連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない


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 さらにもうひとつ。

「それとそっくり同じことを、と言ってももうだいぶ前の話ですが、ある医者がわたしに語ってくれたものです」長老が言った。「もう年配の、文句なしに頭のいい人でしたがの。あなたと同じくらい率直に話してくれましたよ。もっとも、冗談めかしてはいたものの、悲しい冗談でしたな。その人はこう言うんです。自分は人類を愛してはいるけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別の人は風邪をひいていて、のべつ洟をかむという理由だけで、わたしは憎みかねないのだ。わたしは人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代りいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体の対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。と、その人は言うんですな」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなきゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」
「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです」
(同)

 右の「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです」での「人間の顔」とは何でしょう? それがなぜ「しばしば愛の妨げになる」んでしょう? これについては、だいぶ前に私は四苦八苦しながら、いろいろしゃべりましたけれど、ここでも、萩原俊治氏のいう「自尊心の病」を想起してもらえばいいんです。つまり、「自尊心の病」を抱えているひとにとって、他人の「人間の顔」は、これまたその他人の「自尊心の病」の目に見える形に他ならないわけです。自分と他人との「自尊心の病」は互いに争います。だから、「しばしば愛の妨げになる」んです。ここで問題にされているのは「自尊心の病」です。「自尊心の病」が軽症であればあるほど、自己に淫する程度が小さければ小さいほど、人間どうしはより理解し合い、結び合うことができるわけです。これを理解してもらったうえで、次の引用を読んでもらえますか?

「わたしがあの御仁のところへお前を遣わしたのも、アリョーシャ、弟であるお前の顔が助けになればと思ったからなのだ。しかし、すべては神の御心しだい。何もかもがわれわれの運命なのだからの。『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の麦のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』これをよくおぼえておくとよい。アレクセイ、これまでに私は幾度となく心の中で、お前をその顔ゆえに祝福してきたものだ、このことも知っておいてほしい」長老は静かな微笑をうかべて語りつづけた。「わたしはお前のことをこんなふうに考えているのだよ。お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけることだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえ、お前を愛することになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ。お前はそういう人間なのだ。神父諸師」感動の微笑をうかべながら、長老は客たちに話しかけた。「これまで一度もわたしは、なぜこの青年の顔がわたしの心にそれほどなつかしいものに思われるかを、当人にさえ話したことはないのです。今はじめてお話ししましょう。実はわたしにとって、この青年の顔は注意の喚起か予言にひとしいものだったのです。わたしがまだ子供だった、人生の暁に、兄がいたのですが、その兄はわたしの目の前で、わずか十七歳の若さで死んでしまいました。その後、人生の道を歩みすすむにつれて、しだいにわたしは、この兄こそわたしの運命にとって神の指示か天命のようなものだったのだと、確信するようになったのです。なぜなら、もしわたしの人生にこの兄が現われなかったら、この兄がまったく存在しなかったら、おそらくわたしは決して僧位を受けることも、この尊い道に足を踏み入れることもなかったにちがいないと、思うからです。この最初の出現はまだわたしの少年時代のことでしたけれど、もはや老いの坂も終り近くになって、その再現ともいうべきものが目のあたりに現われたのですよ。ふしぎなことに、神父諸師、アレクセイは顔だちはさほど兄に似ているわけではなく、ほんの少し似通っている程度ですが、精神的には兄とあまりにもそっくりなので、わたしは何度もそれこそ、青年だった兄がわたしの人生の終りにあたって、一種の回想と洞察のためにひそかに訪れてくれたのだと思いこんだりしましての、そんな自分やそんな奇妙な夢想にわれながらおどろいたほどなのです」
(同)

 ここで、アリョーシャの顔が「さほど兄に似ているわけではなく、ほんの少し似通っている程度」であること、両者の共通点が実は「精神的には兄とあまりにもそっくり」であること、つまり、両者の「精神的」なものが両者の「顔」に現われていることを思い浮かべてください。両者の「顔」は、自己に淫していない淫すまいとしている人間の「顔」です。
 この「顔」は、ミウーソフにこんなことをいわせる人間のものでしょう。

「ひょっとすると彼は、人口百万の見知らぬ都会の広場にいきなりただひとり、無一文で置き去りにされても、決して飢えや寒さで滅びたり死んだりすることのない、世界でたった一人の人間かもしれないね。なぜって、あの男ならすぐさま食事や落ちつき場所を与えられるだろうし、かりに与えられないとしても、自分からさっさと落ちつき場所を見つけるだろうよ。しかも、彼にとってはそれが何の努力や屈辱にも値しないのだし、落ちつかせてやった相手にとっても少しも重荷にならぬばかりか、むしろ反対に喜びに感じられるかもしれないんだからね」
(同)

 ここでも問題は「自尊心の病」です。当人の「自尊心の病」の程度でもあるし、他の人間のそれでもあります。自己に淫していない淫すまいとするこの作品の主人公は、自己に淫している他の人物たちからも歓迎されるほどの人物なんです。この主人公が自己に淫している他人から敵視されるのは、その他人の自己への淫しかたに特別な接触 ── その他人の自己への淫しかたを砕こうとする ── を試みたときだけです(便利なことに、自己に淫していて、アリョーシャに痛いところを突かれた人たちは彼を追い払うのにこういえばいいんです ── 「神がかり行者」)。

 そうして、『カラマーゾフの兄弟』において最も自己に淫した人物が、まさにアリョーシャの「顔」について(それとともに自分自身について)、こういっていました。

「お前ならあいつを追い払えたろうにさ。いや、お前が追い払ったんだ。お前が現われたとたんに、あいつは姿を消したもの。俺はお前の顔が好きだよ、アリョーシャ。俺がお前の顔を好きだってことを、知っていたか? でも、あいつは俺なんだ、アリョーシャ、俺自身なんだよ。俺の卑しい、卑劣な、軽蔑すべきもののすべてなのさ!」
(同)

 イワンの「悪魔」は彼の「自尊心の病」の産物です。最大限にまで「自尊心の病」に憑かれたイワン本人が、「悪魔」を「追い払った」のを、アリョーシャの「顔」に帰すわけです。アリョーシャの「顔」こそ自己に淫していない淫すまいとする人間の顔なんです。

 もう一度、ゾシマ長老のことばから。

「わたしはお前のことをこんなふうに考えているのだよ。お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけることだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえ、お前を愛することになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ。お前はそういう人間なのだ」
(同)

 自分の受けたこのことばを、アリョーシャはコーリャに与えますね。

「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸な人になるでしょうよ」突然どういうわけか、アリョーシャが言った。
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね!」すぐにコーリャが相槌を打った。
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ」
(同)

 その前にどんな会話が交わされていたか?

「ああ、カラマーゾフさん、僕はとても不幸なんです。僕はときおり、みんなが、世界じゅうの人間が僕を笑っているなんて、とんでもないことを想像するんですよ、そうすると、ただもういっさいの秩序をぶちこわしたい気持になるんです」
「そして、まわりの人を苦しめるんですね」アリョーシャが微笑した。
「そして、まわりの人を苦しめるんです、特に母を。カラマーゾフさん、言ってください、今の僕はひどくこっけいですか?」
(同)

 この直後のアリョーシャのことばを、私はだいぶ以前、フョードルの死後、イワンが作品に再登場するためにどのような描きかたがされたか、また、「あなたじゃない」がなぜ作品のなかのあの位置にあるのかを説明する文章で引用していました。

「そんなことを考えるのはおやめなさい、全然考えないことです!」アリョーシャが叫んだ。「それに、こっけいがどうだと言うんですか? 人間なんて、いったい何度こっけいになったり、こっけいに見えたりするか、わからないんですよ。それなのに、この節では才能を備えたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです」
(同)

「こっけいを恐れる」のは「自尊心の病」のゆえです。自己に淫している人間は「こっけいを恐れ」ます。そうして、イワンがどれほど「こっけいを恐れ」ているのかということについて、私はさんざんしゃべってきたつもりです。「こっけいを恐れ」る彼は「こっけい」ではなく、「ダイヤモンド」でありたいんです。

 まだ引用をつづけます。

「僕はただ、君がそんなに早くそのことを感じはじめたのに、おどろいているんですよ。もっとも、僕はもうだいぶ前から、そういうのが君だけじゃないことに気づいてましたけどね。この節では子供にひとしい人たちまで、その問題で悩みはじめてますよ。ほとんど狂気の沙汰ですね。悪魔がそうした自負心の形をかりで、あらゆる世代に入りこんだんです、まさしく悪魔がね」ひたと見つめていたコーリャがふと思いかけたのとは違って、アリョーシャはまるきり笑いを見せずに付け加えた。「君もみんなと同じですよ」アリョーシャはしめくくった。「つまり、大多数の人と同じなんです。ただ、みんなと同じような人になってはいけませんよ、本当に」
「みんながそういう人間でもですか?」
「ええ、みんながそういう人間でも。君だけはそうじゃない人間になってください。君は事実みんなと同じような人間じゃないんだから。現に君は今、自分のわるい点やこっけいな点さえ、恥ずかしがらずに打ち明けたじゃありませんか。今の世でいったいだれが、そこまで自覚していますか? だれもいませんよ。それに自己批判の必要さえ見いださぬようになってしまったんです。みなと同じような人間にならないでください。たとえ同じじゃないのが君一人だけになってもかまわない、やはりああいう人間にはならないでください」
(同)

 イワンの再登場の前に右の会話のあることには非常に大きな意味があります。自己に淫していない淫すまいとするアリョーシャが、早くも自己に淫していはするけれど、いまのうちに方向修正を施してやれば、やがて「実行的な愛」をなす人間になるはずのコーリャにそう話したんです。そのアリョーシャがコーリャの内に認めているのは、自分自身です。

 また、アリョーシャはリーザとの会話のなかでこんなこともいっていました。

「世間の人たちに関するあなたの言葉には、いくぶんかの真実がありますね」アリョーシャが低い声で言った。
「まあ、そんな考えを持っているの!」リーザが感激して叫んだ。「お坊さんだというのに! あなたは信じないでしょうけど、あたしとってもあなたを尊敬するわ、アリョーシャ、それはね、あなたが決して嘘をつかないからよ。ああ、あなたにあたしの見たおもしろい夢を話してあげるわ。あたし、時々、悪魔の夢を見るの。なんでも夜中らしいんだけど、あたしは?燭をもってお部屋にいるのね。そうすると突然、いたるところに悪魔が出てくるのよ。どこの隅にも、テーブルの下にも。ドアを開けると、ドアの外にもひしめき合っていて、それが部屋に入ってきてあたしを捕まえようと思ってるんだわ。そして、すぐそばまでやってきて、今にも捕まえそうになるの。あたしがいきなり十字を切ると、悪魔たちはみんなこわがって、あとずさるんだけど、すっかり退散せずに、戸口や隅々に立って、待ち構えてるのよ。ところがあたしは突然、大声で神さまの悪口を言いたくてたまらなくなってきて、悪口をいいはじめると、悪魔たちはふいにまたどっとつめかけて、大喜びしながら、またあたしを捕まえそうになるんだわ。そこでまた突然十字を切ってやると、悪魔たちはみんな退却していくの。すごくおもしろくて、息がつまりそうになるわ」
「僕もよくそれとまったく同じ夢を見ますよ」だしぬけにアリョーシャが言った。
「ほんと?」リーザがおどろいて叫んだ。「ねえ、アリョーシャ、からかわないで。これはひどく重大なことよ。違う二人の人間がまるきり同じ夢を見るなんてこどが、ほんとにあるかしら?」
「きっとあるでしょうよ」
「アリョーシャ、はっきり言うけれど、これはひどく重大なことよ」リーザは何かもはや極度の驚きにかられて、言葉をつづけた。「重大なのは夢じゃなくて、あなたがあたしとまったく同じ夢を見ることができたという点なのよ。あなたはあたしに決して嘘をつかないんだから、今も嘘を言ったりしないでね。それ、本当? からかってるんじゃないの?」
「本当ですとも」
 リーザは何事かにひどく心を打たれ、三十秒ほど黙りこんだ。
「アリョーシャ、時々あたしのところに来てね、もっとひんぱんに来て」突然祈るような声で彼女は言った。
(同)

 自己に淫していない淫すまいとするアリョーシャが、自己に淫している人物に対して、彼らが自己に淫しないようにするために接触するとき、そのアリョーシャは、彼らがどのように自己に淫しているかを知っていなくてはなりません。アリョーシャには、彼らの自己に淫した状態がどういうものかわかっていなくてはなりません。先にいったように、ひとは「自尊心の病」から全快することなどありません。多かれ少なかれ、誰もが「自尊心の病」に憑かれています。アリョーシャも例外ではありません。ただ、彼は自分の「自尊心の病」に気がついているんです。そこで、彼は自分の「自尊心の病」に照らして、他の誰彼の「自尊心の病」を推し測ることになります。アリョーシャの自覚では、彼自身相当に深い「自尊心の病」に憑かれています。彼も「カラマーゾフ」だからです。そうして、「カラマーゾフ」であることが、他の誰彼の「自尊心の病」を把握するときにとても役に立つわけです。「カラマーゾフ」とは、「自尊心の病」の最悪のものだからです(と同時に、もし自らの「自尊心の病」に気づいた場合には、「実行的な愛」をなすために最高のものでもあります)。そうして、リーザが祈るような声で「アリョーシャ、時々あたしのところに来てね、もっとひんぱんに来て」というのは、アリョーシャが彼女同様の懐疑 ── 自己に淫しているがゆえの ── を抱いているにもかかわらず、自己に淫すまいとしている実例として彼女の前に立っているからです。つまり、この実例が目の前にあるならば、彼女自身も懐疑 ── 自己に淫しているがゆえの ── に重量をかけなくていいということになるかもしれないからです。アリョーシャはリーザにとっての希望になります。いいですか、アリョーシャが自らの「自尊心の病」に気づいていなければ、このように他の誰彼の「自尊心の病」に対することはできないんですよ。

 そのように、アリョーシャはイワンについても、自己に淫した読者たちが想像するよりはるかに多くのことを理解しています。アリョーシャにはイワンの抱いている認識の正しいことはわかっています。イワンのいう「神の創った世界」の数々の不正はそのまますっかりわかっています。

「ええ、本当のロシア人にとって、神はあるか、不死は存するのかという問題や、あるいは兄さんが今言ったように、反対側から見たそれらの問題は、もちろん、あらゆるものに先立つ第一の問題ですし、またそうでなければいけないんです」
(同)

 アリョーシャには、イワンの話す「大審問官」が何を示しているのかがすっかり理解できています。理解できてはいますが、アリョーシャはイワンと違って、そういう思想を理解する自分自身から距離を置こうとします。自分が他の誰に対しても罪がある、自分こそが最も罪深い人間であるという自覚があり、自分に自分や世界の価値や意味を決定する権利などないこと・自分にできるのは、そうやって自分や世界の価値や意味を決定することではなくて、ただひたすら他の誰彼のためにこの自分の身を投げ出すことでしかないと知っているんです。自己に淫した人間的な価値観からは「無意味」・「無駄」・「徒労」かもしれないことが、神の視点からすると「豊かに実を結ぶようになる」ことを知っているんです。

 さあ、そろそろいいでしょう。これで、私の「この一連の記述全体(これまでのものはもちろん、これからの分をも含んで)の見取り図」の提示を終わりにしようと思います。

 最後に、萩原氏の「ドストエフスキーと二つの不平等」から長い引用をしておきます。

 しかし、その後、マルケルと同じようにドストエフスキーは回心する。なぜ、回心したのか。これも既に述べたように、それは自分の存在が無であることに気づき、自分が自分を創り出した神のものであることが明らかになったからだ。私たちは死んだときはもちろん、生きているときも常に、無になって神のもとに還っていかなければならない。これが謙遜というものだった。従って、回心した者にとっては、不完全な私たちが、お互い助け合いながら謙遜のうちに生きなければならないということは明白な真理なのである。このとき回心した者にとっては絶対的平等が実現する。なぜなら、百歳を越えて生きる人も生まれてすぐ死ぬ人も、障害をもって生まれた人も健康な人も、醜い人も美しい人も、赤貧の中で生きた人も安穏な生活を送った人も、頭の良い人も悪い人も、平和の中で生きた人も戦争の中で生きた人も、すべて無に還るという意味で平等なのであるから。
 しかし、このような平等観に立つということは、回心していない人々が引き起こす争いに苦しむということに他ならない。なぜなら、回心した者は自分の神中心主義な立場を捨て、特定の誰かの味方になるということができないからだ。たとえば、そのような者は農奴制を容認する圧制者を殺し、農奴制に苦しむ農奴たちを解放することはできない。なぜなら、神の前ではその圧制者も農奴と同じように私たちの隣人であり、農奴と同じように無にすぎないからだ。私たちは隣人を殺すことはできないし、無である私たちに誰かを殺す権利もない。そのような権利を持つのは神だけだ。従って、絶対的平等の立場に立つ者は、暴力革命を否定しなければならない。ということになれば、謙遜を明白な真理とする回心した者こそ、圧制者にとってもっとも都合のよい存在になる。
 こうして二つの明白な真理、すなわち、革命と謙遜とが対立する。革命を明白な真理とする者にとって、謙遜を明白な真理とする者とは、打ち倒すべき敵に味方する者に他ならない。一方、謙遜を明白な真理とする者にとって、革命を明白な真理とする者とは、神を恐れぬ人間中心主義に陥った者に他ならない。従って、以上二つの明白な真理を容認する者は、その二つの真理によって実現される二つの平等を同時に実現することができない。そして、いつもこの二つの明白な真理によって引き裂かれてしまう。
 このような解決不可能なジレンマに捉えられたのがマルケルであり、ドストエフスキーなのだ。だから、いっそのこと回心しなければよかったのだ。そうすれば、チェルヌイシェフスキーやマルクスのように単純な革命家になって生涯を全うすることができただろう。いや、そんなことはない。マルケルは死の直前回心し、信仰によって安心立命を獲得したではないか、という人がいるかもしれない。しかし、そんなことを言う人は謙遜という明白な真理を理解していない。謙遜という明白な真理の裡に生きるとは、自分を神に属している無と認めることにすぎない。それは信仰によって自分を守り、安心立命を獲得することではない。また、そんなものは信仰ではなく現実逃避にすぎない。そのようなマルクスに非難されるような現実逃避を信仰と錯覚する者もいるかもしれないが、少なくともマルケルはそのような人物ではない。なぜなら、彼は「流刑中のある政治犯」に会うことによって、いったんは信仰を失ったからだ。マルケルが自分の隣人の不幸を黙って見過ごすことができる者ではないということは明らかだ。このため、彼は病を得、回心したあとも、回心が誰にでもできることではないと知りながら、召使いたちに「誰だってお互いに仕え合わなければならないんだからね」と言うのである。マルケルが二つの真理に引き裂かれたまま生を閉じたことは明らかだ。
 この二つの明白な真理に引き裂かれたマルケルの意志はそのままゾシマに伝わり、それがアリョーシャに伝わる。詳しく説明する余裕はないが、『カラマーゾフの兄弟』を素直に読めば、そのことは誰にも分かるはずだ。従って、A・C・スヴォーリンが伝えているように、アリョーシャが『カラマーゾフの兄弟』第二部で、革命家になり、罪を犯し、処刑される、という構想をドストエフスキーが抱いていたとしても不思議ではない。透徹した知性と健全な理性をもったドストエフスキーにおいて、生涯、この二つの明白な真理に引き裂かれた自己は収拾のつかないものであったし、収拾のつくものであってはならなかった。

 萩原俊治氏の一連の文章がなければ、私は自分のこれまでしゃべってきたことを、自分でここまで明確に認識することができませんでした。萩原氏に感謝します。

(二〇一〇年十一月十四日)