「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(15)の3 ── ごくごく控えめに、私の怒りのほんのわずか一部だけを ── 敢えて乱暴ないいかたをしてみるなら ── 破裂させてみましたが、それはさておき、もう一度高村薫です。
右の発言は正しく、高村薫が実作者としてちゃんとした姿勢でいることがわかります。なのに、なぜ彼女は同じ口でこんなことがいえたのでしょうか?
繰り返しますが、最悪です。繰り返しますが、彼女が最先端=亀山郁夫に対する皮肉をいっているのなら、いいんですよ。でも、そうではない。「文体こそが世界という読者」が最先端=亀山郁夫のでたらめをなぜ見抜くことがきないのか? 私には、それがまったくわからないんです。 もう少し、つづけましょう。これもまた再引用ですが、
なぜ高村薫は「驚いた」ままにしておいたんでしょうか? なぜ「どのようにも翻訳できる」「悪文」によって書かれた小説などがありうると思ったんでしょうか? なぜ「文体」について意識的な実作者が、そんなことはありえない、と思わなかったんでしょう? また、最先端=亀山郁夫の
だの、
── を聞いて、おかしいとか「なぜだ」とか思わなかったんでしょうか? なぜ、高村薫は最先端=亀山郁夫に対して、「あなたのおっしゃる「文体」は、私の考えている「文体」とは全然違うんですけれど、いったい、あなたには文学作品における「文体」というものがわかっているんですか?」といわなかったんでしょうか? 相手が「ドストエフスキー研究の権威」、「いまや押しも押されもせぬ亀山郁夫大先生だから」ですか? ここで、べつの本から引用してみましょう。
また、
さらにまた、
そして、そして、
そうして、もう一度、これ。
何ですか、これは? 高村薫さん、よく検討してみてください。そうして、あなたのすべきことは、まず毎日新聞紙上で最先端=亀山郁夫批判をすることです。毎日新聞でそれをすることには非常に大きな意味があります。そうしてまた、「文学界」(文藝春秋)でも同じことをすべきです。そうすれば、同誌に連載されている佐藤優のこれ以上のでたらめを阻止することもできるでしょう。それができるほど、あなたは信頼されている小説家ではないでしょうか? |