「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) さて、「悪魔」がイワンを籠絡しようとするには、イワンの「良心」の傷口に塩を塗りこめ、苦痛をもたらすことが必要でした。「悪魔」が持ち出す論点は必ずそこに触れるものでなくてはなりません。「悪魔」が執拗に攻撃するのは、イワンの弱点に対するものでなくてはなりません。「悪魔」はイワンの「信仰」を逆手に取り、逆説的に彼をやりこめなくてはなりません。「悪魔」からしてみれば、イワンが「信仰」していればいるほど、落としがいがあるんですよ。「信仰」すれすれの「不信」こそ「悪魔」の望むものなんです。それこそが「ダイヤモンド」なんですよ。イワンは神を信じています。しかし、彼は「ダイヤモンド」でもありつづけたいんです。彼が「ダイヤモンド」であることを保証してくれる存在こそが「悪魔」(=イワン自身)だというわけです。これがイワン・カラマーゾフです。
しかし、私はイワンの「うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方だけは正しかったよ」についてしゃべっていたんでした。私は「普通に読めば、フョードルには良心があった、つまり、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞ、どうして「真理」が輝かないんだ? 輝くべきなのに! と考えていた、ということになるでしょう」といいました。「普通に読めば」です。それで十分だともわかっています。でも、私はそうではなく、イワンのことばをある種の敗北宣言のように読んでしまうんですね。つまり、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞ、どうして「真理」が輝かないんだ? という同じ認識からスタートしているにもかかわらず、イワンと違って、フョードルが「人間の顔」の見える確実な範囲=「限度」から逸脱しようとしなかった ── 「人類」やら「すべてが許される」なんてものに踏み込まなかった ── ことについて、その手堅いやりかたについて「正しかった」とイワンがいったように思えてならないんです。イワンが自分の「限度」を超えた思想と、その思想を抱えることの苦しさとを嘆いたように思えてならないんです。 また、彼はいっそのこと自分の抱えている思想はおろか、フョードルのレヴェルでの「真理」の認識さえも手放してしまえるなら、どんなにいいだろうとも考えているんです。「悪魔」がこういいます。
もうひとつ。
それで、「百キロもある太った商家のおかみさん」についてちょっと。彼女について考えるとき、いつも私はあるべつの作家の作品を思い浮かべてしまうんですが、なぜそうなったのか、両者を結びつける誰かの文章をどこかで読んだことがあるせいなのか、それとも、これから私の引用する箇所についてだけの誰かの文章を読んだときに私が彼女のことを思い出したのか、どうしても思い出せないんですね。いまも、ネット上でいくらか検索してみたんですが、すぐには見つけられませんでした。もっとも、これまでにも誰かしらが必ずどこかで両者を結びつけているはずなんです。また、それをいうなら、私がここまで『カラマーゾフの兄弟』についてしゃべりつづけてきたことも同様なんです。 私はここで引用する作品を十代の終わりに読んだんですが、いまほとんど内容を覚えていません。引用するにあたっても、作品全体を読み返していません。そういうわけで、どういう事情でふたりの人物が左のような会話をすることになったのか、わかりません。このことからも、私がやはりいつかどこかで、誰かが書いたこの会話についての文章を読んでいるに違いないと思われます。
さあ、どうでしょう?「百キロもある太った商家のおかみさん」も「太っちょのオバサマ」も「悪魔」(=イワン)、ゾーイー、フラニーにとって、「いったいこの自分に何の関わりがある?」という存在、自分から最も遠い存在であるはずです。「百キロもある太った商家のおかみさん」も「太っちょのオバサマ」も彼らにとってある種、侮蔑の対象 ── 自分が最もなりたくない存在 ── でしょう。おそらく、彼らの抱えているような悩みを抱くこともない存在、ある意味、彼らより知的にも、自尊心という点でもひどく劣った存在として想像されているでしょう。べつのことばでいうなら、「ダイヤモンド」から最も遠い存在です。だからこそ「悪魔」(=イワン)は、わざとでもそうなりたい、というわけです。 しかし、サリンジャーによる、ゾーイーとフラニーとの会話は、そういう存在のために、そういう存在のためにこそ自分たちが何かをする、それが大事なんだ、というわけです。そのことによって、「太っちょのオバサマ」の意味は当初の意味から逆転します。それは、そういう認識に立ったゾーイーとフラニーが彼女より下に立つということです。 また、ゾーイーの「スタジオの観客なんかみんな最低だ、アナウンサーも低脳だし、スポンサーも低脳だ、だからそんなののために靴を磨くことことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね」は、イワンの「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」あるいは「あんな百姓どもにほめてなんぞもらいたくないよ!」と呼応してもいるでしょう。 サリンジャーは必ず『カラマーゾフの兄弟』の「百キロもある太った商家のおかみさん」を意識していたでしょうし、彼がもっと後に書いた「シーモア ─ 序章 ─ 」のエピグラフにはキルケゴールの『死に至る病』が引かれています(この箇所はまた後で引用します)。 それはさておき、こうして『カラマーゾフの兄弟』から「ゾーイー」へと連想が働いてみると、今度はそこから、これを思い出しますね。ロシアの民衆についてのゾシマ長老のことばです。
あるいは、
あるいは、
もうそうなると、当然に、
というより、もう私はゾシマ長老のことばの全文を引用したいくらいなんですね。 私のいいたいのは、こうです。 ゾーイーの「この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分らんだろうか? ……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ」を、私は『カラマーゾフの兄弟』の読者としてこう読み換えます。「太っちょのオバサマ」にこそキリストはついていてくれるんですよ。このとき、ゾーイーにもフラニーにも確実に「太っちょのオバサマ」の「人間の顔」が見えています。
しかも、ふたりはそんな「太っちょのオバサマ」のためになにかをする、それが大事だ、というふうに考えているわけです。 さて、この世界に存在する無数の「太っちょのオバサマ」たちが、イワンには「非力な反逆者ども」・「《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》」=「人類」なんてものにされてしまうんです。つまり、イワンには「太っちょのオバサマ」の「人間の顔」が全然見えていない。それどころか、彼は見ようともしないんです。 しかし、あなたは「太っちょのオバサマ」たちの「人間の顔」を見なくてはなりません。またも引用しますが、その姿勢は、
── なんです。なぜなら、あなたには「すべての人に対して罪がある」からです。私はずっと同じことばかり繰り返していますが、どうでしょう? これで私のいいたいことがわかってもらえたでしょうか? そして、「すべての人に対して罪がある」という自覚には必ず、「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。そうでなければ、この自覚は持ちこたえることができないでしょう。ここでは本当に他の誰彼との「つながり」が大切なんです。その「つながり」とは、ゾシマ長老のいう「すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一個所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである」でいわれているような「つながり」です。また、ミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりする ── の、その「つながり」でもあります。ところが、イワンには誰に対しても「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」ことができません。だから、彼は「孤独」と「離反」とに陥り、「悪魔」(=自分自身)と対話するんです。 イワン・カラマーゾフはそういう人物です。彼は分裂していて、「信と不信の間を行ったり来たり」します。「信仰」すれすれの「不信」にいます。「不信」も同然の「信仰」にいます。「とにかく同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」人物、悪魔にとっての「ダイヤモンド」です。しかし、彼にはどうしても神の前に自分を投げ出し、へりくだることができません。彼は神の前で頭をさげず、一個の「ダイヤモンド」としてありつづけたいんです。彼は一方で「讃歌」を歌いたい。他方、彼はすべてを見届けたい。神にすべてを委ねるなんてまっぴらです。 そんな人物を表現することがどんなに難しいことであるかを考えてみてください。イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』において不確定的な表現ばかりで描かれているのは、そういう事情によるものです。繰り返しますが、作品の構造上でも、イワンのこの不確定的なものに対して加えられる一撃 ──「あなたじゃない」── は必ず確定的なものでなければなりません。不確定的なものに対する一撃が同じく不確定的なものであってはならないんです。不確定的なものを動揺させるもの、破壊するものは必ず確定的なものでなくてはならないんです。「あなたじゃない」に一切のあいまいさはありません。 「悪魔」はイワンを不確定的なもののなかに隔離します。彼を不確定的なところに留めおこうとするわけです。「悪魔」は「ダイヤモンド」をさらに磨かれたものにしようとするんです。イワンには自分でこのからくりがわかっています。わかっているということが、まったく始末に負えないわけです。彼は自身「ダイヤモンド」でありたいんです。彼はこの誘惑に勝てません。 |