「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) しかし、またべつの側面から私はしゃべってみましょう。「悪魔」はイワンにこういいます。
さらに、
「悪魔」はそうやってイワンを「よいしょ」します。イワンをくすぐりつづけます。そうやっておいて、いきなり彼を突き落としもするんです。
もっと前に「悪魔」はこうもいっていました。
もちろんイワンは当の「《良心の呵責》なんてもの」に苦しみ、「「真実の裁可」なんぞ」を必要としているんです。「悪魔」はこうしてイワンを思うがままにいじり、愚弄するわけです。 もちろんイワンは「いずれ蝗を食として、魂を救いに荒野へさすらいに出る」つもりだったんですが、悪魔の手前、それをそのまま認めようとはしません。でも、そのことは是非とも訊ねてみたいわけです。訊ねるけれど、自分の先行者たちを「十七年も荒野で祈りつづけて、苔の生えたような人たち」などと表現する(いったい、そのイワンがいま何歳なんですか? そのことを思い出してください)。しかし、その「苔の生えたような人たち」こそ悪魔が誘惑したい存在・悪魔が価値を認めた存在だということがわかっている。悪魔にそれほどまでに誘惑される人間こそ高度に信仰している人間なんですね。それで、イワンは自分がそういう「高価」な「ダイヤモンド」でありたいと思っているわけです。「同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」人間でありたいんです。つまり、そうであるからには、「《まっさかさまに》転落」するすれすれの位置にいたいわけです。それどころか、「《まっさかさまに》転落」することは、彼にとって非常に魅力的なことでもあるでしょう。「《まっさかさまに》転落」できるからには、つまり、それほどの高さにいたというわけです。その高低差こそが彼自身の価値なんです。その高低差が大きければ大きいほど、彼の魂は悪魔にとって「高価」な「ダイヤモンド」であるんです。 これが「若い思想家で、文学と芸術の大の愛好家で、『大審問官』と題する将来性豊かな叙事詩の作者」なんですよ。
このアリョーシャとの対話はこうつづくんでした。
「非力な反逆者ども」・「《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》」=「人類」を盾に、イワンは「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」=キリストを避けます。「人間の顔」を正視しない・できないことによって避けるんです。それは、こういうことでもあります。イワンは、神の前で傲然と頭を上げていようとしているんです。彼は誰にも頭を下げたくありません。彼にはへりくだることができない。「謙遜な勇気」(キルケゴール)がないんです。もう一度いいますが、彼はミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすること、ですね ── を頭では理解することができますが、心で感じること・信じることができないんです。イワンはあくまで傲然と自分自身であろうとします。彼はこの世界のありとあらゆるものを自分で理解したい、この世界の意味を最後まで見届けたいんですね。それを見届けるのは必ず自分でなくてはならないんです。彼は保証をとりつけたい。神にそれを委ねるなんてまっぴらごめんなんです。
イワンには、最終的に ── それがいつのことなのか、誰にもわかりません ── どういう結果になろうが、とにかくいまこの瞬間に生きている人間として、神の前に立ち、自らへりくだり、「人間の顔」を正視し、自身を投げ出すということができないんです。彼はいますぐに「結果」を知りたい。「結果」は保証されなければならないんです。実は、そういう「結果」── それがいつのことなのか、誰にもわかりません ── は、とにかくいまこの瞬間に生きている「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間がそれぞれに自身を投げ出すことの長い長い連鎖・継続・継承によってしかもたらされるはずのないものなんです、たぶん。イワンはしかし、若く性急です。自分が「十七年も荒野で祈りつづけ」るなんてことすら冗談ではないわけです。彼にはまだ「謙遜な勇気」を持つことができません。彼は自分自身をいまあるままに保ちながら、いますぐ「結果」を知りたい。自分を無にしたり、犠牲にしたり、礎石にしたりすることなしに、いますぐ「結果」を知りたい。「結果」を知ってなら、「信仰」もしようというんです。しかし、いまこの瞬間の自分の「信仰」が最終的に無駄になるのだとしたら、「信仰」なんかごめんです。保証が得られないのだったら、自分は好き放題にやるよ、というんです。それが「すべては許される」です。損なことはしないんですね。といいつつ、「結果」は気になるんです。 しかし、私はゾシマ長老のこれを引用しておきます。
それはともかく、話を戻しますが、レヴェルの差はあれ、イワンと同様のことを考えていた人物がもうひとりいました。フョードル・カラマーゾフです。つまり、フョードルとイワンとに共通しているものが何かというと、ふたりとも「真理」を気にかけてはいながら、自分の生きているこの現世でどうするのが損なのか得なのかを考え、損得を基準にもろもろを選択するということです。フョードルは自分を投げ出さずにいて、「真理」の不備を盾に、いろいろなものを掠め取ってしまおう・ちょろまかせるものはちょろかましてしまおう、と考えています。神があるなら、この自分をこんなふうに好き放題にふるまわせておかないだろう、しかし、いまのところ自分は好き放題だ、だったら、このままやりたい放題でいこう! 悪いのは神やら「真理」やらの怠慢さ! レヴェルはまったく違いますが、フョードルの考えていることとイワンの考えていることは同根です。
ともあれ ── 、
どうですか?
── ですよ。フョードル自身がそもそも作品の最初の方でこんなことをいっているんですね。しかも、彼が話しているのはアリョーシャです。相手がアリョーシャだからこそフョードルもこういうことがいえるんです(イワンも相手がアリョーシャであれば、普段の自分がけっしていわないことを口にすることができます)。これはフョードルの本音です。こうなると、「あなたじゃない」に絡む要素が『カラマーゾフの兄弟』の全体に隈なく行き渡っていることが、あらためてわかってもらえるのじゃないかと思うんですが、まあ、それはともかく、先ほどいったことをもう一度いうことになりますが、フョードルはやっぱり自分の生 ── 現世 ── の後にあるもののことを心配しているんですね。「真実」のことを心配しているんです。彼もいますぐ「結果」を知りたいくちなんです。最終的に「真実」が不問に附されるのであれば、この世で得なのは、好き放題にふるまうということだと彼は考えているんですね。でも、彼は心配でならないわけです。これは彼にとって非常に重要な、焦眉の問題でもあるんです。もし「神」があるのなら、彼はとんでもない間違った一生を送ってきたことになるんです。「不死」も同様です。「神」も「不死」もないなら、彼のこれまでの生涯は正しい ── やり得ということです ── んですが、それでも、やはり「真実」がものをいう ── やり得なんかとんでもない ── ことがなければ、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞと思いもしているんです。 フョードルが「道化」なのは、彼にものを見る目があるからです。つまり、本来自分や他人はどうあるべきかという視点があるということです。彼は自他の偽善やごまかしをはっきり認識します。しかし、どうやらこの世のなかでは正しさなんかどうでもいいらしいことが彼にはわかっています。だから、彼はわざと自分のいやらしさを誰彼に誇張してみせ、不快な思いを味わってもらうんですね。どうだい、これが現実ってものさ! お高くとまってみせたって駄目さ、何をお上品にふるまっているんだい? 世のなか、どんな愚劣なことでもやったもん勝ちじゃないか! でも、彼は「真実」を恐れています。
また、以下の引用は非常によくフョードルの人間性を表現しています。
さて、そのイワンが「悪魔」にこう訊ねるんでした。
まさにイワンの問いは「真剣」です。つまり、先のフョードルの問いこそはまさにイワン自身の問いだったんです。「まったくの無ですよ」だなんて冗談じゃありません。フョードルに対してはそんなふうに茶化しながら答えつつ、実はそれこそイワンの最も知りたいことだったんですよ。この「悪魔」との対話は、イワンが本音をぶちまけるにふさわしい舞台なんです。そう認識したうえで、フョードル、イワン、アリョーシャによる先の対話を考え直してほしいんです。それがどれだけの重量をかけられた描写だったか。 さて、最先端=亀山郁夫が先のフョードルとイワンとの会話についてどう書いていたでしょう?
全然違います。何が「イワンが「いない」と言うのも当然である」ですか。まったく「超」のつくほどの「最先端」です。もう一度いいましょう。誰かこの「最先端」を止めろよ、この「最先端」を何とかしろよ、と私は思います。こんな「最先端」にイワン・カラマーゾフがわかっていたはずもありません。また、そうなると、イワンとフョードルとの類似が正しく認識できていたはずもありません。最先端=亀山郁夫にはイワン・カラマーゾフのみならず、フョードル・カラマーゾフがまったくわかっていません。しかも、この場面にはもちろんアリョーシャがいたんです。この場面は、フョードルという人物をよく表現すると同時に、イワンがアリョーシャを意識的に試すということをも表現しているんです。もちろん、です。何だって私はわざわざこういわなくてはならないんでしょう? 全部、最先端=亀山郁夫のあまりの「最先端」ぶりのせいです。
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