「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない 7 さらにもうひとつ。
右の「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです」での「人間の顔」とは何でしょう? それがなぜ「しばしば愛の妨げになる」んでしょう? これについては、だいぶ前に私は四苦八苦しながら、いろいろしゃべりましたけれど、ここでも、萩原俊治氏のいう「自尊心の病」を想起してもらえばいいんです。つまり、「自尊心の病」を抱えているひとにとって、他人の「人間の顔」は、これまたその他人の「自尊心の病」の目に見える形に他ならないわけです。自分と他人との「自尊心の病」は互いに争います。だから、「しばしば愛の妨げになる」んです。ここで問題にされているのは「自尊心の病」です。「自尊心の病」が軽症であればあるほど、自己に淫する程度が小さければ小さいほど、人間どうしはより理解し合い、結び合うことができるわけです。これを理解してもらったうえで、次の引用を読んでもらえますか?
ここで、アリョーシャの顔が「さほど兄に似ているわけではなく、ほんの少し似通っている程度」であること、両者の共通点が実は「精神的には兄とあまりにもそっくり」であること、つまり、両者の「精神的」なものが両者の「顔」に現われていることを思い浮かべてください。両者の「顔」は、自己に淫していない・淫すまいとしている人間の「顔」です。 この「顔」は、ミウーソフにこんなことをいわせる人間のものでしょう。
ここでも問題は「自尊心の病」です。当人の「自尊心の病」の程度でもあるし、他の人間のそれでもあります。自己に淫していない・淫すまいとするこの作品の主人公は、自己に淫している他の人物たちからも歓迎されるほどの人物なんです。この主人公が自己に淫している他人から敵視されるのは、その他人の自己への淫しかたに特別な接触 ── その他人の自己への淫しかたを砕こうとする ── を試みたときだけです(便利なことに、自己に淫していて、アリョーシャに痛いところを突かれた人たちは彼を追い払うのにこういえばいいんです ── 「神がかり行者」)。 そうして、『カラマーゾフの兄弟』において最も自己に淫した人物が、まさにアリョーシャの「顔」について(それとともに自分自身について)、こういっていました。
イワンの「悪魔」は彼の「自尊心の病」の産物です。最大限にまで「自尊心の病」に憑かれたイワン本人が、「悪魔」を「追い払った」のを、アリョーシャの「顔」に帰すわけです。アリョーシャの「顔」こそ自己に淫していない・淫すまいとする人間の顔なんです。 もう一度、ゾシマ長老のことばから。
自分の受けたこのことばを、アリョーシャはコーリャに与えますね。
その前にどんな会話が交わされていたか?
この直後のアリョーシャのことばを、私はだいぶ以前、フョードルの死後、イワンが作品に再登場するためにどのような描きかたがされたか、また、「あなたじゃない」がなぜ作品のなかのあの位置にあるのかを説明する文章で引用していました。
「こっけいを恐れる」のは「自尊心の病」のゆえです。自己に淫している人間は「こっけいを恐れ」ます。そうして、イワンがどれほど「こっけいを恐れ」ているのかということについて、私はさんざんしゃべってきたつもりです。「こっけいを恐れ」る彼は「こっけい」ではなく、「ダイヤモンド」でありたいんです。 まだ引用をつづけます。
イワンの再登場の前に右の会話のあることには非常に大きな意味があります。自己に淫していない・淫すまいとするアリョーシャが、早くも自己に淫していはするけれど、いまのうちに方向修正を施してやれば、やがて「実行的な愛」をなす人間になるはずのコーリャにそう話したんです。そのアリョーシャがコーリャの内に認めているのは、自分自身です。 また、アリョーシャはリーザとの会話のなかでこんなこともいっていました。
自己に淫していない・淫すまいとするアリョーシャが、自己に淫している人物に対して、彼らが自己に淫しないようにするために接触するとき、そのアリョーシャは、彼らがどのように自己に淫しているかを知っていなくてはなりません。アリョーシャには、彼らの自己に淫した状態がどういうものかわかっていなくてはなりません。先にいったように、ひとは「自尊心の病」から全快することなどありません。多かれ少なかれ、誰もが「自尊心の病」に憑かれています。アリョーシャも例外ではありません。ただ、彼は自分の「自尊心の病」に気がついているんです。そこで、彼は自分の「自尊心の病」に照らして、他の誰彼の「自尊心の病」を推し測ることになります。アリョーシャの自覚では、彼自身相当に深い「自尊心の病」に憑かれています。彼も「カラマーゾフ」だからです。そうして、「カラマーゾフ」であることが、他の誰彼の「自尊心の病」を把握するときにとても役に立つわけです。「カラマーゾフ」とは、「自尊心の病」の最悪のものだからです(と同時に、もし自らの「自尊心の病」に気づいた場合には、「実行的な愛」をなすために最高のものでもあります)。そうして、リーザが祈るような声で「アリョーシャ、時々あたしのところに来てね、もっとひんぱんに来て」というのは、アリョーシャが彼女同様の懐疑 ── 自己に淫しているがゆえの ── を抱いているにもかかわらず、自己に淫すまいとしている実例として彼女の前に立っているからです。つまり、この実例が目の前にあるならば、彼女自身も懐疑 ── 自己に淫しているがゆえの ── に重量をかけなくていいということになるかもしれないからです。アリョーシャはリーザにとっての希望になります。いいですか、アリョーシャが自らの「自尊心の病」に気づいていなければ、このように他の誰彼の「自尊心の病」に対することはできないんですよ。 そのように、アリョーシャはイワンについても、自己に淫した読者たちが想像するよりはるかに多くのことを理解しています。アリョーシャにはイワンの抱いている認識の正しいことはわかっています。イワンのいう「神の創った世界」の数々の不正はそのまますっかりわかっています。
アリョーシャには、イワンの話す「大審問官」が何を示しているのかがすっかり理解できています。理解できてはいますが、アリョーシャはイワンと違って、そういう思想を理解する自分自身から距離を置こうとします。自分が他の誰に対しても罪がある、自分こそが最も罪深い人間であるという自覚があり、自分に自分や世界の価値や意味を決定する権利などないこと・自分にできるのは、そうやって自分や世界の価値や意味を決定することではなくて、ただひたすら他の誰彼のためにこの自分の身を投げ出すことでしかないと知っているんです。自己に淫した人間的な価値観からは「無意味」・「無駄」・「徒労」かもしれないことが、神の視点からすると「豊かに実を結ぶようになる」ことを知っているんです。 さあ、そろそろいいでしょう。これで、私の「この一連の記述全体(これまでのものはもちろん、これからの分をも含んで)の見取り図」の提示を終わりにしようと思います。 最後に、萩原氏の「ドストエフスキーと二つの不平等」から長い引用をしておきます。
萩原俊治氏の一連の文章がなければ、私は自分のこれまでしゃべってきたことを、自分でここまで明確に認識することができませんでした。萩原氏に感謝します。 |