連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一五

 これを引用しておきます。

 それは扠置き、『森と湖のまつり』を「ドストエフスキー的」と呼んだ山本ほかの面面は、「ドストエフスキー的」という表象によって、たとえば次ぎのようなことをでも空想しているのであろうか。
 ── 作中の人物および事件は、日本人読者一般にとって非現実的違和感を伴っていなければならない。作中の人物連は、為体が知れないような・秘密がたくさんあるようなふうでなければならず、作中の事件も、また同断でなければならず、作は、全体として訳がわからないようなふうでなければならない。作中の人物連は、しばしば主体的必然性も客観的現実性もとぼしいような言動(宗教論・哲学論・人生論・社会論・宇宙論のようないかがわしい長広舌、その他)に赴かねばならず、時としては入り乱れてどたばたを演じなければならず、だが、そのうちの一人くらいは、様子ありげな「無言の行者」でなければならない。ある種の「革命」か「犯罪」かが、目論まれていなければならず、また途方もなく長い(ラスコーリニコフの母のそれのような)手紙が、出現しなければならない。一、二の主要人物は、性的に旺盛かつ放埓でなければならず、あるいはたまたま恐ろしく鮮明な(何かの象徴的意義があるような)夢を見なければならない。……
 もしそうなら、そういう「ドストエフスキー的」は、ドストエフスキーの文学にたいする浅薄低級な無理解を指示するであろう。しかも、そういう「ドストエフスキー的」な「(似非)作家」だの「(似非)作品」だのは、ちょいちょい実在するのである。そのような「ドストエフスキー的」を、私は、必ずしもただちに全面的に『森と湖のまつり』に当て嵌めるのではない。しかし、そうせられても仕方がないような節節が『森と湖のまつり』の随所に少なからず現存する、ということも、私は承認する。なにしろ、ドストエフスキーの文学(作品世界)と『森と湖のまつり』との間に、私は、本質的・実体的関係の存在をほとんどまったく見出さない。
(大西巨人「内在批評と外在批評との統合」 
『大西巨人文選2 途上』 みすず書房 所収)

『森と湖のまつり』(武田泰淳)を私は読んでいませんが、右の文章で大西巨人が何をいいたいかはわかります。
 たしかに、ドストエフスキーの読者に右のような「ドストエフスキー的」を求めるひとはかなりの数になるでしょう。そのひとたちの読みかたは、ラスコーリニコフやスヴィドリガイロフ、またスタヴローギンやイワン・カラマーゾフに無意味で過剰な期待をします。何といえばいいか、つまり、「悪のヒーロー」への期待ですね。その期待が彼ら読者の読解を妨げます。その読書は、彼らの実人生においての悪用につながるでしょう。最先端=亀山郁夫の読書もこの流れのうちにありますね。それが彼の小ささ・せこさ・薄っぺらさ・貧しさです。

(二〇〇九年十月二日)


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