連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「とつぜん甲高い銃声が聞えてきた」


 二〇一二年八月二十五日、私の勤める書店にも最先端=亀山郁夫著『謎とき『悪霊』』の配本がありました。一冊だけ。ということは、大した刷り部数じゃありません(そのまま絶版となりますように! いやいや、回収してくれ!)。その一冊を私が買いました。まだぱらぱらとしか読んでいませんが、もちろん最先端=亀山郁夫は最先端のまま突っ走っています。ぱらぱらとしか読んでいないにもかかわらず、私はすでに突っ込みたいところをどっさり見つけているんですが、まあ、それらはおいおい、のんびりだらだらと詳述することにして、いまは一点だけメモのようにして書いておきたいと思います。

 最先端=亀山郁夫がキリーロフの死の場面を語るところで自分の翻訳(光文社古典新訳文庫)から引用しているわけなんですが、次の通りです。

「キリーロフの肩に触れようとしたその瞬間、相手はすばやく首を傾げ、頭でそのろうそくをピョートルの手から叩きおとした。燭台は音を立てて床に転げおち、ろうそくの火は消えた。その瞬間、ピョートルは左手の小指に怖ろしい痛みを感じた。 …… やっとのことで指を引きはなした彼は、暗闇のなかを手さぐりしながら一目散に家の外に駆けだした。その彼を追いかけるようにして、怖ろしい叫び声が部屋のなかから聞えてきた。
『いまだ、いまだ、いまだ、いまだ …… 』
 同じ叫び声が、十回ほどもつづいた。だが、ピョートルはなおも走りつづけ、すでに玄関口に出ようとしたところで、とつぜん甲高い銃声が聞えてきた」

(亀山郁夫『謎とき『悪霊』』 新潮選書)

 おいおい! 何だ、この ──

 
「とつぜん、甲高い銃声が聞えてきた」

 ── っていうのは! ええ?

 
「銃声」が「聞えてきた」のかよ!

 さすが
「あなたの前には、ほとんど越えがたい深い淵が立ちはだかっている」の翻訳者だ! 素晴らしいねえ! 

 同じ箇所を、同じ省略をしながら、先行訳から引用してみます。

 彼がキリーロフに触れるか触れないうちに、相手はふいに頭を沈め、その頭で彼の手から蝋燭を叩き落してしまった。燭台ががらんがらんと音を立てて床にころがり、灯は消えた。その同じ瞬間に、彼は自分の左手の小指にはげしい痛みを感じた。 …… ようやくのことで彼は指をもぎ放すと、暗闇の中を手で探りながら、後も見ずに外へ駆けだした。その後を追って、恐ろしい叫び声が部屋の中からとんできた。
「いますぐ、いますぐ、いますぐ、いますぐ …… 」
 十度ほども立てつづけだった。しかし彼はいっさんに走りつづけ、もう玄関口まで走り出たとき、ふいに高らかな銃声が聞えた。

(ドストエフスキー『悪霊』 江川卓訳 新潮文庫)

(二〇一二年八月二十七日)