連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか



この三年半ほどの間に書いた文章の公開を始めます


 この次に公開する文章(昨二〇一三年十一月記)の冒頭はこうです。

 二〇一〇年十一月の『「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない』から、まるまる三年間も私はこの最先端=亀山郁夫批判の文章をほとんど公開してきませんでしたが、公開しないだけで書きつづけてはいました。

 そういうわけで、しばらくの間ネット上に ── 文庫本の字詰めで換算しておよそ六〇〇ページ分の ── 文章を連投することになります。
 この三年半の間に私の考えていたことは、あらゆる読書 ── どんな読書であろうが ── に「勇気や信念」が必要である、ということでした。いまだに増えている最先端=亀山郁夫信者 ── いろいろ批判はあるみたいだけど、読みやすいから最先端=亀山郁夫訳がおすすめ、とか、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』第五巻の「解題」は素晴らしい、とかいっているひとたち ── のすべての読書に「勇気や信念」がまったく欠けている、と私はいいます。そういうひとたちには「読書」というものが何であるのか、まるっきりわかっていません。読者である自分の「自由」とか「人間」というものがわかっていません。そればかりか、自分の「読書」を他人に伝えるということの意味もわかっていません。このひとたちは「自由」や「人間」を他人に売り渡してしまっているんですが、いま、私がいきなりこんなふうにいっても ── いや、どんなふうにいっても ── 通じないでしょう。「自由」やら「人間」やらはどうでもいいから、「パン」をくれ、ということですね。
 それにしても、何だって私はいつまでもそんなひとたちのことを考えているんでしょう? 私がそんなひとたちのことをいつから考えているかというと、この最先端=亀山郁夫批判を始めるずっと前からです。
 しかし、まあ、それはいいです。

 さて、ここでメモのようにして、いくつか引用をしてみます。

 いいかえると、なるほど知識人が民族存亡の危機に瀕した共同体を支援することには、測り知れない価値があるにしても、知識人が生存のための集団闘争に忠誠をつくすことは、批判的感覚の麻痺や、知識人の使命の矮小化につながりかねないので避けるべきなのだ。知識人にとってなすべきことは、生存の問題を超えて、政治的解放の可能性を問うことであり、指導層に批判をつきつけることであり、代替的可能性を示唆することである ── たとえ、この代替的可能性が、いつも、まぢかにひかえた戦いには無関係なものとして周辺化されたり一蹴されるとしても。
(エドワード・W・サイード『知識人とは何か』 大橋洋一訳 平凡社ライブラリー)


 ある民族が土地を失ったとか、弾圧されたとか、虐殺されたとか、権利や政治的生存を認められなかったと主張しても、同時に、ファノンがアルジェリア戦争でおこなったことをしないかぎり、つまり自分の民族をおそった惨事を、他の民族がこうむった同じような苦難とむすびつけないかぎり不十分である。これは、特定の苦難の歴史的特殊性を捨象することとはちがう。そうではなくて、ある場所で学ばれた抑圧についての教訓が、べつの場所や時代において忘れられたり無視されたりするのをくいとめるということである。そしてまた、自分の民族が舐めた辛酸を、それも自分自身が舐めていたかもしれない辛酸を表象(レプリゼント)しているからといって、自分の民族が、いま同様の犯罪行為を他の民族に対しておこない犠牲者をだしていることについて、いっさい沈黙してよいということにはならない。
(同)


 たしかに知識人にとっては、これ以上、人から嫌われる行為はあるまい。だが、たとえそうであるとしても、知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには、断固これに反対の声をあげるべきであって、それにともなう犠牲を恐れてはいけないのである。
(同)

 いま、自分でもどうして右の引用をしたのか、はっきりとはわかっていません。しかし、これらは必ず私の最先端=亀山郁夫批判に関係しているはずなんです。

 次の引用なら、わかりやすいと思います。

 私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである。たしかに、いかに風あたりが強くても、断固として筋をとおす立場というのは、それが正しいとわかっていても、なかなか真似のできないことであり、逃げたい気持ちはわかる。あなたは、あまり政治的に思われたくないかもしれない。論争好きに思われたらこまるかもしれない。欲しいのは、上司あるいは権威的人物からのお墨つきである。そのためにもあなたは、バランスのとれた考えかたの持ち主で、冷静で客観的、なおかつ穏健であるという評判を維持していたいかもしれない。あなたが望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまりつづけることである。そうすれば、いつの日か、名誉職にありつけ、大きな賞をもらい、さらには大使の職まで手に入れることができるかもしれない。
 知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。情熱的な知識人の生活が変質をこうむり、骨抜きにされ、最後には抹殺されてしまうときがあるとすれば、それは、こうした思考習慣が内面化されたときである。個人的なことをいうと、現代世界の諸問題のなかでももっともやっかいな問題のひとつであるパレスチナ問題において、わたしはこうした思考習慣にはいやというほどお目にかかっている。というのも、現代史における最大の不正のひとつについて語ることに対する恐怖が蔓延しているため、本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人びとが発言を自主規制したり、みてみぬふりや、沈黙にはしるからである。
(同)


(二〇一四年四月二十一日)

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