「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(23) たまたま読んだ文章ですが、とても興味深い内容だったので、紹介しておきます。杉山茂樹による「W杯日本代表は正々堂々と全敗せよ」(「Voice」二〇一〇年七月号 PHP研究所) http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100611-00000001-voice-pol http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100611-00000002-voice-pol
なんだか既視感がありませんか? 右の文章を少々書き換えてみましょう。 「しかし日本の文学のスタンダードは決して高いとはいえない。原因の一つは、メディア(記者)にある。日本のメディアが世界文学を知らなさすぎて、日本人の文学を見る目が養われないのだ。 いま日本では、世界文学の翻訳を“”古典新訳”という方式で出版するのが一般的である。しかしこれでは、翻訳者が本場の文学を知らないため、読者にも伝わるはずがない。 また日本は、メディアが翻訳者や編集者を甘やかしすぎである。たとえば、翻訳者は出版のあと、記者との交流の場「グレーゾーン」を通って行く。この場で翻訳者が話をするのは当然のことで、外国では「あなた、ちょっと!」と翻訳者をひっつかまえて厳しい質問を浴びせる。 だが日本人のリポーターは、強引にやると、翻訳者から嫌われるとか、インタビューしてもらえないとか、雑誌の表紙に出てもらえなくなるといった意識がある。概して「お疲れのところ、ありがとうございます」などと、翻訳者や編集者をヨイショするだけである。 だから日本では、文学に詳しい者とそうでない者との二極化がますます進んでいる。いい例として、たとえば最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が朝日新聞による「ゼロ年代の50冊」の上位に選ばれたが、NHKや朝日新聞などしか知らない、ふだん文学に接しない読者は「この人知ってる。あの亀山郁夫大先生がまた入ったんだ。がんばって」と歓迎の反応となる。しかし、文学に詳しい者にとって、最先端=亀山郁夫ほど読解力も文章力もないでたらめな翻訳者もいない。とはいえ、本人はその選出にまったく疑問をもたなかったに違いないが。 文学を読む力を育てなければ、翻訳者や編集者に対しても、厳しい声を届けることができない。結果、日本全体の文学のスタンダードは上がらない。」 |