連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



「マイ古典をつくろう!」 ── 齋藤孝『古典力』


 二〇一二年十月二十日、私の勤める書店に岩波新書の新刊が入荷しました。そのうちの一点が齋藤孝による『古典力』で、書棚をバックに著者の笑顔のカラー写真を使った帯には「マイ古典をつくろう!」とあります。この本はいわゆる「古典」といわれる名作の読書ガイドという体裁をとっています。
 ぱらぱらとページをめくっていると、こういう文章がありました。

 カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー
 これぞ最高峰の総合小説。これを読まずして文学を、いや人間を語るなかれ。この最高に面白くて深い傑作を読破するのが最もコストパフォーマンスもいい。「カラマーゾフ家の好色な父をだれが殺したのか」という推理サスペンス的興味で読者を引っ張りつつ、深い問いの森へと読者を誘いこむ。
 人間の生とは何か、欲望とどう向き合うか、神はいるのか、傷ついた魂は癒されるか、父と子とは、人間の真心・良心とは、希望はどこにあるのか。答えは一つではない。気質も立場も価値観も異なる登場人物たちが、猛烈な勢いでぶつかり合い、対話しまくる。一人ひとりが「過剰な人間」であり、それが総当り戦で激突し合う。
 放出されている総エネルギー量において、古今随一だ。それぞれが心の地下室を持ち、その地下室のエネルギーが、人との出会いで噴出する(『地下室の手記』参照。自意識とは何かがわかる)。バフチンのいう「ポリフォニック(多声的)」で「カーニバル」的な場が生まれる。自意識を持ち、自分の世界観を持つ者が対話のバトルロワイヤルをくり広げる。読者は過剰な人々の祝祭空間にまきこまれ、人間の深みにはまる。読書はもはや体験となる。
 主人公は新たなキリストの可能性を秘める青年アリョーシャ。好色で恥知らずの父フョードル(最低でサイコー)、荒々しく情熱的な長兄ドミートリィ、無神論者で革命を企てる次兄イワン。まったく異なる三人だが、三男アリョーシャには心を開く。カラマーゾフとは黒く塗られた欲望だ(江川卓『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』参照)。女好きと強欲と神がかり。これがカラマーゾフだ。
 ドミートリィは、情欲にまみれ屈辱的な状態で頭からまっさかさまに堕落することこそ本望だ、「俺はカラマーゾフだからさ」という。アリョーシャもまた、「僕だってカラマーゾフですからね」という。読後、私たちは自分の中のカラマーゾフ的な要素を見ることになる。あるいはその要素の欠乏を残念に思うかもしれない。
 カラマーゾフに火を点ける女、グルーシェニカの魅力はすさまじい。父も息子もやられる。「あれは虎だわ!」とカテリーナが叫ぶ場面は必見。二人の対決場面を大阪のおばちゃん数百人と音読したが異常に盛り上がった。二等大尉と息子のイリューシャは切ない。金を踏みつける場面は最高。「お前のもたらした自由は人間には重荷だった」とイエス(の生まれ変わり)に問う大審問官の章は不滅。絶望したアリョーシャが大地から立ち上がる場面には震えた。希望あふれるラスト。名場面は数知れないが、これがメインメッセージだ。
「人生の意味より、人生そのものを愛せ!」

(齋藤孝『古典力』 岩波新書)

 この本の第三章「マイ古典にしたい名著五〇選」の筆頭が『カラマーゾフの兄弟』です。ちなみに巻末の「本書で取り上げられた作品ならびに索引」 ── (すでに品切れになっている書物も入っている。複数の文庫に入っている作品が多数あるが、網羅していない) という注のついた ── にあるのは最先端=亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫のみ。

「この最高に面白くて深い傑作を読破するのが最もコストパフォーマンスもいい。」という文はぜひ齋藤孝自身に「声に出して」読んでほしいと思いました。それにしても「コストパフォーマンス」ねえ。

 そこから、もっと前の方のページを見てみると、ありました、ありました。

 新訳による再発見
 現在日本では古典新訳ブームが起こっている。現代の感覚に合った訳で古典を読みやすく、という傾向は、時代が古典を求めていることの表れだ。
 日々情報にあふれかえり、速い速度で過ぎ去る日常の中で、「もっとたしかなものに触れて落ちつきたい」、「自分の拠りどころとなるものに出会いたい」という思いが、多くの人の胸に湧いているのだろう。その湧きあがる、不安とあこがれの入りまじった思いを受け止めてくれるのが、古典だ。
 二〇〇六年から新訳として出版された亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』が百万部を超えるベストセラーとなったことに、私は大きな希望を感じた。すでに優れた訳が複数ある状況で、世界最高の小説とされる長大な作品がミリオンセラーになるとは、ドストエフスキーも驚くであろう奇跡だ。長年の研究に基づいた優れた新訳によって古典に現代の息吹が吹き込まれる。古典は何度もよみがえるのだ。
 訳を複数読み比べることで、古典の姿がより明確になる。「この訳が自分にはぴったりだ」と思える訳に出会えた時の喜びは大きい。読み比べができる、充実した出版文化の現状に感謝しつつ、古典の不滅の生命力に改めて驚嘆する。
 古典は、読者が一人で静かに向き合うことの多い相手ではあるが、研究者による手引きがある方がより理解に至りやすい。研究が進むと、古典に新たな解釈が加わり、その古典の評価も変化する。百年以上高く評価されずに埋もれていた本が名著として見直され、古典の仲間入りをしていくケースは稀ではない。
 古典に対して予備知識を持たずに、まっさらな状態で出会うのも、もちろん意味はある。先入見を持たずに古典の原文そのものから受ける印象を素直に積み重ねていくことで、「自分の読み」を深めていくやり方もある。
 しかし、実際には古典の名著の中には難解なものや現代的な解釈が必要なものが多いので、手引きとなる解説は基本的に有益だ。偏りを避けたい場合は、立場を異にする複数の解説を参考にすればいい。解説によっておよその内容理解を進めておいた上で、古典そのものの「味読」、文字通り味わいつつ読む段階に入るとストレスが少ない。

(同)

 最先端=亀山郁夫の仕事が「長年の研究に基づいた優れた新訳」だそうです。そうして、「「この訳が自分にはぴったりだ」と思える訳に出会えた時の喜び」があれば、どの翻訳を読んでもいいらしいです。

 そこから、今度はまたもうちょっと後ろのページをめくっていると、こうありました。

 正しいテキストを選ぶ
 古い書物に書かれた事柄の良さを自分のものとして吸収し、生かすにはどうしたらよいか。
 孔子は、基本書を設定し、それを覚えることを奨励した。『書経』とともに孔子門下の教科書的な書とされたのは、『詩経』であった。詩経のうちにある詩三百篇の本質を一言でいえば、「思い 邪なし(純粋)」だと、孔子は語っている。
 古典力の重要なポイントは、教科書(基本書)をきちんと選ぶということだ。基本となる本を選びまちがえると、せっかくの努力が無駄になる。大学の講義では、教師が自分の判断で教科書(基本書)を設定して、シラバスで指示することが一般的だ。その選択には責任が伴う。
 孔子はブレることなく、『詩経』を基本テキストとした。その確信の強さ、思い入れの強さが、弟子たちの古典力を育てる原動力となっている。

(同)

 え? 何ですって? 

 古典力の重要なポイントは、教科書(基本書)をきちんと選ぶということだ。基本となる本を選びまちがえると、せっかくの努力が無駄になる。大学の講義では、教師が自分の判断で教科書(基本書)を設定して、シラバスで指示することが一般的だ。その選択には責任が伴う。
(同)

 では、齋藤孝自身の「責任」はどうなっているのか? 呆れました。それとも、大笑いしたらいいんでしょうか?

 私が昨年(二〇一一年)のうちに書いて、いまだ公開していない「新訳『トーニオ・クレーガー』」についての文章に、この齋藤孝も登場していたんですが、そこから一部修正して引用しましょう。

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 齋藤孝。彼が今年二〇一一年になってからこの半年で出した本は ── 「e-hon」(http://www.e-hon.ne.jp/bec/EB/Top)によれば ── 次の通り。

『言ってはいけない! 上司と部下の禁句』、『自分の心に「奇跡のタネ」をまく人』(訳・責任編集)、『声に出して読みたい日本語 1』(文庫化)、『声に出して読みたい日本語 2』(文庫化)、『からだ上手こころ上手』、『人はなぜ学ばなければならないのか』、『こうすればもっと学校が楽しくなる』、『すすっと瞑想スイッチ』、『ブレない生き方』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 6年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 5年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 4年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 3年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 2年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 1年生』、『必ず覚える! 1分間アウトプット勉強法』、『日本のもと 学校』、『声に出して読みたい論語』、『どう生きるか、どう死ぬか 「セネカの智慧」』、『図解論語 正直者がバカをみない生き方』、『今、そこにある苦悩からの脱出』、『齋藤体操』、『齋藤孝のざっくり西洋思想』、『ピカピカ論語』、『タイガー・マザー』(訳)、『読書のチカラ』、『論語力』、『ピカピカ俳句』、『「意識の量」を燃やせ』、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』

 いいですか、この半年間での刊行数ですよ。こうした異常な出版 ── 出版社がひとりの著者に群がって書かせるし、本人もその気になって書いてしまう ── が現にまかり通ってしまうことで、齋藤孝という存在は、いまの日本の出版業界 ── いや、本をめぐる状況 ── いや、日本の文化 ── の衰退を示す大きな徴候のひとつだと思います。

 さて、この大馬鹿者=齋藤孝が右の著作群にある『読書のチカラ』で、どういうことを書いているか? 「第3章 私たちに残された叡智について」(!)から引用します。

 もう一つ、海外の古典の場合は、翻訳をどう選ぶかも重要だ。
 古典はもともとの難解さもさることながら、翻訳の仕方によってもイメージが大きく変わる。翻訳によっては、三〇年以上前の翻訳のままで、言葉遣いが硬く、印字も小さく、書体も古めかしく、一般の人にはとてもとっつきにくいものも少なくない。
 その点、たとえば難解なヘーゲルの本でも、前出の長谷川宏さんが訳されたものなら読みやすい。今風の日本語で書かれているからだ。あるいはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にしても、近年に亀山郁夫先生が訳されたものは、周知のとおり爆発的なヒットとなった。亀山先生によれば、まさに一気に読めるような文章になることを目指されたそうである。
 言い換えるなら、とっつきにくい古典であっても、読みやすい新訳になれば、多くの人が受け入れるということだ。もともと興味はあるのに、なんとなく敷居が高そうで敬遠していたのかもしれない。そんなイメージを払拭する役割を、新訳が果たしているといえるだろう。
 そのせいか、最近は「古典新訳ブーム」も起きている。光文社が数年前から刊行し続けている「古典新訳文庫」のシリーズは、その象徴的な存在だ。「新訳」というだけあって、たとえばゴーゴリの『鼻』はほとんど落語家のような口調で訳されている。もともと『鼻』はユーモアを含んだ小説なので、この試みは的外れではない。むしろこういう工夫で一気に笑って読める本に仕上がっているとすれば、大成功といえるだろう。また文学だけでなく、カントやプラトンのような思想家の著作も加えている。最終的には、今の岩波文庫や新潮文庫に匹敵するラインナップになるかもしれない。

(齋藤孝『読書のチカラ』 大和書房)

 何度でもいいますよ、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』は「三〇年以上前の翻訳」ですが、全然古びてなどいません。いまの版は活字も大きくなっています。それにひきかえ、最先端=亀山郁夫は翻訳もいいかげんのでたらめだらけ、日本語もいいかげんのでたらめだらけで、齋藤孝はこの「いいかげんのでたらめだらけ」こそが「今風の日本語」の特徴だとでも考えているのか? 私がしばらく前に引いた最先端=亀山郁夫の日本語 ── 「淵が立ちはだかっている」だの「おっしゃられてました」だの「わざと露悪的に」だの ── を、齋藤孝さん、あんたは「声に出して読」んでみろよ!

 齋藤孝さん、次のふたつの文章を「声に出して読」んでみなさいよ。

「ぼくが知っているのはひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」
「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。
「父を殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃない!」アリョーシャはきっぱりした口調で繰り返した。三十秒ほど沈黙がつづいた。
「おれじゃないことぐらい、自分でもわかってるさ、何を寝ぼけたこと言ってる?」青ざめた顔にゆがんだ笑みを浮かべて、イワンは言った。彼は食い入るようにアリョーシャの顔を見つめた。二人は、ふたたび街灯の下に立っていた。
「いいえ、イワン、あなたはなんどか、自分が犯人だと言い聞かせてきたはずです」
「いつ、おれがそんなことを言った? …… おれはモスクワにいたんだぞ …… いつ、言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。
「恐ろしかったこの二ヶ月間、あなたは一人になると、自分になんどもそう言い聞かせてきました」あいかわらず低い声で、一語一語区切りながら、アリョーシャはつづけた。とはいえその口ぶりには、もうわれを忘れ、自分の意思というより、何か逆らうに逆らえない命令にしたがっているかのような趣きが感じられた。
「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも殺したのはあなたじゃない。あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです! ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」

(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 亀山郁夫訳 光文社文庫)


「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
 三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘づけになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分自身を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない。いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」

(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 齋藤孝さん、右のいずれをあなたは「声に出して読みたい日本語」だと思いましたか? まさか最先端=亀山郁夫訳の方じゃないですよねえ? 右の場面がどんなに切迫したものであるかを、もちろんあなたはご存知のはずだ。ご存知でいながら、最先端=亀山郁夫の緊張感のない日本語の方を選ぶわけもないですよねえ? なぜあなたが右の場面についてご存知だと私が思うかといえば、私は読んでいないけれど、あなたは『ドストエフスキーの人間力』(新潮文庫)の著者でもあるものなあ。で、この文庫の紹介文によると「若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた著者ならではの洞察に満ちた人間論」だそうで? でも、あれ? この文庫の巻末で解説を書いているのは誰? あれ? 亀山郁夫? あれ?

 齋藤孝さん、もちろんあなたは最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだでしょう。それで、第五巻にある最先端=亀山郁夫の「解題」も読んだでしょう。その他にも最先端=亀山郁夫の少なからぬ著作をも読んでいるでしょう。さて、もしあなたがドストエフスキーについて「若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた」ひとなのであれば、いったいどういうわけで最先端=亀山郁夫の仕事を否定せずにいられるのか、私には理解不能です。否定しないどころか、積極的に肯定までし、加えて自分の著作の「解説」までさせてしまうとは、どういうことなのか? それとも、あなたがドストエフスキーについて「若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた」のに間違いはないけれど、全然読めていなかった ── あなたの「読書力」では読めなかった ── ということでしょうか? もし、そうでないのだとしたら、あなたは卑劣であり、卑怯だ。つまり、あなたは大馬鹿でなければ、卑怯だ。そのどちらかでしかありえない。

 齋藤孝さん、あなたに「私たちに残された叡智について」なんかを語る資格なんかありません。「私たちに残された叡智」を解体し、いいかげんのでたらめだらけに変造し、偽物の「叡智」を騙る最先端=亀山郁夫を、あなたは肯定し、「私たち」に薦めているわけです。ひどいものだ。

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(二〇一二年十月二十三日)

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