「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない 4 もうちょっとわかりやすいように、ここで私は「自尊心の病に憑かれた」ひとたちのことを強調してみます。「自尊心の病」の重症・軽症の程度は、彼らがどれほど自己にしがみついているか、どれほど自己にインしているかということでも測れるでしょう。 「インする」 ── です。これを引用しておきます。
── というわけで「淫する」です。「自尊心の病に憑かれた」ひとたちというのは、自己に淫しているひとたちです。 もちろん『カラマーゾフの兄弟』において、最も自己に淫しているのはイワン・カラマーゾフです。反対に、最も自己に淫していないのがアレクセイ・カラマーゾフだと私はいいます。そうして、最も自己に淫している者に対して、最も自己に淫していない者から発されたことばが「あなたじゃない」なんです。「あなたじゃない」の意味は「自己に淫することなく、あなたの「自尊心の病」のずっと奥にいるはずの本当のあなた=神の前に立つあなたであってください。そのあなたには、お父さんを殺したのがあなたではないということがわかっているはずです」に他なりません。 しかし、そのことが自己に淫している読者には理解することができません。なぜなら、自己に淫している読者には、自己に淫していない・自己に淫することを恐れるということが理解できないからです。イワン・カラマーゾフのどこが間違っているのか、イワンこそ、この自分(自己に淫している読者)の代弁者だ、ということしか彼らにはいいようがありません。イワンこそ、神の存在なしにやっていく人間(つまり、自己に淫したままやっていく人間)の可能性を拡張する立派な主張の持ち主ではないか、というわけです。 やれやれ、思い上がるのもいい加減にしたらどうか、と私がいったとしても、彼らにはわかりません。彼らの自尊心はいまだに「砕かれて」いないからです。 もう一度、萩原氏の文章を引用します。
さらにべつの引用。これは直接に『カラマーゾフの兄弟』あるいはドストエフスキーに関してのものではありませんが、
そこでの「精神的に死ぬこと」こそが、自らの「自尊心の病」に気づくということであり、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフでいわれている「死」です。
私はいいますが、徹底的に自己に淫したイワン・カラマーゾフは、「地に落ちて」死なないので、「ただ一粒のまま」なんです。彼は「豊かに実を結ぶ」ことになりません。 すでに昨年に書きましたが、イワンは次のような存在です。
そのイワンにゾシマ長老がどういうことをいったか?
ゾシマ長老がそのようにイワンにいったのは、イワンの「問題」が彼の「自尊心の病」ゆえのものだということがわかっていたからです。つまり、イワンのその問いの立てかたが間違っているんです。 これも『カラマーゾフの兄弟』についてのことばではありませんが、
イワンは「自尊心の病」 ── 自己に淫している ── ゆえに「間違った二者択一」にとらわれているんです。ゾシマ長老がいっているのは、イワンの設けた二者択一の否定です。けしてイワンの思想の高さの肯定なんかではありません。ゾシマ長老のことばでむしろ注目すべきなのは、次のことばです。「あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです」 ── これが「自尊心の病」への指摘です。イワンが自らの「自尊心の病」 ── かなり重症の ── に気づくことができれば、彼はそれだけ深い回心にいたるだろう、ということです。イワンの抱いている思想をそのままもっともっと突き詰めれば、信仰に至るだろう、などということではなく、イワンの当の思想が深い挫折をすればするほど彼が信仰に至るだろう、という意味です。つまり、イワンほど深く自己に淫している者が、その淫していることを悟ったとき、大きい回心に至るだろうということです。『カラマーゾフの兄弟』におけるこの奥行きを読み誤ってはいけません。 しかし、「自尊心の病に憑かれた」読者には、そのことがけしてわかりません。わからないので、アリョーシャが見えません。彼らにはアリョーシャが単純素朴な馬鹿にしか見えません。そうして、こういうんです。
やれやれ。 『カラマーゾフの兄弟』には、自分の「自尊心の病」に気づいていくミーチャと、「自尊心の病」に憑かれたまま ── あくまで自己に淫したまま ── 自滅していくイワンとが描かれています。そうして、主人公アリョーシャは、そのどちらとも異なる位置にいます。この第三の位置がわからないひとに『カラマーゾフの兄弟』はわかりません。つまり、アリョーシャが見えないということです。アリョーシャは、読者の前に僧服姿で登場する、この作品の最初から自分の「自尊心の病」に気づいている人間として描かれています。 おさらいしますよ。 アリョーシャは自らの「自尊心の病」から距離を置いて生きています。彼は他人と接するときも、相手の「自尊心の病」から距離を置くようにします。相手の「自尊心の病」を承知しつつ、相手の「自尊心の病」の奥にある本当の相手自身に向き合うんです。相手の「自尊心の病」が仕掛けてくる争い・誘惑に乗らず、相手に支配されたり、相手を支配したりはしないんです。相手の「自尊心の病」の土俵に乗りはしません。そうやって、相手がその「自尊心の病」の奥にある本当の彼自身であれるように手助けするんです。そうやって、「自尊心の病」から離れたところでひとびとを結びつけていくんです。 さて、自己に淫した読者にはこれがわかりません。私のいう「相手の「自尊心の病」の奥にある本当の相手自身」とはいったい何だ? ── そう呆れる他ありません。自己に淫している読者は、自らが自己に淫しているために、アリョーシャにも自己に淫している姿を要求します。要求せざるをえないんです。つまり、アリョーシャに、ミーチャやイワンと同レヴェルに描かれた苦悩や行動や思想などを要求するわけです。それが描かれていない、と自己に淫した読者は主張します。アリョーシャにはミーチャやイワンに比肩する苦悩や行動や思想がない、もし、アリョーシャにミーチャやイワンを理解できるというなら、彼にもその二人に比肩しうる苦悩や行動や思想が描かれていなくてはならない、というわけです。そうでなくては、アリョーシャに確固とした信仰があるなど信じられない。もうこれが間違いです。ミーチャやイワンの苦悩や行動や思想は自己に淫した者の苦悩や行動や思想だからです。対するアリョーシャの苦悩や行動や思想は、自らの「自尊心の病」に気づいていて、できるだけ自分の「自尊心の病」から距離を置いておくことにした者の苦悩や行動や思想だからです。土俵が違うんです。それなのに、自己に淫した読者には、結局、アリョーシャを、どれだけ自己に淫しているかということでしか測ることができないんです。そうして、その尺度によれば、人間は自己に淫していればいるほど立派なんです。それこそが人間の苦悩や行動や思想だ、というわけです。彼らには自他を測るものさしが他にないんです。 |