「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(9) 私はいっておきますが、テレヴィだとかラジオだとか新聞だとか雑誌だとか、そんなものをあんまり無条件に ── 「権威」として ── ありがたがるのはもうやめましょうよ。これを私がいいます。まさかこの人生で自分がテレヴィだとかラジオだとか新聞だとか雑誌だとかに出るだなんてことがあると思いもしないでいて、あるときから ── そうしていまでも散発的に ── 取材依頼を受ける羽目になってしまった私がいいます。そんなのはどうってことないんですよ。朝日新聞の「ひと」欄に載ることがすごいことですか? いいえ。新聞のテレヴィ番組欄に自分の名前が載っているのを見るのがいい気分ですか? いいえ。読売新聞の一面に自分の名前を見るのがいい気分ですか? いいえ。毎日新聞の読書欄に自分の名前が出るのはどうですか? いいえ。日本経済新聞は? いいえ。雑誌「ダ・ヴィンチ」で自分が「伝説」呼ばわりされるのがいい気分ですか? いいえ。「週刊文春」は? いいえ。NHK、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京などなどは? いいえ。テレヴィやラジオの生放送のスタジオの雰囲気って、さぞかし素敵なんじゃないだろうか? いいえ。その他いろいろ。いいえ。いいえ。いいえ。 いいですか? 私は自慢しているのじゃなくて、それらがどうってことない、といっているんです。いいですか? あなたがテレヴィだの雑誌だの新聞だのの取材を受けたって、あなたはただいつも考えていることをいうことしかできないし、それが当然だし、また、そうすべきなんですよ。よそ行きの身なりをする必要なんか全然ありません。というか、あなたはそれら媒体に合わせてはなりません。 私はあなたに私の「権威」を自慢しているのじゃなくて、あなたが「権威」と受け取りかねないものを全然「権威」じゃない、といっているんです。 しかし、この点、最先端=亀山郁夫はそれを「権威」だとしか考えることができないし、しかも、それを真に受けること・それに乗っかることしかできないんです。そうして、彼は、メディアに露出すればするほど、自分の最先端ぶりをさらすことになるんです。対して、私はむしろ、メディアからの取材の経験を重ねるごとに自分の「責任」の方を考え込むようになったと思います。私は「権威」なんかになっちゃいけないと考えたでしょう。このことを理解してもらうのは、もしかすると、ふつうのひとたちにはとんでもなく難しいことなんでしょうか? たいていのひとには私が自分の「権威」を誇り、「自慢」しているとしか受け止めてもらえないんでしょうか? 私は、自分が以前ドストエフスキーの『おかしな人間の夢』を紹介したときに、カート・ヴォネガットの『ホーカス・ポーカス』(浅倉久志訳 早川文庫)から長々と引用したことを思い出します。この小説のなかに「トラルファマドールの長老の議定書」という(小説内)小説が出てきて、語り手がそれを読むというくだり。
というのは、その細菌を強靭にするために、化学的邪悪さの極みといえるスープ ──「恐怖の生存テスト」── で育てるということなんですね。スープが邪悪であればあるほど、そこで生きなくてはならない細菌も強靭になっていきます。これ、理屈としては、「悪魔」がイワンを「ダイヤモンド」として磨くのと同じです。 そうして、長老たちの策略によって、地球の人間たちはどんどん邪悪になっていきます。
さて、
まあ、何もかも「やれやれ」です。 |