「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) さて、私はこれから「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」についてしゃべるつもりなんですが、その前にちょっとだけ寄り道をして、もう一度、最先端=亀山郁夫の例の文章に戻ります。
これは「ゾシマ長老の回想と説教 ── 大成の道」という小見出しを付けられた文章の一部なんですが、この文章、まず出だしからこんなふうです。
最先端=亀山郁夫が「大きな罪」というのは、むろん例の「法的にどうか」という観点からの「罪」── たとえば殺人とか強盗 ── ですね。そうでなければ、「現代社会では、人は、少しでも罪を犯したら終わりであり、命とりとなり、脱落を迫られ」ることがありません。ということは、つまり、人間は、たとえば殺人を犯すことによって「はじめてある世界に到達できる」、それが「大成の道」だ、ということになります。何ですか、これは? で、いったい誰の信念なんですって? 誰がそんなことを説いているのか? 最先端=亀山郁夫はこうつづけます。
つまり、現代では「大成」したくても、おいそれと殺人なんかできないなあ、どうしたらいいんだろう? ということです。 これ以前にべつの箇所で、最先端=亀山郁夫はこう書いていました。
これが典型的な「最先端=亀山郁夫的読書」です。すぐに「偉大な罪人」だの「聖性の高み」だの、作品に勝手な余計な意味をもたせて、派手な「まとめ」をやらかす読書です。そういう読みかただから、ゾシマ長老にも他人にいえない派手な犯罪を期待してしまうんです。ひどすぎる。私は『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、「偉大な罪人」だの「聖性の高み」だのを思い浮かべたことなんか一度もありません。いいですか、ゾシマ長老はごくふつうの人間ですよ。彼を妙なふうに特別扱いした読みかたで読んではなりません。ただ作品中に描かれたそのままの人物像を読めばいいだけです。いいですか、作品を自分に合わせちゃ駄目なんですよ。自分を作品に合わせるんです。作品を自分の貧弱な想像力に見合ったものに変えて、ないものねだりの読書なんかしちゃいけません。 しかし、話を戻しましょう。 最先端=亀山郁夫はこうつづけます。
何が「ゾシマ長老の教えが現代的な問題を深くはらむとすれば」ですか? 最初から「「すべてに対して罪がある」という思想」についてだけをいっていればよかったものを。ともあれ、いま私が指摘したことだけで、最先端=亀山郁夫の読書が最先端だということがおわかりいただけたと思います。彼の「解題」は「作品を自分の貧弱な想像力に見合ったものに変えて、ないものねだりの読書」をした者のでたらめの集積です。こんな最先端が「翻訳者」だというわけです。 「傲慢を捨てよ」── 結構でしょう。それだけをそのまま受け取れば、たしかに間違ってはいません。しかし、最先端=亀山郁夫にはその「傲慢」の意味がわかっていません。
「傲慢を捨てよ」── 結構でしょう。しかし、「傲慢を捨てる」だけでなく、さらにずっとへりくだることをゾシマ長老は説いているんです。いや、もしかしたら、「傲慢を捨てる」ことがそのまま「へりくだる」ことなのかもしれません。つまり、傲慢と謙遜とに中間はないのかもしれません。とはいえ、最先端=亀山郁夫が「傲慢」の意味をわかっていないと私がいう理由はそれだけではありません。でも、それについてしゃべるのは、もっと後回しにします。 さらに枝分かれした先の隅っこへと寄り道をしますが、私は、先の最先端=亀山郁夫の文章中にある「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、……」について、以前にこう書いたんでした。
そうして、その私の文章と、それを引用した木下豊房の文章とを受けた最先端=亀山郁夫がNHKテキストで自分の誤りをごまかそうとしているだろうと疑ったんでした。最先端=亀山郁夫はNHKテキストでこう書いていたんですね。
さて、そもそも最先端=亀山郁夫がなぜ「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、……」なんてことを書いたのかというと、おそらくこうです。彼は以下の文章を読み誤ったんです。「最先端=亀山郁夫的読書」です。
傍線部「これほどはっきり道を示してくれた、目に見えぬ主の御指を祝福しながら、主の思召しによって揺るぎない荘厳なこの道に踏みこむ栄に浴した」は、ただ単に「それにしても、いいかい、今までに君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ」に対応しているだけのことですよ。ゾシマが修道僧になることはもう確定していました。修道僧になろうとしているゾシマを、殺人者から神が守ったということです。だからこそ、いよいよゾシマは神に感謝しつつ、「これほどはっきり道を示してくれた」というんです。しかし、最先端=亀山郁夫はこの部分から、「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんてことを読み取ってしまうんですね。さらに、自分の誤りを指摘されると、訂正するのでなく、「決闘」を「最初のきっかけになった経験」などといって、糊塗するわけです。 いやはや、こんな「最先端」、こんな低レヴェルの読み取りにいちいち批判の文章を書かなくてはならない ── 何と、もうじき一年になろうとしているじゃないですか ── 私自身にもうんざりしてきます。でも、しかたがありません。「最先端=亀山郁夫的読書」をするひとの数が恐ろしく多いからです。私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を守るために、「最先端=亀山郁夫的読書」を粉砕しなくてはなりません。いいですか、「最先端=亀山郁夫的読書」による翻訳者の『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』じゃないんですよ。何度でもいいます。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』はでたらめだらけの偽物です。 |