「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六 5-(24) 六月からずっと停滞しているこの最先端=亀山郁夫批判ですが、いま、昨年に書いた『カラマーゾフの兄弟』についての文章のつづきに手をつけようとしながら、その前に予定外の文章を書きつつあるのに、ここでまたさらに予定外の一文を書かなければならなくなりました。 まず、昨八日に最先端=亀山郁夫訳『悪霊』の第一巻(全三巻)が光文社古典新訳文庫として発売されたことですね。これ、私の勤める書店への配本数からして、かなりの部数を刷っていますね。古典新訳文庫の他の作品の約五倍程度でしょうか。しかし、まあ、それはいいです。 ここで書かなければならなくなったのは、その前日七日に発売された雑誌「群像」の十月号のことです。「「悪」とドストエフスキー」というタイトルでの対談で、最先端=亀山郁夫の相手は作家中村文則。つまり、高村薫につづいて、今度は中村文則ということです。 のっけから、こうです。
私はどう反応すればいいんですか? 爆笑すればいいんですか? じゃあ、爆笑しましょう。
ここも爆笑ですか? 爆笑しましょう。
やっぱり爆笑 ── ですか? そうですよね。本当は、いま引用したところだけじゃなくて、全編爆笑なんですけれど、興味のある方は、ぜひ「群像」十月号をお読みください。 そういうわけで、私は中村文則という作家がまったく信用できません。哀れにすら思えてきます。これまでも彼の作品を読んだことはないし、これからも読みません。 |