーチャには誰彼にそういう気遣いをする懐の深さ ── 彼にはいろんな誰彼の「人間の顔」が見えていて、いつもその「人間の顔」に直進していくし、また返答を求めるんですね ── があるんです。イワンにはけっしていえないことばです。 ともあれ、イワンはスメルジャコフのいる小屋を出ます。
悲しいことに、イワンのこの「幸福な気持」というのがまたしても彼の「部分部分ばらばら」の一部にすぎないと私は思っているんですよ。 スメルジャコフとの二度めの対面の終わりはこうでした。このときの方がまだイワンにとってよかったと私は思っているんです。
右の引用部分について、私は以前にこういいました。
それでも、まだこのスメルジャコフとの二度めの対面の後の方が、三度めよりもイワンにとってよかった、まだ彼が「真実」に向き合おうとしていただろうと私は思うわけです。 三度めの対面の後のイワンの「幸福な気持」も、実はやはりスメルジャコフこそが犯人だったという表面的事実に頼った結果にすぎないだろうと私は思うんです。表面的事実として、単にミーチャからスメルジャコフへと犯人が移動したにすぎません。いまだに彼は「真実」に、フョードルの「人間の顔」に、あるいはミーチャの、スメルジャコフの「人間の顔」に、また、ありとあらゆる「人間の顔」に向き合うことをしていません。イワンはただ表面的事実の処理を行なっただけです。そう私には思えてならないんですね。 引用を繰り返しますが、
── やれやれ。イワンがここでいっている「罪」が何であるかといえば、最先端=亀山郁夫のいう通りの「罪」ですね。つまり、法的にどうか ── 他人の目から見てどうか ── ということでしかありません。しかし、もちろん読者はここでイワンの認識が甘すぎること、彼がこの期に及んでまだこんなことをいうのか、と首を振るのでなければなりません。間違っても、この二か月間のイワンが狂気に陥るほど苦しんできたのが、法的にどうかなどという視点での「罪」だなんて考えてはなりません。このイワンの台詞は、単純に相手がスメルジャコフだから口にされたものであって、しかも法廷で云々できる「罪」を問題にしているだけです。表面的事実に沿ったことを口にしているだけ、彼がまだこの程度の(甘い)認識にすがろうとしていたことの表現にすぎません。これを、「何だ、やっぱりイワンは自分の行為が法に触れるかどうかを気にかけていたんじゃないか」なんて考えたひとがいるなら、そのひとも「最先端」ですよ。 イワンはまだ「真実」を回避しつづけます。しかし、「真実」の方で彼を追い立てます。イワンはそれに耐え切ることができません。これを表現するのに、語り手は彼を「部分部分ばらばら」にするんです。 イワンの「幸福な気持」とミーチャのこれと比べてみてください。
もう私は後でいおうとしていたことをいってしまっているだろうと思いますが、ここはとぼけて、まだしゃべりつづけます。 イワンの「幸福な気持」は、まだしばらくの間持続します。
イワンはアリョーシャにこう問いかけたばかりでした。
彼の「幸福な気持」は唐突に失われます。
翌日の法廷ではイッポリート検事にこういわれましたね。
しかし、検事のことはどうでもよくて、そんなことより、これを思い出しますね。
ゾシマ長老のそのことばにつづくのはこうでした。
どうでしょう? それらはイワンに最もできないことじゃないでしょうか? いや、いってしまいましょう。イワン・カラマーゾフに欠けているもの、それさえあれば彼が救われるはずのもの ── それはこれなんです。
もう一度先ほどのミーチャ。
イワンにはこの覚悟がありません。彼はミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすること、ですね ── を頭では理解することができますが、心で感じること・信じることができないんです。いや、彼の「部分」はミーチャの「讃歌」に圧倒的な共感を覚えているはずです。このことの、底の底まで考え抜いている自分をさしおいて、愚かなミーチャなんぞが「讃歌」に酔いしれやがって、と彼は思っているに違いありません。「讃歌」を本当に歌うべきなのはミーチャではなく、この俺・イワンなのだ、と思ってもいるでしょう(同様に、彼は彼の「すべては許される」をろくに理解もせずに殺人を決行したスメルジャコフに憤ってもいたでしょう)。しかし、彼のべつの「部分」はそんな共感に大笑いし、嘲っているんです。おやおや、君は本気で馬鹿みたいに「讃歌」なんぞ歌うのかい? ── そんなふうに、彼の「部分部分」が互いに争います。 イワンに欠けているのは、彼が「すべての人に対して罪がある」という自覚です。しかも、この自覚は必ず「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。これこそが ── 「謙遜な勇気」(キルケゴール)を持って ── 個々の「人間の顔」に向き合うことです。しかし、イワンは個々の「人間の顔」に向き合うことなしに「人類全体」の幸福などを考えつづけたあげく、フョードル殺害の後でもそれにしがみつこうとしたために自滅することになるんです。 イワンが自滅する・狂気に陥っていく ── 分裂してはいるけれど、結局ひとりの人間であって、一個の身体でしかないイワンに生じたこと。そのことで、ちょっとわかりやすい例を提示してみます。これは十数年前の ── ほぼ一年間の ── 私自身の実際の話ですけれど、ある日、右耳の上部の毛髪がごっそりきれいに・つるつるになくなっていたんですね。そのしばらく前から洗髪していると、かなりの抜け毛のあることは認識していました。しかし、そんなことになっているとは思わなかった。もうそこからはどんどん毛が抜けていきました。頭にちょっとさわるだけで、抜け毛が手のひらいっぱいになるという毎日。風呂に入るたびに排水口の蓋から山盛りの毛髪を掬い上げなければならない毎日。結局、頭髪のほとんどが抜けてしまいました。円形脱毛症が群発したというわけです。医者にはストレスが原因だといわれました。私にはそんなストレスの自覚がありませんでしたし、周囲にもそういいつづけました。しかし、実のところ、もしかすると、と思い当たるふしがないでもありませんでした。しかし、たとえ、それがまさに当のストレスであったにせよ、そんなつまらない ── 私にはそう思われました ── もののためにこれほどの脱毛が起こるなどということは信じられませんでした。 それで、私の思ったのはこういうことです。いくら自分が心でそのストレス(とおぼしきもの)に対して平気だ・大丈夫だ・どうってことないと考えているにせよ、身体の方でその心についてこれないことがあるのだ。人間にとって身体とはそのようなものなのだ。身体の方が心より正直なのだ。だから、逆に身体から心を推測・判断する方が、私自身の直面している現実の問題を正確に認識することになるのではないか? これをそのままイワン・カラマーゾフに適用することができると私は考えます。この原理で、イワンは狂気に陥っていくんです。 しかも、イワン自身が、自分のこの「部分部分ばらばら」のからくりを承知してもいたでしょう。だから、なお始末が悪いんです。
どうですか?「僕は君に信と不信の間を行ったり来たりさせる」── イワンはこのからくりを自分ですっかり承知しています。しかし、これはいくら承知していようが、自力で脱出するのは不可能に近いからくりなんですよ。
ゾシマ長老にイワンは真剣に問いました。ゾシマ長老はそのイワンを正確に見通していました。 スメルジャコフがイワンの思想をを正確に ── そっくりそのまま、その成立過程をもまるごと含んで、つまりイワンががんじがらめになっているからくりごと ── 理解していたならば、絶対に殺人を決行することなどできませんでした。なぜなら、イワンの思想は「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されない」ものだからです。スメルジャコフはイワンの思想を自分のために利用しただけです。もっとも、それなしに彼には行動することができなかったでしょうけれど。 「すべては許される」というイワンの思想は、彼が「行ったり来たり」する「信と不信」の片側にすぎません。イワンがそのどちらかであるということではありません。その往復の運動こそがイワンなんです。そうである以上、本来イワンには何もできるはずがありませんでした。 イワンは「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されない」はずだった自分の思想が、こうまで愚劣な形で現実化してしまったことに動揺してしまうんです。 そういうイワンにさしのべられる手がアリョーシャの「あなたじゃない」なのだ、と私はいいます。これもおさらいですが、私は以前にこういいました。
「イワンが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」=「殺したのは私だ」)」については、イワン自身のことばから、これらを引用しましょう。
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