「マイ古典をつくろう!」 ── 齋藤孝『古典力』 二〇一二年十月二十日、私の勤める書店に岩波新書の新刊が入荷しました。そのうちの一点が齋藤孝による『古典力』で、書棚をバックに著者の笑顔のカラー写真を使った帯には「マイ古典をつくろう!」とあります。この本はいわゆる「古典」といわれる名作の読書ガイドという体裁をとっています。 ぱらぱらとページをめくっていると、こういう文章がありました。
この本の第三章「マイ古典にしたい名著五〇選」の筆頭が『カラマーゾフの兄弟』です。ちなみに巻末の「本書で取り上げられた作品ならびに索引」 ── (すでに品切れになっている書物も入っている。複数の文庫に入っている作品が多数あるが、網羅していない) という注のついた ── にあるのは最先端=亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫のみ。 「この最高に面白くて深い傑作を読破するのが最もコストパフォーマンスもいい。」という文はぜひ齋藤孝自身に「声に出して」読んでほしいと思いました。それにしても「コストパフォーマンス」ねえ。 そこから、もっと前の方のページを見てみると、ありました、ありました。
最先端=亀山郁夫の仕事が「長年の研究に基づいた優れた新訳」だそうです。そうして、「「この訳が自分にはぴったりだ」と思える訳に出会えた時の喜び」があれば、どの翻訳を読んでもいいらしいです。 そこから、今度はまたもうちょっと後ろのページをめくっていると、こうありました。
え? 何ですって?
では、齋藤孝自身の「責任」はどうなっているのか? 呆れました。それとも、大笑いしたらいいんでしょうか? 私が昨年(二〇一一年)のうちに書いて、いまだ公開していない「新訳『トーニオ・クレーガー』」についての文章に、この齋藤孝も登場していたんですが、そこから一部修正して引用しましょう。 ************* 齋藤孝。彼が今年二〇一一年になってからこの半年で出した本は ── 「e-hon」(http://www.e-hon.ne.jp/bec/EB/Top)によれば ── 次の通り。 『言ってはいけない! 上司と部下の禁句』、『自分の心に「奇跡のタネ」をまく人』(訳・責任編集)、『声に出して読みたい日本語 1』(文庫化)、『声に出して読みたい日本語 2』(文庫化)、『からだ上手こころ上手』、『人はなぜ学ばなければならないのか』、『こうすればもっと学校が楽しくなる』、『すすっと瞑想スイッチ』、『ブレない生き方』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 6年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 5年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 4年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 3年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 2年生』、『齋藤孝の親子で読む国語教科書 1年生』、『必ず覚える! 1分間アウトプット勉強法』、『日本のもと 学校』、『声に出して読みたい論語』、『どう生きるか、どう死ぬか 「セネカの智慧」』、『図解論語 正直者がバカをみない生き方』、『今、そこにある苦悩からの脱出』、『齋藤体操』、『齋藤孝のざっくり西洋思想』、『ピカピカ論語』、『タイガー・マザー』(訳)、『読書のチカラ』、『論語力』、『ピカピカ俳句』、『「意識の量」を燃やせ』、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』 いいですか、この半年間での刊行数ですよ。こうした異常な出版 ── 出版社がひとりの著者に群がって書かせるし、本人もその気になって書いてしまう ── が現にまかり通ってしまうことで、齋藤孝という存在は、いまの日本の出版業界 ── いや、本をめぐる状況 ── いや、日本の文化 ── の衰退を示す大きな徴候のひとつだと思います。 さて、この大馬鹿者=齋藤孝が右の著作群にある『読書のチカラ』で、どういうことを書いているか? 「第3章 私たちに残された叡智について」(!)から引用します。
何度でもいいますよ、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』は「三〇年以上前の翻訳」ですが、全然古びてなどいません。いまの版は活字も大きくなっています。それにひきかえ、最先端=亀山郁夫は翻訳もいいかげんのでたらめだらけ、日本語もいいかげんのでたらめだらけで、齋藤孝はこの「いいかげんのでたらめだらけ」こそが「今風の日本語」の特徴だとでも考えているのか? 私がしばらく前に引いた最先端=亀山郁夫の日本語 ── 「淵が立ちはだかっている」だの「おっしゃられてました」だの「わざと露悪的に」だの ── を、齋藤孝さん、あんたは「声に出して読」んでみろよ! 齋藤孝さん、次のふたつの文章を「声に出して読」んでみなさいよ。
齋藤孝さん、右のいずれをあなたは「声に出して読みたい日本語」だと思いましたか? まさか最先端=亀山郁夫訳の方じゃないですよねえ? 右の場面がどんなに切迫したものであるかを、もちろんあなたはご存知のはずだ。ご存知でいながら、最先端=亀山郁夫の緊張感のない日本語の方を選ぶわけもないですよねえ? なぜあなたが右の場面についてご存知だと私が思うかといえば、私は読んでいないけれど、あなたは『ドストエフスキーの人間力』(新潮文庫)の著者でもあるものなあ。で、この文庫の紹介文によると「若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた著者ならではの洞察に満ちた人間論」だそうで? でも、あれ? この文庫の巻末で解説を書いているのは誰? あれ? 亀山郁夫? あれ? 齋藤孝さん、もちろんあなたは最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだでしょう。それで、第五巻にある最先端=亀山郁夫の「解題」も読んだでしょう。その他にも最先端=亀山郁夫の少なからぬ著作をも読んでいるでしょう。さて、もしあなたがドストエフスキーについて「若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた」ひとなのであれば、いったいどういうわけで最先端=亀山郁夫の仕事を否定せずにいられるのか、私には理解不能です。否定しないどころか、積極的に肯定までし、加えて自分の著作の「解説」までさせてしまうとは、どういうことなのか? それとも、あなたがドストエフスキーについて「若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた」のに間違いはないけれど、全然読めていなかった ── あなたの「読書力」では読めなかった ── ということでしょうか? もし、そうでないのだとしたら、あなたは卑劣であり、卑怯だ。つまり、あなたは大馬鹿でなければ、卑怯だ。そのどちらかでしかありえない。 齋藤孝さん、あなたに「私たちに残された叡智について」なんかを語る資格なんかありません。「私たちに残された叡智」を解体し、いいかげんのでたらめだらけに変造し、偽物の「叡智」を騙る最先端=亀山郁夫を、あなたは肯定し、「私たち」に薦めているわけです。ひどいものだ。 ************* |