「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない 3 小説『カラマーゾフの兄弟』において描かれているのは、人間が神の存在なしには生きていけないということです。人間は自分たちだけでなどやっていけません。神の存在を認める認めない、あるいは、神の創ったこの世界を認める認めないなどということの決定権など人間にはありません。人間は人間だけの知識や思想だけで自立することができません。人間は必ず人間より以上の大きな存在を必要としています。人間は自分たちなどちっぽけな存在でしかないということを知らなければなりません。人間はとにかく、いまの思い上がり ── 人間が人間だけの知識や思想だけで自立しようとする ── を捨てて、自分より大きな何者か ── つまり、それが神ですが ── の前にへりくだらなくてはなりません。人間のあるべき姿は、それぞれが自分こそ他の誰よりも罪深い人間だと自覚し、そんな自分のためにも祈ってくれるひとがいると信じている ── このとき必ず「謙遜な勇気」が必要になります ── 姿です。その姿へと向かう登場人物の代表として、ミーチャがいます。反対に、右の考えかたにあくまで逆らって自滅する登場人物としてイワンがいます。このときアリョーシャはそのどちらでもありません。そのアリョーシャがこの小説の主人公です。 私は昨年に書いた長い文章で、イワンとミーチャとがどのように違うか、また、アリョーシャの書いたゾシマ長老のことばとイワンの言動との対比を示して、イワンがどれほど駄目なのかをいいました。
また、
それに、
そうして、証人として法廷に立ったイワンを駄目だといったんでした。
裁判の前夜、アリョーシャはイワンについてこう考えたんでした。
結果は後者でした。もし、イワンが法廷まで行って、自分に罪があると証言したということを、それだけでも立派じゃないか、などというひとがあれば、そのひとにはアリョーシャが見えていません。そのひとは「自尊心の病に憑かれた」読者です。 さて、もっと以前に私はこうもいいました。
そうして、
くどいですが、
さらにもくどく、
私は何をいいたいのか? 私のいってきたことが『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちにおける ── 萩原俊治氏のいう ── 「自尊心の病」の症状と、それに対するアリョーシャのふるまいだということです。 私がずっと四苦八苦してしゃべってきたこと ── 右の引用の他にも私はたとえば「からくり」ということばも使ってきました ── に、この「自尊心の病」という病名=視点・論点を照射すれば、一気にいろんなことが整然と見えてくるんじゃないでしょうか? こうです。 小説『カラマーゾフの兄弟』の全体が描いているのは自らの「自尊心の病」に苦しむひとびとの群像です。この作品の全体が目指しているのは、彼らがどうにかして自分の「自尊心の病」に気づくことです。自分が他の誰に対しても罪がある、自分こそが最も罪深い人間であると口にするこの作品の何人かの人物たちは、自分の「自尊心の病」に気づいています。「自尊心の病」に気づくとはどういうことか? 自分が無であると知り、そのことを知らなかったこれまでの自分を知ることです。自分の意味や価値を決めるのは自分ではない・自分ではなかったと知ることです。自分が自立して生きている・生きていたのではないことを知り、生かされている・生かされていたことを知ることです。自分の存在が自分のためのものではない・自分のためではなかったことを知ることです。この世界は自分のためにあるのではない・自分のためにあるのではなかったし、世界の意味や価値を決めるのは自分ではない・自分ではなかったと知ることです。自分の見栄や誇りや優越感や劣等感や卑下や恥がまったくの無意味である・無意味であったと知ることです。自分が自分の支配者ではない・支配者ではなかったと知ることです。このことに気づいたひとは、世のなかのひとびとがどんなに ── これまでの自分同様 ── 「自尊心の病」に憑かれているのかを知るんです。「自尊心の病」に憑かれたひとびとがそれぞれどんなに苦しみ、また相互に争い、嘘をつき合い、支配したりされたりしているかを知るんです。とはいえ、そのとき、「自尊心の病」に気づいたひとたちは、それに気づいたからといって、その病から完全に治ることはありません。どんな人間も自尊心のなくなることはなく、「自尊心の病」は全快しません。だからこそ、自らの「自尊心の病」に気づいたひとたちは自分の「自尊心の病」を恐れます。その自覚が、「自分が他の誰に対しても罪がある」・「自分こそが最も罪深い人間である」ということです。そうして、それは、かつての自分(「自尊心の病に憑かれた」自分)の考えていたような恥ではありません。もはや彼に恥はありません。彼の意味や価値を決めるのは彼ではないからです。彼は自分の意味や価値を自分自身では無と考え、それをもっと大きい存在 ── 神 ── に委ねています。そのとき必要なのが「謙遜な勇気」です。そこで、彼が自らの「自尊心の病」を知りながら生きていくためにどうするか? なるべく自分の「自尊心の病」から距離を置いて生きるんです。それは可能です。というより、それしかありません。その距離は大きければ大きいほどいいんです。この距離を特に大きく保とうとするひとたちが『カラマーゾフの兄弟』に描かれています。そのひとたちは、他人と接するときも、相手の「自尊心の病」から距離を置くようにします。相手の「自尊心の病」を承知しつつ、相手の「自尊心の病」の奥にある本当の相手自身に向き合うんです。相手の「自尊心の病」が仕掛けてくる争い・誘惑に乗らず、相手に支配されたり、相手を支配したりはしないんです。相手の「自尊心の病」の土俵に乗りはしません。そうやって、相手がその「自尊心の病」の奥にある本当の彼自身であれるように手助けするんです。そうやって、「自尊心の病」から離れたところでひとびとを結びつけていくんです。これが『カラマーゾフの兄弟』における「実行的な愛」です。しかし、いったい、他人の「自尊心の病」がどんな様相のもので、それを見抜いたり、見定めたりするなどということは、相手を見下していることになるのじゃないか? 相手の「自尊心の病」の奥にある本当の彼自身などがわかるものか? そういう問いを、このひとたちは常に必ず抱いています。相手の内面への洞察力が求められますが、そのとき、その根底には、自分が他の誰に対しても罪がある、自分こそが最も罪深い人間であるという自覚が必要ですし、自分のその洞察を確信し、それにもとづいた行為をなすためには必ず「謙遜な勇気」が必要になります。そのとき、彼を支えるのは、自分のためには他の誰かが祈ってくれる、と信じることです。その「他の誰か」の最奥に、あの「ただ一人の罪なき人」=キリストがいます。 ── とまあ、そんなふうに私は考えています。 |