「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) しかし、私はまだイワンとフョードルとについてしゃべっておくべきだろうと思います。ふたりが同根の考えを持っていたとはいいましたが、補足として、たしかに同根の考えを持ってはいたにせよ、実はふたりがどう違うのかということをしゃべりたいんです。 私はこういいます。フョードル・カラマーゾフは個々の「人間の顔」に向き合っていました。ただし、ミーチャのような「他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりする」ふうにではないですよ。ここで、いささか的外れな引用をしてみますが、実はこれらは非常に大事なことなんです。
ゴルストキンには、後でミーチャがひどい目にあっていますよね。
フョードル・カラマーゾフには、個々の「人間の顔」と向き合う必要がありました。そうでないと、彼は財産を増やすことができないばかりか、生活もしていかれないんです。だから、彼はこれまでも実にたくさんの個々の「人間の顔」と向き合うことでやってきたんです。これは彼の死活問題です。そうやって彼は世のなかを渡ってきたんです。ある意味では、彼は自分が実際に向き合った個々の「人間の顔」だけを大事にしていたのでもあるでしょう。個々の「人間の顔」を自分がどう読み取るかということに彼の注意は集中していたでしょう。個々の「人間の顔」とどう取り引きするかということが、彼の全人生だったでしょう。それが、彼の人生の手触りであり、手応えでもあったでしょう。彼は確実な「人間の顔」をとらえようとしていたんです。「人間の顔」の見える確実な範囲で行動することにしていたわけです。これをいい換えると、フョードルは「限度」を知っていたということになります。 しかし、イワンはそうではありません。彼は個々の「人間の顔」を見ようともしない。いきなり「人類全体」のことを考えるんです。彼は誰のことも軽蔑しています。彼にはフョードルの感じていた「人生の手触り」だとか「手応え」がありません。そういうものがあるのを承知していても、拒否してしまうんですね。「人間の顔」なんか邪魔なだけです。イワンにとって「人間の顔」とは、愛を妨げるものです。
そうして、イワンは個々の「人間の顔」に見向きもせず、一足飛びに「人類全体」のことを考えるんです。フョードルがけっして離れようとしなかった範囲 ──「人間の顔」が見える確実な範囲=「限度」 ── から逸脱します。イワンはフョードルよりもはるかに高度な思考を試みます。私の使ったことばでいえば、フョードルの「やり得」なんかは、イワンにしてみればものすごく「せこい」わけです。なぜなら、フョードルにとっては、「神や不死は存在」する懸念があるために、「やり得」もごく狭い範囲で、掠め取るようにしなくてはならないからです。もし「神や不死が存在」していたら、大変なことになりますからね。それがイワンには非常な醜態にしか思えません。何をびくびくしているんだ? だから、イワンは「神や不死は存在しない」と宣言するんです。「もし存在していたら、大変」なんてみみっちいことをいわずに、「存在しない」といい切るんです ── というのは、もちろん彼の「部分」です。べつの「部分」は「神や不死は存在している」と信じています。しかし、「存在している」なら、どうしてこの世のなかはこんなに愚劣なんだ? こうして彼は「信と不信の間を行ったり来たり」するんです。 こういうイワンをフョードルならどう評価するでしょう? フョードル自身のことばを用いて、後にイワンがこんなことをいいます。
右の会話は、ラキーチンの話題から移ってきたもので、ミーチャはこういっていました。
さて、ラキーチンのことば「人類」にも注目しておいてほしいですね。ともあれ、もうひとつ再引用しますが、
ラキーチンは「得をした」連中のひとりです。彼にはイワンと違って「良心の呵責もへちまもない」んです。 しかし、ミーチャの「これはもうラキーチンより純粋だな」で対比されるべきラキーチンのことばはこちら。
さて、それで「うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方だけは正しかったよ」というイワンのことばですが、この文脈上、普通に読めば、フョードルには良心があった、つまり、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞ、どうして「真理」が輝かないんだ? 輝くべきなのに! と考えていた、ということになるでしょう。ラキーチンなんかとは全然違うわけです。「まだ良心や誠意の残っていたまともな人たち」のひとりということです。イワンと同じです。しかし、このスタートの認識は同じでも、フョードルのような「だらしない子豚同然」なんかではない自分=イワンはもっと高度なことを考えている、ということです。 で、「だらしない子豚」というイワンの用いたことばですが、フョードルの ──
── 中の「小さな子豚も同然」を踏まえているでしょう。この会話の場に居合わせて、なおかついまミーチャから話を聞いているアリョーシャにはそれがわかったでしょう。 イワンにしてみれば、「お前たちにこれがわかるかい? わかるはずはないさな。お前らはまだ、血の代りにオッパイが流れてるんだし、殻が取りきれてないんだから!」なんていわれるのは非常に心外なんですよ。どっちが「子豚同然」なんだか! と思っているんです。 しかし、イワンは自分が若すぎることを意識もしていました。そうして、それを逆手に取りさえしていました。
さらに、
イワンの「俺はせいぜい三十まで生きのびりゃいい」は、フョードルのようになりたくないということでもあります。イワンは、自分がいくら「カラマーゾフ流」にやっても、三十を過ぎればフョードルのようになってしまうと考えているでしょう。 まだ「子豚同然」についていいますが、私は、以前に『カラマーゾフの兄弟』ロシア語原典における「人類」・「人類全体」・「全人類」と「人間」・「多くの人たち」・「すべての人々」とに当たる語を調べてもらったロシア文学に詳しい友人に、今度も訊いてみたんですが、フョードルの「子豚」もイワンの「子豚」も同じ単語です(複数形・単数形の違いはありますが)。その際、友人は次の箇所についても指摘してくれました。
ついでにいいますが、これを思い出しませんか?
もうひとつ、ついでです。「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」について。これも再引用です。
どうですか? まさにそっくりそのままイワンのためにあるようなことばじゃないでしょうか? そして、イワンには絶対に受け入れられないことばでもあるはずです。 おさらいしますよ。
これに対しての、
── だったんですし、「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」に対する、
── というわけです。 どうですか? まるでイワンのために語られたことばみたいじゃないですか? そうして、イワンにこれらのことばを受け入れることができますか? もちろん、「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」なんてつもりじゃ駄目ですよ。イワンには相手に対して「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」のでなければならないんです。くどいようですけれど、イワンがアリョーシャの「あなたじゃない」を受け入れるためにも、誰彼に対しての「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」ということができなくてはなりませんでした。なぜか? 「あなたじゃない」を受け入れるためには、自分が「すべての人に対して罪がある」という自覚がなければなりませんから。しかも、この自覚は必ず「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。「ほかの人」との「つながり」が絶対に必要ですし、自分がへりくだって、「神の前」で無に等しい存在にならなければなりません。自分の「孤独」と「離反」を放棄しなくてはならないんです。イワンはこれを拒絶するんです。
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