「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三 (承前) さて、アリョーシャの手記は「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」で終わっていました。いくつかに分割しますが、全文を引用します。
これは、人間の地上の生というのが、「たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間」として与えられたものだという前提でのことばです。人間の地上の生の前後は、べつの世界にあります。そうして、地上での生において「実行的な、生ける愛の瞬間」を蔑ろにした者がべつの世界に帰った後、どんな苦しみを負うかということを語っています。だから、「実行的な、生ける愛の瞬間」というこのただ一度の機会を生かして、この地上では、できる限り愛せよ、というんです。もちろん、それはこの手記のこれまでの流れからして、自分には「すべての人に対して罪がある」という自覚が必要なんですし、そのためには「人間の顔」にしっかり向き合うことが必要です。誰彼との「つながり」も必要なんです。 しかし、この「実行的な、生ける愛の瞬間」というこのただ一度の機会を生かさず、それどころか、この機会そのものを自らすすんで無にしてしまうひとたちもいるんです。
もちろん、ここでアリョーシャはスメルジャコフのことを想起していたに違いありません。アリョーシャはスメルジャコフのためにも「毎日祈っている」でしょう。 そこでいくらかまた脇へ逸れますが、アリョーシャがフョードルの死後、スメルジャコフについてどう考えていたかというと、こうですね。
フョードル殺害の犯人をスメルジャコフだと主張しつづけていたアリョーシャにとって大事なのは、この事件が「法的にどうか」などということではありませんでした。裁判の場で彼が何よりも気にかけていたのは、ミーチャが有罪になってしまうことだったでしょう。ミーチャは殺していないからです。ミーチャが受刑するのは不当です。
他方、スメルジャコフが有罪になれば、それはそれでかまわなかったでしょうが、べつに有罪になる必要もありませんでした。アリョーシャは最初から「法的にどうか」なんていう視点でこの事件を見ていないんです。アリョーシャが問題にしていたのは、事件の関係者各人が「神の前で」どうなのか、ということだけだったと思います。むろん、自分の父親を殺した犯人は憎いでしょう。また、兄を無実の罪に陥れた犯人も憎いでしょう。しかし、彼はその感情を恐れたはずです。 ── と書いて、ふっと思い出しました。やれやれ、どうしていままでこれを忘れていられたんだろう?
で、そんなふうにゾシマ長老が話す前に、イワンがこういってもいたんです。
やれやれ、イワン。彼はそんなふうにしゃべりながらも、自分ほどの「ダイヤモンド」ならば、「キリストからも離れ去る」ことが可能だと考えていたでしょう。 それとともに、最先端=亀山郁夫のこれを確認しておきましょう。
どうですか? 最先端=亀山郁夫の視野がどれだけ狭いか、あらためてわかるのじゃないでしょうか? しかし、先へ進みましょう。「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」は自殺者にまで触れました。おさらいしますが、ここまでで、地上での生において「実行的な、生ける愛の瞬間」を蔑ろにした者がべつの世界に帰った後、どんな苦しみを負うかということが語られ、さらに、地上での「実行的な愛」の機会を自ら潰してしまった者(自殺者)が嘆かれたんでした。そうして、この後に語られるのは、このべつの世界そのものを否定し、無としてしまおうとする ── 考えられる限り最高度の ── 傲慢な者たちです。
私はこう思っています。「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」という短い文章が、このアリョーシャの文章のなかで、最も浮いてしまっている・何か付け足しのメモのようだ、と感じる読者は少なくないのじゃないでしょうか。唐突な感じがして、最も意味のわかりかねる文章だ、と。むろん、これはアリョーシャの文章全体とはしっかりつながっていて、これまでは「こうしなさい」というふうに書かれていたものが、今度は、その「こうしなさい」を拒んだ者がどうなるかということを語っているわけです。 しかし、これは唐突で、短くて、メモのようでよかったんです。なぜなら、その具体例がこの小説の後半で詳細に語られることになるからです。 右の記述に際してアリョーシャが想起していたのがイワンだったと私はいいます。アリョーシャはイワンの「地上の生」が終わりかけていると考えていたでしょう。そうして、もしこのままイワンの「地上の生」が終わってしまうなら、イワンは必ず右に描かれている人びとのひとりになっていたでしょう。 私はこれまでもイワンを理解するためにキルケゴールの『死に至る病』を引用してきましたから、ここでもまた引いてみます。これは「第一編 死に至る病とは絶望のことである」の末尾です。そうして、以下の引用の最後の部分が、サリンジャーによる「シーモア ─ 序章 ─ 」のエピグラフでもあります。
右のふたつの引用の傍線部分を比較してみてください。これらは相手が高ければ高いほど、大きければ大きいほど、ますます盛んになっていく運動であり、また、まったく終わりのない運動なんですね。 ついでに引用しますが、
── そういうことが最先端=亀山郁夫にはまるっきりわかっていません。彼の考える「罪」がどんなにつまらない、薄っぺらで、ちっぽけなものであるか。
── 大審問官!
イワンの「熱情と想像力」がどれほどのものであったかを考えてみてください。つまり、これが「信と不信の間を行ったり来たり」すること、「信仰」すれすれの「不信」、「不信」も同然の「信仰」であって、「とにかく同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」ということであり、したがって彼は悪魔にとっての「ダイヤモンド」なんです。
おそらく、最後には、自分のいろいろな理論武装にもかかわらず、イワンは右のような状態での反抗に行き着かざるをえないだろう、と私は思うんです。そうして、アリョーシャもそのように認識していただろうと思うんです。 もうひとつ、
この身振りはフョードル・カラマーゾフにもうかがえるものでしょう。 そういうわけで、もう一度私はいいますが、最先端=亀山郁夫の ──
── は大間違いです。この小説での「傲慢」の罪のもっとも恐ろしい体現者とは、ほかでもありません、イワン・カラマーゾフです。これは、この小説のつくり・構造からしてもそうなんです。 さらにいいますが、最先端=亀山郁夫の ──
── について、それだけをそのまま受け取れば、たしかに間違ってはいないとここまで私はいってきましたが、やはり最先端=亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の意味がまるっきりわかっていない! とはっきりいいましょう。したがって、最先端=亀山郁夫による「ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる」は大間違いです。 なぜか? 「解題」において、最先端=亀山郁夫が「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」の最後の部分を自ら引用しつつ、その前後で何と書いているか?
フェラポント神父! ええっ! フェラポント神父! いったいどうしたらこんな素っ頓狂な読みができるんですか? 何が「熟読玩味していただこう」ですか? 「熟読玩味」しなくてはならないのは誰なのか? いったい誰が「腐臭」の話なんかしているのか? フェラポント神父! 開いた口がふさがりません。というか、こちらの頭がおかしくなりそうです。気が遠くなります。こんな読みしかできない「最先端」── 私がどういったって、わかるはずもない ── をわざわざ批判しなくてはならないのは本当に苦痛です。 いいですか、最先端=亀山郁夫のいう「傲慢」なんてのは、こんな程度の理解 ── こんな素っ頓狂 ── でしかないんですよ。最先端=亀山郁夫の「最先端」な頭のなかでは、フェラポント神父 ── あまりに馬鹿ばかしくて、私はいまフェラポント神父についてしゃべる気にもなりません ── が「傲慢」の象徴か何かになっているんでしょう。しかも、最先端=亀山郁夫は、ゾシマ長老ないしこの文章の書き手であるアリョーシャが、フェラポント神父へのあてこすりみたいなことをやっているといっているんです。これが最先端=亀山郁夫の小ささ・せこさ・薄っぺらさ・貧しさですよ。 繰り返します。「「傲慢を捨てよ」── 結構でしょう」── そう私はいってきましたが、駄目ですね。なぜなら、最先端=亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の意味がまるでわかっていないから。一見間違いでなさそうだった最先端=亀山郁夫の「ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる」はでたらめです。〇点。『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の意味をこんなとんちんかんなふうにしか理解できない人間が何をいっても無駄です。
「傲慢を捨てよ」── これは、もし、最先端=亀山郁夫でなく、私がいうなら正しいんですよ。なぜなら、私と最先端=亀山郁夫とでは『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の理解が違うからです。 どうですか、まだわからないでしょうか? まさにこのことが最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が偽物だということなんです。 最先端=亀山郁夫を擁護するひとたちは、いまのフェラポント神父云々については、どう考えているんでしょうか?「いや、さすがにフェラポント神父はおかしいよ」と思うならば、最先端=亀山郁夫訳を全否定するはずなんですけれどね。なぜなら、これは構造的・深層的な問題だからです。構造的・深層的にこれほど素っ頓狂な読みしかできない翻訳者を認めることなんかが、どうして彼らにはできるんでしょうか? できるとすれば、「文学」を読む力がないからですよ。そんなひとはもう「文学」から足を洗え、と私はまたいいます。 こんな「最先端」が『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者でいいんですか? (二〇〇九年六月二十二日)
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