「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない 6 アリョーシャがどうやって自己に淫しているひとびとに接するのか? あたかも彼らが自己に淫していないかのように接します。彼は、彼らから、自己に淫していない彼ら自身を引き出します。彼は、自己に淫して苦しんでいた彼らがその苦しみを脱するとき、あたかも最初から自己に淫していなくて、自力で自己に淫していない状態に立てたかのように思わせるんです。
そんなのは子供相手の話じゃないか、と憤慨するひとがあるかもしれません。それじゃ、これはどうですか?
これも、ただのコネの話じゃないか、と一笑に付すひとがあるかもしれません。しかも、これではラキーチンと同等じゃないか、などといいだすことになるかもしれません。しかし、真面目にいいますが、私はこう読み取っているんです。いわゆるコネの話はラキーチンにのみかかるだけで、そのラキーチンにせよ、もしアリョーシャの存在がなければ、こうも自由に刑務所に出入りなどできなかったでしょう。ラキーチンは、郡警察署長と刑務所長とがアリョーシャという例外を設けた、そのおこぼれにあずかっているだけだと思います。アリョーシャという例外を設けたために、いつのまにかラキーチンも自由に出入りできるようになっていたということでしょう。また、グルーシェニカびいきである郡警察署長のミーチャ評も、もちろんグルーシェニカゆえの要素もあるでしょうが、アリョーシャの存在が小さくない理由になっていると思います。また、刑務所長以下、アリョーシャと「顔馴染み」になっている刑務所職員たちみながアリョーシャに好感を持っていただろうということを想像することは容易です。それらは、単にアリョーシャが善良だったからという理由ではかたづけられない何かがあるはずです。 また、これはどうですか?
「半狂乱の」マリヤ・コンドラーチエヴナは、なぜスメルジャコフの死を伝えるために「真っ先に」 ── 警察でも、病院でも、グリゴーリイとマルファとのところでもなく、もちろんイワンのところへでもなく ── アリョーシャのもとへ「走りどおし」で来たんでしょうか? ここでも、以前から彼女と彼との間に大事な信頼関係が築かれていたからじゃないですか? アリョーシャは、スメルジャコフ本人とは接触できなかったかもしれませんが(つまり、スメルジャコフが拒否すれば、というか、彼は必ず拒否したでしょう。アリョーシャは会えもしなかったでしょう)、マリヤ・コンドラーチエヴナとの信頼関係を築くことはできていたのじゃないでしょうか。 まあ、ここでも自己に淫した読者からは、私の「妄想、ここに極まれり」、といわれるに違いありません。しかし、私はいいますが、『カラマーゾフの兄弟』はこのような「穴」埋めをせずに読むことができません。というより、私のやったようなやりかたより他にどのような読みかたがあるのか、とすら私は思います。これは、「書かれていることをそのまま読め」という、以前からの私の主張と何ら矛盾しません。なぜなら、この作品の場合、書かれていないことを読めと、当の作品がその構造・つくりによって私に要請するからです。アリョーシャがスメルジャコフにだけは冷たかった、などという読みかたをするひとがあるのは知っています。私は、それは誤解だと思います。アリョーシャが望んでも、スメルジャコフの方で、アリョーシャを拒否したのだと読む方が自然じゃないでしょうか? いくらアリョーシャでも、そういうふうに拒まれれば、手の打ちようもありません。しかも、これには時間的制限(フョードルの死後でいえば、およそ二か月)がありました。まだまだ時間があれば、ふたりの関係はまだべつのものになっていたかもしれません。それでも、アリョーシャはマリヤ・コンドラーチエヴナとは親しくなっていた、アリョーシャはスメルジャコフに近づこうとしていた、と読んでいいのじゃないでしょうか? 同時にそれがスメルジャコフ自身 ── 『カラマーゾフの兄弟』において、アリョーシャに内心を吐露することのない人物、頭からアリョーシャを拒否する人物としての ── をも示すことになるのじゃありませんか? その他に、グルーシェニカもカテリーナも、フョードル殺害事件以後、現にこの作品に描かれているような状態でいられたのは、アリョーシャの存在があればこそだと私は読んでいます。アリョーシャがいなければ、彼女らはもっと不安定な、疑心暗鬼にとらわれた日々を送ったはずだと思っているんです。アリョーシャが必ず彼女らの心の支えになっていただろうと思うんです。アリョーシャがいなければ、彼女らは互いにもっと憎み合っていて、それを当然だと思うことができたでしょう。つまり、アリョーシャは彼女らの「自尊心の病」の衝突の緩衝材の役は果たしていただろう、というんです。それは非常に重要な役ではないでしょうか? それらの詳細はこの後の長い文章に譲りますが、ざっとそんなふうに私は考えているんです。 アリョーシャがこの「第一の小説」において、どれほど活躍していたのかを読み取るためには、この作品の全体が自己に淫したひとびとで埋め尽くされていること、そうして、彼が自己に淫したそれらの人物たちにどのように接していたかを読むしかありません。これができないで『カラマーゾフの兄弟』を読んだことにはなりません。彼が作中でただ一度自ら自己に淫してしまう場面の前と後とでは活躍の強度に差がありますが、それでも、彼は自己に淫していない・自己に淫すまいとする人間として、全編において、自己に淫している人物たちそれぞれに適切なふるまいをしています。読者がそのことを読み取るためには、まず、アリョーシャの前で自己に淫している人物たちのその淫しかたがどのようなものかを読み取ることにかかっています。もし、自己に淫している人物たちのその淫しかたが読み取れなければ、あなたにアリョーシャは見えません。というのも、あなたは、アリョーシャとともに、目の前で自己に淫している人物たちのその淫しかたを見なければならないからです。ところが、自己に淫している読者には、それがまったく見えません。彼らはただひたすら、自己に淫している自分自身の尺度によってしか見ることができないからです。そこで、彼らの目にはアリョーシャのふるまいがちっぽけで頼りないものにしか映りません。 たとえば、こんなふうに。
最先端=亀山郁夫のあまりなとんちんかんぶりにはもう驚きませんが ── いや、やっぱり驚きますね ── 、それにしてもひどい。何が「オウム返し」ですか? それで、アリョーシャには「もはやミーチャに対し、傷心のカテリーナの人格を守るという気遣いすら感じられない」んだそうですよ。そうして、「ドストエフスキーのアリョーシャに対するまなざしには、プロットを追うだけでは、あるいは丁寧に均された翻訳では、ほとんど読みとることのできない微妙な部分が隠されている」んだそうです。「丁寧に均された翻訳」なんかとは程遠く、杜撰のでたらめだらけの最先端=亀山郁夫訳ならば、読み取れるんですかね? それはともかく、フョードルやミーチャやカテリーナがどんなふうに自己に淫していて、まさにその淫していることによって苦しんでいることを、読者はアリョーシャとともに見なければなりません。彼らに対するアリョーシャのふるまいはすべて適切です。アリョーシャは自己に淫していない・淫すまいとする人間として適切にふるまったんです。何度でもいいますよ。アリョーシャは、自己に淫した彼らから、自己に淫していない彼らを救い出して・引き出してやろうとするんです。「自尊心の病」の奥にいる本当の彼ら自身を救い出して・引き出してやるんです。アリョーシャはけして、自己に淫した彼らの、自己に淫した主張の土俵に立ちません。そうして、アリョーシャのふるまいが適切であることがわかるためには、アリョーシャの前にいる、自己に淫した人物たちのその淫しかたがわからなければなりません。さらに、アリョーシャが自己に淫していない・淫すまいとする人物であることも理解できなくてはなりません。 もうひとついっておきます。『カラマーゾフの兄弟』を読む自己に淫した読者は、もしかしたら、この作品が問題にしているのが、神はあるのかないのか、不死はあるのかないのか、「神の創った世界」を人間が認めるか認めないか、だと思っているのかもしれません。ところが、この作品が問題にしているのは、そんなことではありません。神はあるし、不死はあるし、人間に「神の創った世界」を認める認めないなんてことを考える資格はありません。『カラマーゾフの兄弟』が問題にしているのは、神があるのかないのか、不死があるのかないのか、「神の創った世界」を人間が認めるか認めないか、などということを考えてしまう人間のありかたです。つまり、人間の自己への淫しかたが問題にされているんです。そこで、『カラマーゾフの兄弟』には、自己に淫していない・淫すまいとする人物 ── しかも、健康な若者 、しかも、きわめて論理的で知的な若者 ── が主人公に設定されるんです。この主人公を、基本的には、彼が他の自己に淫した登場人物たちにどのように接するかだけを描くことによって、ドストエフスキーは主人公たらしめようとしているんです。これがどれほど困難なことであるか、ドストエフスキー自身にも最初からわかっていました。
同じ箇所が、萩原俊治氏の試訳では、こうなっています。
萩原氏は右の「社会活動家」という訳語について、
── と書いています。私は「社会活動家」 ── 「これは私が『カラマーゾフの兄弟』全体を読んだ上での判断だ」に共感します。 さて、自己に淫した読者の読みかたは、まさにドストエフスキーが危惧したとおりの読みかたということになります。しかし、それはドストエフスキーの失敗ではなく、自己に淫した読者の責任です。というのも、自分の「自尊心の病」に気づいている読者ならば、まさにドストエフスキーの描いたとおりに読むことができるからです。 これで私は、八面六臂の活躍しているにもかかわらず、アリョーシャがなぜ「他の登場人物たちに比べると、何となくおとなしく、無口のように ── 自身のことをあまり語らない ── 感じられる」のか、というその理由をしゃべったつもりです。また、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者にはなぜアリョーシャが見えないのか、というその理由を。しかも、その理由こそが『カラマーゾフの兄弟』という作品の核心でもあることを。 そういうわけで、ゾシマ長老がアリョーシャに修道院から出て俗世間で生きるようにいうのは、自己に淫した最先端=亀山郁夫のいうような「危険な資質」だの「欠陥」のゆえではなく、まして「修道院にとどまれば、並みの修道僧に堕するしかないという真剣な危惧」なんていう馬鹿馬鹿しい理由でもなければ、「俗世に出て穢れを知れ」なんて消極的なものでもなく、まったく正反対の積極的な理由からです。アリョーシャは、修道院に置いておくのはもったいないほどの立派な資質 ── 自己に淫しているひとたちの、自己に淫しているがゆえの苦しみを解いてやり、そういうひとびとを結び合わせる ── を備えており、俗世間において「実行的な愛」を行なうのにこそふさわしいとゾシマ長老は考えたんです。 |