「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(7) しかし、その「引用」──「ある空漠たる恐怖に捕えられ」── の前に佐藤優。彼の最近の発言(二〇〇九年十月刊)から。
以前にも同じ文春新書(二〇〇八年四月刊)でこういっていました。
さらに、
大笑いです。「インテリ(知識人)としての「命がけの飛躍」」がジューチカとペレズヴォンが同一の犬でない、なんてものなんですか? それはともかく、右の佐藤発言については、木下豊房がこう書いていました。
さて、いま、ちょっと計算をしてみたんですが、ここまで私は最先端=亀山郁夫批判として、文庫本の字詰めに換算して約八三〇ページ、四〇〇字詰め原稿用紙にして約一三六〇枚分の文章を書いてきたわけです。一年半かけて。それも懇切丁寧な文章です。これまでのところだけでも、最先端=亀山郁夫の最先端ぶりは明らかだと思います。最先端=亀山郁夫は最先端であるがために、あまりにもひどい仕事をしました。というより、ひどい仕事しかできないんですよ、最先端だから。だから、こんな最先端に仕事をさせたひとたち、それに追随するひとたちを私は罪深いというんです。というわけで、最先端=亀山郁夫のひどさはもはや動かせません。これは事実です。反論のあるひとは、どうぞ指摘してきてください。ただし、そのひとは私の文章の全体を読むこと、また、私の『カラマーゾフの兄弟』読解の誤りを指摘するだけでなく、それがどう最先端=亀山郁夫が最先端でないということになるのか、私の費やしてきた時間と労力に見合うだけの文章ではっきり示してください。手を抜いたものは一切受けつけませんよ。 繰り返しますが、最先端=亀山郁夫の仕事のひどいことは事実です。もう、これは絶対に動かせません。そうして、最先端=亀山郁夫の仕事がひどいという事実がある以上、佐藤優のいっていることはでたらめだらけということになります。佐藤優 ── このひとは全然信用ならない。しかし、佐藤優は最先端=亀山郁夫の訳が「従来の訳に較べ、格段と正確でかつ読みやすい」わけがないということを承知しているでしょう。腹のなかでは、「ひどいもんだな、この最先端」と思っていますね。これは沼野充義と同じです。しかし、佐藤優は沼野充義のようにやけくそになったり、びくついたりしないんです。佐藤優は平然と居直ります。それどころか、すすんで最先端=亀山郁夫を悪用しさえします。 以前に私は最先端=亀山郁夫と佐藤優の対談の一部を「ものすごく読解力のない呆れた二人組による力みかえった傑作対談」として引用しましたね。
一方の最先端=亀山郁夫の発言はというと、最先端ぶりが見事に発揮されていますが、このとき他方、実は、佐藤優は、自身では「大審問官」の本質をきちんと読み解いていたにもかかわらず、わざわざそうでないことをしゃべっていたんじゃないでしょうか? だから、これは「ものすごく読解力のない呆れた二人組による力みかえった傑作対談」なんかではなくて、「ものすごく読解力のない呆れた」相手を利用して ── 力みかえらせまでして ── ドストエフスキーを故意に歪曲して読者に伝えようとした佐藤優の策略だったのじゃありませんか? 最先端=亀山郁夫の方はまったくそんなことには気づきもしていません。最先端だからです。自分がどれほど馬鹿にされ、そそのかされ、いいように利用されているかもわかっていません。最先端だからです。 さて、先に触れた『ぼくらの頭脳の鍛え方』ですが、これの第三章というのが「ニセものに騙されないために」というとっても愉快な章題で、次のようなやりとりがあるんですね。
ということは、「識者」が「ニセ科学」を正しいといえば、現代人は「順応の気構え」ができているから、「ニセ科学」を信じてしまうということですよね。だから、その「識者」がどういう「識者」であるかということが問題になるはずですね。 つまり、これ、もちろん佐藤優は自分のことをしゃべっているんですよね? 先の彼の発言をここでちょっといい換えてみましょうか? 《何でこんなに科学技術が進んで識字率が高くなっているのにみんな、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』なんていう、いいかげんででたらめな「ニセ翻訳」が「読みやすい」なんてつまんないことを信じちゃうの? それを一言で言うと、順応の気構えというものがあるからだと。現代人は、ある情報について、一つ一つ検証していけば、全部検証する基礎的な学力、別の言い方をすれば、論理関連を追う能力はある。しかし、検証すべき情報が厖大であると、一つ一つ自分で検証していたのでは疲れてしまうでしょう。そうなると、とりあえずこの私(=佐藤優)や沼野充義や村上春樹などの識者が言っていることは事実として受け止める。自分自身はひっかかって理解できなくても、誰かが説得してくれるだろう、という気構えができるんです。この順応の気構えによって受動的になってしまう。これが怖いんです。そして、順応の気構えとテクネー(技術)が結びつくと、もっとひどい世の中になる。というわけで、私(=佐藤優)はいよいよテクネーを磨くことに励んで、もっともっとひどい世のなかをつくっていきますよ。》 やれやれ。 それでも、私は佐藤優の引いたハーバーマスの理屈に刺激されてこういいましょう。 たぶん、ふつうのひとたちは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』なんかどうでもいいんですよ。翻訳を含めてその実物に当たる気持ちなんか全然ないんです。それよりも、彼らが欲しているのは、「古典名作」というブランドとしての『カラマーゾフの兄弟』であり、「世界の文豪」としての「ドストエフスキー」でしかなく、自分の代わりに読んでくれる「識者」の「解説」だけをありがたがって聞いていれば、それで『カラマーゾフの兄弟』を読んだつもりになれるし、「ドストエフスキー」を知ったつもりになれるんです。それだけで満足なんですよ。その「識者」がどんな最先端でもかまわないんです。「ドストエフスキー研究の権威」なんていうレッテルをNHKなんかの大きいメディアが保証してくれていれば。つまり、ふつうのひとたちは、その実質がどうであろうが、ただもうそう呼ばれているものに対しての「順応の気構え」ができているわけです。佐藤優はそこにつけ込みます。彼の見下すふつうのひとたちには「地上のパン」だけが大切です。だから、ふつうのひとたちは、自分は今後も『カラマーゾフの兄弟』を読まないだろうけれども、「ドストエフスキー研究の権威」の話を聞くことはやぶさかじゃないよ、ということなんですね。何だか高尚なものに触れたなあ、という錯覚だけで十分なんですよ。「ああ、亀山郁夫先生がまたしてもテレヴィでお話しになっている!」なんてふうに感激してしまう。こんなことだから、佐藤優がいいたい放題できるんです。そうして大きいメディア ── 信念や検証能力の欠如した ── がその彼を重用するんですね。やれやれ。騙されるひとたちのどれだけ多いことか。こういうひとたちが増殖し、真面目な読者がついつい彼らに影響を受けてしまうんです。それを私は危惧します。 しかし、私は佐藤優を買い被りすぎたかもしれません。 というのも、右の文章を書いた後、私は自分の勤める書店で先月(二〇一〇年一月)刊の朝日文庫『ナショナリズムという迷宮』(佐藤優・魚住昭)をちょっと読んでみたんですね。扉にはこうありました。
それから目次となり、いよいよ本文が始まります。まずは、佐藤優による「まえがき」なんですね。その最初の二行(これだけで一段落の全体です。この後、一行開けて次の段落(六行) ── ちょうどこれで最初の一ページになります ── が来るので、この段落は非常に目立ちます)を引用します。私はこれを読んで目が点になりましたよ。
????? これは、本当に書いてあるままに読めばいいんですか? これは私の引用入力ミスなんかじゃありません。本当にそう書かれているんです。いや、佐藤優ほどの人物なら、右に書かれているそのままのことをいうのかもしれない、と真面目に思いましたよ。でも、つづく文章を読んでいると、そうではないことがわかります。たとえば、こういう文章があります。
「私には人生の転換点で決定的な影響を与えた人が数人いる」じゃなくて、「私には人生の転換点で決定的な影響を与えてくれた人が数人いる」とか「私には人生の転換点で決定的な影響を受けた人が数人いる」というふうに書くべき内容の文章じゃないですか。 やれやれ、です。 こんな文章を許した編集者の程度も知れますね。 私はつまらない揚げ足取りをやっているんでしょうか? それにしても、この本の実質的な最初の一文なんですよ。親本刊行から約三年間、文庫化に至っても、この文章は放置されたままのようです。誰も何もいわなかったんでしょうね。つまり、これを読んで、何もいわないような読者しか、佐藤優にはついていないんです。それはそうでしょう。最初からこんな文を読まされて、「?????」と思ったまともな読者は不愉快になって、もう本を閉じてしまうでしょうから。 |