「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) しかし、先へ進みましょう。 「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」について、私はしゃべろうとしていたんでした。 私はここまで『カラマーゾフの兄弟』におけるイワン・カラマーゾフについての表現がどれだけ語り手にとって困難なものであったかを ── 寄り道をしつつ、過剰に引用を重ねながら ── しゃべってきたわけですが、そこで、イワンの経験することをゾシマ長老のことばに対比させてきました。どうでしょう? まるで誂えたようにそれらは呼応していたんじゃないでしょうか? それで、私はゾシマ長老のことばを、語り手による地の文章とアリョーシャによる「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉から」との別なく引用していました。しかし、実は、両者は区別されなければなりません。 この両者を区別することが、アレクセイ・カラマーゾフという人物への理解を深めることになるでしょう。 おそらく『カラマーゾフの兄弟』の読者のほとんどが、「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」によってはじめてゾシマ長老という人物に親しみを覚えたはずだと思います。この部分にいたるまでの大方の読者は、語り手が何とか否定しようと試みたにせよ、「長老」を何かいかめしい、特別の権威であって、それが自分たちふつうの人間からかけ離れているものだという印象を持ちつづけていただろう、と思うんです。ところが、ここへ来て、そうではないとわかります。ここまで来ると、ゾシマ長老の声がまったく柔らかく親しみ深いものとして聞こえてくる ── そういう経験をしただろうと思うんです。そういう読者が『カラマーゾフの兄弟』を再読すると、ゾシマ長老の声はもはや最初から、その柔らかく親しみ深いものとして聞こえてきます。 それは、逆にいうと、語り手が自身の語りで語ったゾシマ長老の声が、べつの人物(アリョーシャ)による語りで語られたゾシマ長老の声としっかり重なるということでもあります。
こうして、アリョーシャの編纂した文章は小説の語り手が公認したものです。語り手は、この文章が作品の全体を語る自分の意図と齟齬をきたすことがない、あるいは、まさにぴったりのもの・好都合なものである、と判断したということです。それだけでなく、この文章がアリョーシャ自身を如実に表現することにもなる、と考えてもいたでしょう。そうでなければ、ここをアリョーシャに委ねたりはしません。 逆に語り手はアリョーシャ自身を描くのに、このアリョーシャの原稿から引用しさえしますよね。
注目すべきことは、このときアリョーシャが自分でゾシマ長老のことばそのものを意識していたのではない、ということです。「何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかった」んですよ。もしかすると、彼の「魂」に「ひびいた声」は、ゾシマ長老の「声」で聞き取れていたのかもしれません。しかし、彼はこのとき、ゾシマ長老を想起しなくても、大地を抱きしめていたんです。あるいは、それほどゾシマ長老の教えが彼の身にしっかりと根づいていたということなのかもしれません。アリョーシャが後になって、そうだ、あれはゾシマ長老のいっていた通りだった、と気づいたのかもしれません。わかりません。ともあれ、語り手は、アリョーシャを描写するのに、実はアリョーシャ自身の文章から引用しているんです。 少し前に私はこういいました。
いま私はもしかすると非常に重要なことに触れているのかもしれないと思いますが、それはさておき、話を戻して ── 私は何がいいたいのか?
私は何がいいたいのか? 私がいいたいのは、編纂者アレクセイ・カラマーゾフが、自分の聞き取ったゾシマ長老のことばを、この『カラマーゾフの兄弟』に描かれている一連の出来事を経験した者として記しているということです。それは何を意味しているか? ここに記されているゾシマ長老の教えは、アリョーシャの理解しえた範囲でのものだということです。そこには、彼が漠然としか予感しえないものも含まれるかもしれませんが、とにかく、彼は自分がまったく理解しえなかった教えを書き記すことはできません。文章というのはそういうものです。 それにもかかわらず、ゾシマ長老のしゃべったそのままを書けばいいじゃないか、などと考えるひとがいるなら、大間違いです。そのひとは文章というものがまったくわかっていません。 私はパンフレット『故ゾシマ長老の生涯』の著者ラキーチンにも、アリョーシャが書いたようにはけっして書けやしないし、しかも、同じゾシマ長老のことばがふたりによってまったくべつの位置づけ、意味づけをされている箇所もかなりの数になるだろう、といっているんです。これに同意できないひとがいますか? います。そういうひとの考えが最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を是とする温床です。つまり、目の前にあるこの作品のロシア語原典の一文一文をそのまま訳していけば、それでこの作品全体の翻訳が完成だと考えるわけです。まったくの誤りです。『カラマーゾフの兄弟』に書かれている原典の文章のいちいちについて、それらが全体のなかでどういう意味を持つものなのか、力点はどこにあるのか、それらはどちらを向いているのか、などなど ── 全体の構造がどうなっていて、細部がどちらを指向しているのか ── を理解しえないひとに作品の翻訳なんかできるわけがないんですよ。たとえば、最先端=亀山郁夫がアリョーシャに代って、ゾシマ長老のことばを編纂したなら、どんなことになるでしょうか? アリョーシャの文章すらろくに読み取れないこの最先端なんかの手にかかれば、さぞかし扇情的で軽薄な代物が出来上がることでしょう。このことがわからないひとは、もう「文学」から足を洗え、とまたしても私はいっておきます。 これも再引用します。
それにしても、私は何がいいたいのか? アリョーシャは、自分の聞き取ったゾシマ長老のことばを自分がどう受け止めたか・どう理解したかのみならず、他の誰彼に対してどう伝えるか、ということを考えなくてはなりませんでした。そのうえで書かれた文章なんです。 いいですか、「たかだか二十歳になるかならずだった」若者の文章なんですよ、これは。しかし、アレクセイ・カラマーゾフは恐ろしく頭がいい。もしかすると、イワンにひけを取らないほど優れた知性の持ち主じゃないでしょうか。彼が、いわば天真爛漫に・無邪気に神を信じているなんて考えてはいけません。それどころか、彼は、兄イワンに何が起こっているのかを正確に見極められるほど「不信」について知っていたんです。いうまでもなく、これはゾシマ長老もです。アリョーシャとゾシマ長老とは、確かに「信仰」のひとではあるでしょうが、「不信」のからくりについても熟知していました。だからこそ、ふたりは力を尽くして「信仰」を誰彼に説く ──「あなたじゃない」をいいつづける ── んです。このことを認識して読むか読まないかということが『カラマーゾフの兄弟』の読書において、読者の読み取りの重大な分かれめにもなるでしょう。 私はだいぶ以前 ── およそ十か月前 ── にこういいました。
それはともかく、アリョーシャ編纂によるゾシマ長老のことばは、単にゾシマ長老のことばであるだけでなく、アリョーシャの理解の範囲内のものであること、アリョーシャが他の誰彼に伝えたいことでもあることに念を押しておきます。しかも、アリョーシャはそれをいわば自戒の糧ともしなくてはならなかったでしょう。 ここでは、教えを実行しようとする者がすぐにもぶつかるはずのいくつもの障害について先回りがなされ、励ましが与えられます。その励ましは、励まし手自身にも向けられているはずです。
しばらく前とそっくり同じ引用をし、同じ私の意見を繰り返します。
どうですか?
アリョーシャ(ゾシマ長老)は、いま自分の生きているうちに「結果」が得られるなどと考えるな、といっているんです。自分が「すべてを見届ける」ことなど望むな、といっているんです。どうなるのかもわからない・何の保証もない未来のために、いまの自分がへりくだり、誰彼に奉仕することを説いているんです。前にもいいましたが、これはイワンの考えの対極に当たります。そうして、アリョーシャ(ゾシマ長老)は、自身をも含めてですが、他の誰彼がきっと「いや、自分はすべてを見届けたい」というに違いないことを承知しながら、右のことばを語ったでしょう。多くのひとが「そんなどうなるのかもわからない・何の保証もないものを信じて、この自分の人生を賭けることなどできない」というに違いないことを見越していたでしょう。 それは、まあ、こういう理屈です。
しかし、この賭けを賭け、献身することをアリョーシャ(ゾシマ長老)は説きつづけるんです。右の引用のすぐ前 ── この小説のエピグラフ ── はこうでした。
私は何がいいたいのか? 「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」は、たしかに「長老自身の言葉」なんですが、しかし、アリョーシャが編纂した以上、ある意味、アリョーシャ自身のことばでもあるはずなんです。文章がしっかりとしていて、書き手の「何を描くか」と「どのように描くか」とが緊密に結んでいればいるほど ── アリョーシャの文章はそういう文章だと思います ── そこには必ず何かしらの偏向があるだろうとも思います。また、ある意味、そういう偏向はなくてはならないものでもあります。編纂者自身の声の聞き取れない長老のことばには、実は何の価値もありません。私はわけのわからないことをいっているでしょうか? しかし、文章というのは、そういうものなんです。文章というのは、書き手自身を問うものです。文章は書き手を試します。読者にとっては、その書き手が当の文章を書くのに、どれほど真摯になっているか、どれほど苦しんでいるか、どれほどの覚悟があるかを見極めることが大事です。読者はそうして、書き手が信用に値する人間であるかどうかを測るんです。書き手はどうしたって、無色透明でいること・ニュートラルでいることができません。かりにそう見えることがあるとしても、それは単に見かけにすぎません。繰り返しますが、文章というのはそういうものです。 いいですか、私はアリョーシャがゾシマ長老のことばを捏造したとか、そういう類の話をしているのじゃありません。しかし、文章というのは、必ずいまいったような性質を持っているんです。そうして、作品の語り手もそういう文章を公認したんです。いや、語り手は逆にすべてをアリョーシャの文章を核として語ったのかもしれません。 さらにいえば、アリョーシャの文章は、語り手が語ったこの小説内時間の先 ──「エピローグ」の後 ── までを示してもいるでしょう。
『カラマーゾフの兄弟』を少なくとも二度読んだ読者は、ここでスネギリョフとイリューシャのことを思い出すはずじゃないでしょうか? そうして、作品の途中でのアリョーシャはスネギリョフについて、しかし、こういっていたんでした。
それで、イリューシャが、
そうしてスネギリョフが、
しかし、アリョーシャが後にゾシマ長老のことばを自分で文章にしたとき、「だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変ってゆく」は右の時点での認識とは違うものだったのじゃないでしょうか? 右の時点で、彼はまだ、そんなことができるわけがない、スネギリョフは死んでしまう、と思っていたのじゃないでしょうか? しかし、その認識が変わった。つまり、「エピローグ」以降のいつかの時点で、スネギリョフがイリューシャの死の悲しみを乗り越えて(自殺もせず)、誰か他の子どもを愛するという事実をアリョーシャはこの目で見たのじゃないか、と思うんです。それゆえにこそ、アリョーシャは確信を持って「だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変ってゆく」と書くことができたのじゃないでしょうか? ともあれ、そういうわけで、『カラマーゾフの兄弟』において、他の登場人物たちに比べると、何となくおとなしく、無口のように ── 自身のことをあまり語らない ── 感じられるアリョーシャが、もしかすると私たちの思っていた以上に自らを語っていたかもしれないんです。 |